第六章 好きか嫌いかだ
王都を発つ日が決まると、今度は帰路の準備が始まった。
コンラートが領地へ持ち帰る書類は来たときより少し増えた。アデライードのほうは、本人の予告どおり、持参した六箱のうち四箱を聖女宮に残した。
ただし、代わりに新しい箱が三つ届いた。
「減ったな」
廊下に並ぶ箱を眺めて、コンラートは言った。
「はい」
「一箱だけな」
「持参したものは四箱減っております」
「総量の話をしている」
「それでしたら一箱ですね」
アデライードは満足そうだった。
どうやら彼女の中では、これは減ったことになるらしい。
「帰りの馬車でも読むのか」
「いくつかは」
「全部ではないんだな」
「急ぎのものだけです」
また始まった。
コンラートは箱から視線を外した。
「明日は午後に出る。午前中に必要なものを揃えておけ」
「承知いたしました」
「あと、防寒具を見に行く」
「防寒具?」
「帰りは来たときより寒い。領都へ着くころには、朝晩はかなり冷える」
「冬用の外套はございます」
「知っている。だが、こちらの冬物と北方の冬物は違う」
アデライードは黙った。
「では、必要なものだけ」
「最初からそのつもりだ」
彼女はうなずいた。
翌朝、二人は王都の商店街へ出た。
辺境伯夫妻が自ら店を回る必要はない。屋敷へ商人を呼ぶこともできたが、アデライードが必要なものを実際に見て決めたいと言ったので、外出することになった。
王都は年末を前にして人が多い。大通りには馬車が列を作り、商店の軒には冬の飾りが並んでいる。毛織物、手袋、帽子、菓子、酒。地方から持ち込まれた品も多い。
アデライードは歩きながら、店先をほとんど見ない。目的の店へまっすぐ向かう。
「寄りたいところはないのか」
コンラートが尋ねると、彼女は振り返った。
「防寒具のお店へ向かっておりますが」
「その前に何か」
「特には」
「久しぶりの王都だろう」
「先日から滞在しております」
「そういう意味ではない」
これで何度目のやり取りだろう。
コンラートは諦めた。
通りの向こうでは、若い娘が菓子店の窓を覗き込んでいる。その隣では、別の娘が飾り布を手に取っていた。アデライードも同じくらいの年齢だ。
しかし横を歩く彼女は、そういうものに目を向けない。
興味がないのか。
それとも、見る習慣がないだけなのか。
気になったが、答えは出なかった。
防寒具を扱う店は、王侯貴族にも品を納める老舗だった。店主は聖女と辺境伯が来ると聞いていたらしく、二人をすぐに奥の部屋へ通した。すでに外套と帽子、手袋、襟巻がいくつも並べられている。
「聖女猊下には、こちらなどいかがでしょう」
最初に出されたのは、白に近い淡色の外套だった。上質な生地に細かな刺繍が入り、襟と袖口には毛皮が使われている。
アデライードは布地に触れた。
「水には」
「多少でしたら」
「雪が続いた場合は?」
「長時間ですと、やはり」
「手入れは王都で?」
「専門の職人にお預けいただくのがよろしいかと」
「ヴァルデンブルクには?」
店主が一瞬詰まった。
「……王都へお送りいただければ」
「では、こちらは結構です」
早かった。
次に出てきたのは、濃紺の外套だった。
「裏地は」
「厚手の羊毛でございます」
「補修は」
「一般の仕立屋でも可能です」
「重さは?」
持ち上げて確かめ、そのまま羽織って数歩歩く。
「こちらにします」
決定まで、いくらもかからなかった。
コンラートは横で見ていた。
「それでいいのか」
「何か問題が?」
「いや」
実用品を買いに来たのだから、正しい。
正しいのだが、あまりにも迷いがない。
帽子も手袋も同じだった。色より生地、飾りより耐久性を優先し、王都でなければ修繕できないものは即座に却下して、北方の職人でも直せるものを選ぶ。店主も途中から理解したらしく、華やかな品を勧めるのをやめた。
「聖女猊下でしたら、こちらの毛皮もよくお似合いになるかと」
それでも最後に、棚から濃灰や褐色、黒の襟巻をいくつか出してきた。どれも厚みがあり、北方でも十分に使える品だった。
アデライードは濃灰のものを手に取った。
「こちらは?」
「丈夫な品でございます。多少の雪でしたら問題ございません」
「手入れも?」
「年に一度ほどで」
