第五章 あの神官は正しかった
王都に着いた翌日、コンラートはアデライードとともに王城へ向かった。
彼には軍務局と王室府へ顔を出す用があり、アデライードのほうにも聖女として確認したい案件がいくつかあるという。途中までは同じ方向だった。
「午後には別行動になります」
「ああ」
「夕食は屋敷で?」
「そのつもりだ」
「では、六時ごろには戻ります」
八か月余りも一緒に暮らしているうちに、こういう会話にはすっかり慣れた。婚礼の直後であれば、聖女がどこへ行き、誰と会うのか、多少は気にしたかもしれない。今は仕事だと分かっている。
分かっているのだが。
「今日は誰かと会うのか」
「何人か」
「何人か?」
「予約を入れているのは三件です」
「男か」
アデライードがこちらを見た。
「女性もいらっしゃいます」
「そうか」
「何か?」
「いや」
別に誰と会おうと構わない。
仕事なのだから。
コンラートはそう思うことにした。
最初の一人とは、王城の控室へ向かう廊下で遭遇した。
「あ」
アデライードが小さく声を上げた。
珍しい。
何かと思って前を見ると、金髪の若い男がこちらへ歩いてくるところだった。細身で姿勢がよく、晴れた空のような青い瞳をしている。遠目にも身なりが整っていて、いかにも王都の若手高官という風情だった。
男もアデライードに気づいたのか、顔が明るくなる。
「聖女猊下」
まっすぐこちらへ歩いてくる。
コンラートは無意識に背筋を伸ばした。
五人のうちの誰かだ。
顔は知らないが、年齢と風貌からして――
隣で衣擦れの音がした。
見ると、アデライードが半歩下がっていた。
さらに半歩。
そして、ごく自然な動作でコンラートの背後に入った。
「……何をしている」
「少々」
「何が少々だ」
返事はなかった。
「聖女猊下、お久しぶりでございます」
追いついた若い男はアデライードを見ようとしたが、コンラートが間に立っているためによく見えないらしい。それでもまず、彼はコンラートに向かって丁寧に一礼した。
「ヴァルデンブルク辺境伯閣下ですね。お初にお目にかかります。宰相府で補佐官を務めております」
宰相補佐。
一人目だった。
「コンラート・フォン・ヴァルデンブルクだ」
「お噂はかねがね。聖女猊下が北方へお移りになってから、一度ご挨拶をと思っておりました」
声音に敵意はない。
それどころか、やけに好意的だった。
「聖女猊下」
宰相補佐はコンラートの肩越しに声をかける。
「お身体はいかがですか」
「問題ございません」
「お食事は」
「いただいております」
「睡眠は」
「足りております」
背後から即答が飛んでくる。
「本当ですか」
「本当です」
コンラートは黙って聞いていた。
「辺境は寒いでしょう」
「こちらよりは」
「お部屋は暖かくしておられます?」
「しております」
宰相補佐が、今度はコンラートを見た。
「辺境伯閣下」
「何だ」
「聖女猊下は、集中されると暖炉が消えてもお気づきになりません」
「知っている」
「お食事も」
「忘れる」
「睡眠も」
「遅くなる」
宰相補佐は、目に見えてほっとした顔になった。
「ご理解いただいているのですね」
何を認定されたのか分からない。
「……まあ」
「どうかよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げられた。
妻を奪いに来た恋敵という感じではなかった。
むしろ、長年世話をしてきた気難しい愛馬を、ようやく任せられる相手に引き渡した人間のようだった。
「聖女猊下、年末まで王都に?」
「その予定です」
「では一度、宰相府へ」
「必要がございましたら」
「先月の河川税の件が」
「回答済みです」
「追加で」
「書面でお願いいたします」
「では明日、少しお時間を」
「予定がございます」
「明後日」
「埋まっております」
「では祝宴の翌日」
「帰路の準備がございます」
背後から聞こえるアデライードの返答が、一言ずつ短くなっていく。
宰相補佐と別れたあと、コンラートは言った。
「……彼は、君を慕っているのではないのか」
「職務上の評価はいただいております」
コンラートは振り返った。
「なぜ俺の後ろに隠れた」
「捕まると長いので」
「君も大概長いだろう、仕事の話は」
「わたくしは要点を申し上げます」