「では、これを」
また早い。
店主が包ませようとしたとき、アデライードの視線が、ほんの一瞬だけ横へ動いた。
棚の端に、白い毛皮が置かれていた。純白ではなく、冬毛らしい柔らかな濃淡があり、光の加減で銀色にも見える。濃灰のものより毛足が長く、触れなくても柔らかいと分かった。
アデライードはそれを見た。
そして、すぐに濃灰の襟巻へ視線を戻した。
「では、こちらでお願いいたします」
「待て」
店主の手が止まる。
「そちらも出してくれ」
「こちらでございますか」
白いものが卓上に置かれた。
アデライードがコンラートを見る。
「どうなさいました?」
「試してみろ」
「わたくしが?」
「ほかに誰がいる」
彼女は明らかに戸惑った。
「ですが、先ほどのほうが」
「いいから」
店主が毛皮を取り上げ、アデライードの首元に巻いた。
白い毛皮が、濃い髪と落ち着いた色の衣装の間に入る。
顔まわりが急に明るくなった。
聖女として人前に立つときの端正さより、年相応の柔らかさが前へ出る。
コンラートはしばらく見ていた。
やはり、絶世の美女というほどではない。目立つ顔でもない。王都の祝宴なら、もっと華やかな女性はいくらでもいる。
それでも、嫌いではない。
むしろ。
そこまで考えて、思考を止めた。
「白は汚れが目立ちます」
アデライードが言った。
「その話ではない」
「先ほどの濃灰のほうが、辺境では扱いやすいかと」
「それも分かっている」
「では?」
「気に入ったのではないのか」
アデライードが黙った。
コンラートは首元の毛皮を指した。
「さっき見ていただろう」
「見ました」
「欲しくないのか」
「防寒具としてでしたら、先ほどのほうが」
「防寒具としての話はしていない」
彼女は本当に困った顔をした。
店主が一歩下がった。賢明な判断である。
「気に入ったかと聞いた」
アデライードは白い毛皮に視線を落とした。そっと指先で触れる。毛足が沈み、手を離すとゆっくり戻る。もう一度撫でた。
「嫌いでは、ございません」
「嫌いではない、では分からない」
「……そうでしょうか」
「好きか嫌いかだ」
そんなに難しい質問をしたつもりはないのに、アデライードは考え込んだ。
「……好きなのだと思います」
ようやく答えた。
「思います?」
「はい」
「自分のことだろう」
「そうなのですが」
困ったように毛皮を見る。
コンラートは妙な気分になった。
五人の男について尋ねたときより、よほど答えに詰まっている。
「では、これも」
店主に言った。
アデライードがすぐに振り向く。
「必要ございません」
「今、好きだと言っただろう」
「防寒具は先ほどので足ります」
「これは必要だから買うのではない」
「では、なぜですか」
「君が好きだからだ」
言った。
アデライードが目を見開いた。
店主が完全に視線を逸らした。
コンラート自身も、何かがおかしいと気づくまでに一瞬かかった。
「……毛皮が、だ」
アデライードが瞬いた。
「はい」
短い返事だった。
コンラートは急に居心地が悪くなった。
「俺が贈る」
「ですが」
「辺境伯家の経費には入れない」
「わたくしは自分でも購入できます」
「知っている」
それについては、嫌というほど知っている。財産額を聞かされて以来、彼女に何かを「買ってやる」という発想そのものが成立しないことも分かっていた。
「でしたら――」
「俺が贈りたい」
アデライードが黙った。
コンラートも黙った。
店主は相変わらず、興味深そうでありながら何も聞いていない顔をしている。
「……そういうものなのでしょうか」
アデライードが小さく言った。
「何が」
「贈り物とは」
「俺に聞くな」
自分だって、よく分からない。
「ただ、君が気に入ったなら、それでいい」
アデライードはもう一度、毛皮に指を触れた。今度は、先ほどより少し長く撫でた。
「では、ありがたくいただきます」
「ああ」
「ありがとうございます、コンラート様」
そう言って、ほんのわずかに笑った。
コンラートは、自分の選択が正しかったと思った。
店を出るころには、買ったばかりの白い襟巻は包まれもせず、アデライードの首元に収まっていた。
「すぐ使うのか」
「寒うございますので」
「濃灰のものもある」
「こちらも防寒具です」
「さっきは実用的でないと言っていただろう」
「実用できないとは申し上げておりません」
「そうか」
「はい」
アデライードは真顔だった。
コンラートは、笑うのをこらえた。
ずいぶん気に入ったらしい。
通りを歩きながら、彼女は何度か、無意識に襟巻に指を触れた。何の意味もない仕草だった。
ただ、柔らかい毛皮が好きらしい。
コンラートはようやく、そんなことを一つ知った。
考えてみれば、彼はアデライードについて、仕事のことばかり知っている。どれほどの量の書類を読むか。どのくらい働くか。どういう案件に腹を立てるか。どんな制度を扱えるか。王都で誰と何をしていたか。
しかし、好きな食べ物について知っているのは、蜂蜜の焼き菓子くらいのものだった。好きな色は知らない。好きな花も知らない。何を読んで育ったのかも、子どものころ何をしていたのかも知らない。そもそも神殿へ入る前のことは、何ひとつ知らない。
九か月も同じ家で暮らしていたのに。
その事実は、五人の噂を確かめもしなかったこととは別の意味で、引っかかった。
午後、二人は王都を発った。
来たときより空は低く、風も冷たい。
アデライードは馬車に乗っても、白い襟巻を外さなかった。
「暑くないか」
「ちょうどよいです」
「そうか」
向かいに座る。馬車が動き出す。
やがて、アデライードは鞄から書類を出した。
予想どおりだった。
「七件か」
「はい」
「今日は何件読む」
「できれば三件」
「できれば?」
「道の状態によります」
「気分が悪くなったらやめろ」
「承知しております」
読み始める。
コンラートも持参した文書を出した。
そのまま、紙をめくる音と車輪の音だけが続いた。
一時間ほどして、道が荒れ始めた。
アデライードが書類を閉じる。
「終わったのか」
「二件です」
「もうやめろ」
「もう一件」
「揺れている」
「少しだけ」
「明日にしろ」
アデライードは名残惜しそうに書類を見た。
「期限は」
「三日後です」
「なら明日でいい」
「……はい」
素直にしまった。
そのまま窓の外を見る。王都の建物はすでに遠ざかり、景色は街道沿いのものに変わっていた。
アデライードが白い襟巻に頬を寄せる。
本人は気づいていないらしい。毛皮に顔を埋めるようにして、窓の外を眺めている。
本当に好きなのだ。
それを確認して、また満足した。
「何でしょう?」
視線に気づかれた。
「いや」
「何かついておりますか」
「何も」
アデライードは不思議そうにしたが、それ以上は聞かなかった。
コンラートは自分の書類に視線を戻した。
一行読む。
二行目へ進む。
なぜか口元が緩む。
咳払いをして誤魔化した。
「お風邪ですか?」
「違う」
「喉が?」
「何でもない」
「そうですか」
彼女はまた窓の外へ向いた。
コンラートは書類を読み直した。
日が傾くころには、街道はさらに静かになっていた。
この先、数日かけて北へ戻る。その道中、領都へ入る前に立ち寄る場所がひとつあった。ヴァルデンブルク家の冬の別荘だ。領都より南にあるので、帰路から大きく外れることもない。
今後アデライードも使用する可能性がある以上、一度案内しておく必要がある。建物の状態も確認しておきたかった。
帰路の日程は、王都でアデライードと二人で決めた。
そのときも、この一件だけは口にしなかった。
言い出す理由が、うまく思いつかなかったからである。
「明後日、途中で別荘へ寄る」
コンラートが言うと、アデライードが振り向いた。
「別荘?」
「冬用のものだ。領都より南にある」
「使用されているのですか」
「長くまともには使っていない」
「では、点検を?」
「ああ。それに、君にも見せておく」
「わたくしにも?」
「辺境伯夫人だろう。君にも使用権がある」
アデライードは意外そうな顔をしたあと、うなずいた。
「承知いたしました」
「一泊して、翌朝には出る」
「分かりました」
長く閉ざされていた別荘の点検と、今後そこを使うかもしれない妻への案内。
極めて実務的な予定である。
コンラートはそう考えた。
向かいでは、アデライードが白い毛皮に頬を寄せたまま窓の外を眺めている。
別荘で一晩を過ごすということについては、それ以上考えなかった。