「今の男も、本人はそう思っているんじゃないか」
アデライードは少し考え、「それは困りますね」と他人事のように言った。
コンラートは一人目について、ひとまず考えるのをやめた。
少なくとも、年下の愛人ではなかった。
熱量だけなら噂以上だったが。
午後、二人は別れた。
コンラートは軍務局での打ち合わせを終え、王室府へ寄り、予定より少し早く用を済ませた。屋敷へ戻ってみると、アデライードはまだ帰っていない。
「聖女猊下は?」
「まだお戻りではございません」
「どこにいる」
「聖女宮へ問い合わせましたところ、王立技術院へお出でになったと」
コンラートは一瞬黙った。
王立技術院長。
二人目。
「何時から」
「二時間ほど前かと」
「……そうか」
別に迎えに行く必要はない。彼女は王都の道を知っているし、護衛もついている。夕食までには戻ると言っていた。
時計を見る。
まだ時間はある。
コンラートは自室へ行き、持ち帰った書類を開いた。
一枚読む。
二枚目へ進む。
三枚目の途中で、同じ文を二度読んだ。
時計を見る。
まだ時間はある。
四枚目へ進んだ。
五枚目の半ばで、立ち上がった。
これは別に、アデライードを迎えに行くのではない。王立技術院は屋敷から遠くないし、今後、領内の鉱山や道路工事について技術院と連携する機会もあるだろう。院長に一度挨拶しておくのは、辺境伯として何ら不自然ではない。
極めて自然だった。
案内された部屋の扉は、開け放たれていた。
中から複数人の声がする。
「だから、その場合の責任主体を資材管理官に置くのはおかしいでしょう」
聞き慣れた声だった。
「現場が保管するんだから現場だろう」
「購入主体は王立技術院です」
「使うのは現場だ」
「所有と使用を同一視なさらないでください」
「事故を起こしたら誰が始末する」
「事故処理と予算責任は別です」
「だから分けたら面倒になると言ってるんだ」
「分けなかった結果が昨年の事故でしょう」
コンラートは入り口で足を止めた。
部屋の中央にアデライードがいた。上着を脱ぎ、袖を軽くまくり、いつもきちんとまとめている濃い髪を無造作に結び直している。片手にはパンを持っていた。
向かいの男もパンをかじっている。細身で長身、艶のある赤褐色の髪が肩近くまであり、服装は王立機関の長とは思えないほど着崩しているのに、顔立ちだけは華やかだった。
王立技術院長だろう。
周囲には書記が三人、技術者らしい者が五、六人、なぜか使用人までいる。卓上には図面と帳簿と資料が山積みで、茶は完全に冷めきっていた。
「では危険物の搬入許可を技術院、現地保管責任を鉱山側、事故時の一次対応を現場、補償財源を――」
「待て、それだと技術院だけ金を出して口を出せない」
「口を出したいのでしたら、監督責任もお持ちください」
「それは嫌だ」
「でしたら、お金だけお願いいたします」
「聖女ってこんな横暴だったか?」
「制度上の選択肢をご提示しております」
「選択肢が二つとも嫌なんだよ」
「第三案をどうぞ」
「今考えてる」
二人とも、コンラートにはまるで気づいていない。
「……アデライード」
呼ぶと、ようやく彼女が振り向いた。
「コンラート様」
驚いた様子もない。
「お早かったのですね」
「ああ」
「少々お待ちください」
「どのくらい」
「いま責任範囲が決まるところです」
王立技術院長もこちらを見た。
「ああ、辺境伯殿か」
パンを持っていないほうの手を軽く上げる。
「彼女を借りている」
妙に引っかかる言い方だった。
「妻は物ではない」
「分かってる。言葉の綾だ」
技術院長はまったく悪びれることなく、すぐにアデライードへ向き直った。
「じゃあ監督官を一人増やす」
「予算は」
「そっちの基金から」
「お断りいたします」
「即答するな」
「目的外です」
「辺境伯殿、この女、家でもこんな感じか?」
突然、話を振られた。
コンラートは少し考えた。
「書類については」
「だろうな」
「技術院長」
「はいはい」
アデライードの声が一段低くなる。
技術院長は笑いながら図面へ戻った。
色気はなかった。
驚くほど、なかった。
噂では、彼らは二人きりで夜を明かしたことになっていた。これなら確かに、夜くらい明けるだろう。ただし周囲に十人ばかり人がいて、全員が途中で力尽きそうだった。
結局、アデライードが屋敷へ戻ったのは、予定より一時間ほど遅かった。
「遅くなり申し訳ございません」
「夕食には間に合った」
「はい」
「いつもああなのか」
「技術院長ですか?」
「ほかに誰がいる」
「議題によります」
「そういう意味ではない」
「では?」
説明するのが面倒になった。
「何でもない」
「そうですか」
あの二人は、恐ろしく息が合っていた。こちらが一つ言えば向こうが即座に三つ返し、互いに遠慮というものがない。アデライードのほうも、辺境では見せないほど生き生きと議論していた。
面白くない。
なぜ面白くないのか。
王都へ戻って気の合う仕事相手と話せば、多少は楽しそうにもなるだろう。それだけのことだ。
では、何が気に入らない。
コンラートはその問題を検討しかけて、やめた。
必要のない検討だった。
年末祝宴の当日、二人目についての疑問は、まったく別の方向から解消された。
王立技術院長が連れてきた女性を見た瞬間である。
豊かな黒髪を大胆に結い上げ、深い色の衣装をまとった、年齢の見当もつかないほど妖艶な美女だった。立っているだけで周囲の視線を集め、隣の技術院長も負けず劣らず目立つので、二人並ぶと一枚の絵のようだった。
「お知り合いか」
「以前、一度」
アデライードは普通に挨拶を交わした。女性のほうも聖女に妙な警戒を見せず、コンラートにも丁寧に礼をして、そのまま技術院長とともに去っていった。
アデライードが二人の背中を見送りながら言う。
「あの方が夜会へいらっしゃるときは、いつも違う女性ですが、大体ああいった美しい方がご一緒ですね」
コンラートは彼女を見た。
「いつも?」
「わたくしが知る限りでは」
「君は?」
アデライードが怪訝そうな顔をした。
「何がですか?」
「……いや」
本当に分かっていない。
コンラートは杯に口をつけた。
技術院長と自分が夜会に同伴するという発想そのものが、彼女の中には一度も存在しなかったらしい。
安心した。
安心したことについては、考えないことにした。
三人目は、向こうからやってきた。
黒に近い濃紺の髪に、淡い灰青の瞳。細身で、冷ややかなほど整った顔立ちの男が、数人の外交官を伴って歩いてくる。
隣国王の弟にして駐在大使。
大使殿下だ。
「聖女猊下」
「殿下」
アデライードの表情が消えた。
ただ、一緒に暮らしてきたコンラートには分かる。
完全な儀礼用の顔だった。
「ご結婚、お祝い申し上げます」
「ありがとうございます」
「北方でのご生活はいかがですか」
「穏やかに過ごしております」
「それは何より」
大使殿下はコンラートへ向き直り、非の打ち所のない挨拶をした。コンラートも同じように返す。
会話はそれだけで終わった。
男が去ってから、コンラートはアデライードを見た。
「仲が悪いのか」
「悪くはございません」
「良くも見えなかった」
「そうでしょうか」
「君は普段、あんな顔をしない」
アデライードは少し黙った。
「以前、少々失礼なことを言われましたので」
「何を」
「わたくしが何も申し上げていないうちに、『あなたと結婚するつもりはない』と」
コンラートは瞬いた。
「……なぜ」
「当時、周囲でわたくしと殿下の婚姻が噂されていたそうです」
「それで?」
「先に意思を明確にしておこうとお考えになったのでしょう」
「……君から、何かそれらしいことを言ったわけでもないのに?」
「ええ」
「それは……無礼だな」
「ええ。わたくしも、そう思いました」
その返事を聞いた瞬間だった。
祭壇。
高位神官。
白い婚礼衣装。
――君を愛することはない。
コンラートは動きを止めた。
アデライードは気づいていない。
「コンラート様?」
「……何でもない」
「お顔が」
「何でもない」
大使殿下の背中を見た。
急に親近感が湧いた。
認めたくない種類の親近感だった。
あの男は無礼だ。
自分でそう言った。
つまり。
「…………」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」
今は考えない。
王都へ来てから、考えないことばかりが増えている気がした。
四人目は、主催者だった。
王太子は、誰が見ても王族だと分かる男だった。濃い金髪に、深い青の瞳。長身で姿勢がよく、装いにも隙がない。
アデライードと並ぶと、非常に絵になった。
その事実が、まず気に入らなかった。
なぜ気に入らないのかは検討しなかった。
「聖女」
王太子は夫妻から挨拶を受けたあと、アデライードへ手を差し出した。
「一曲、よろしいか」
「もちろんでございます」
断る理由はない。身分の上でも自然な誘いだ。
コンラートも分かっている。
分かってはいるが、二人が踊りの輪へ入っていくのを、つい目で追った。
王太子はしきりに何か話していた。アデライードのほうは必要な返答だけを返しているように見える。それでも王太子の表情には力があり、彼女の反応を何度も確かめては、また言葉を続けている。
遠目に見れば、
――思いを訴える王太子を、聖女が冷たくあしらっている。
そう見えなくもない。
むしろ、かなりそう見える。
「気になりますか?」
隣から女性の声がした。
振り向くと、若い貴婦人が立っている。王太子の婚約者である公爵令嬢だった。
コンラートは慌てて礼をする。
「申し訳ない」
「なぜ謝られるのです」
公爵令嬢は穏やかに笑い、踊る二人へ目を向けた。
「以前は、わたくしも同じように見ておりました」
「同じように?」
「殿下が聖女様に思いを寄せていらっしゃるのではないかと」
コンラートは彼女を見た。
「違ったのか」
公爵令嬢は少し困ったように笑った。
「お二人は、かなり長い間、政策を巡って対立していたのです」
「対立?」
「殿下は、ご自分の判断に聖女様が異議を申し立てることを、最初は快く思っておられませんでした」
アデライードは記録を出した。王太子は反論した。アデライードはさらに記録を出した。王太子は別の根拠を持ってきた。それをまた、アデライードが崩した。そのうち王太子の判断に実際の不備が見つかり、彼は修正せざるを得なくなったという。
「その後は、変更した制度について、何度も聖女様にご報告を」
「なぜ本人に」
「認めていただきたかったのでしょう」
「何を」
「以前よりましな判断ができるようになったことを」
コンラートは踊る王太子を見た。
王太子は、何かを熱心に説明している。
アデライードは相変わらず淡々としている。
「もっとも、わたくしも最初から信じられたわけではございません」
噂が広まったころ、彼女はアデライードのもとへ直接出向いたのだという。聖女と王太子が恋仲だという話は本当なのか。そう尋ねた。
「聖女様は、何と?」
「すぐにはお答えになりませんでした」
「否定しなかった?」
「わたくしに、こう尋ねられました。『仮にわたくしがどうお答えしたとしても、あなたはその言葉を信じるのですか』と」
コンラートは黙った。
「最初は、何をおっしゃっているのか分かりませんでした」
公爵令嬢は続けた。
アデライードが恋仲ではないと言っても、それを嘘だと思うのなら意味がない。反対に恋仲だと言われても、別の思惑から自分を遠ざけようとしているのではないか、と疑うこともできる。結局、アデライードの言葉をいくら聞いたところで、王太子自身への信頼がなければ問題は終わらない。
「『あなたが本当に尋ねなければならない相手は、わたくしなのでしょうか』と」
「それで、王太子殿下に?」
「はい」
公爵令嬢は王太子本人と話した。なぜ聖女と何度も会っているのか。なぜ周囲が誤解するほど彼女を追いかけるのか。なぜ婚約者である自分に説明しなかったのか。
少なくとも、そのとき王太子が口にしたのは、恋の話ではなかった。
「恋ではなかったのか」
「恋であったかどうかは、わたくしには分かりません」
公爵令嬢は少し考えてから続けた。
「ただ、殿下のご結婚は政事と切り離せませんから、まったくそのおつもりがなかったとは言い切れません。ですが、少なくとも聖女様にはそのおつもりがなかった。そしてわたくしは、殿下と話し、その後のお姿を見て、自分で婚約を続けると決めました」
曲が終わった。
王太子がアデライードを連れて戻ってくる。
「では、失礼いたします」
公爵令嬢は婚約者のもとへ歩いていった。
アデライードがコンラートの隣に戻る。
少し安心した。
「何を話していた」
「以前問題になった救済手続きについて、運用状況をご報告いただいておりました」
「それだけか」
「ほかに何がございますか?」
心底不思議そうだった。
「……いや」
何もなかった。
また一人。
問題は、そのあとである。
公爵令嬢は噂を聞いたとき、アデライード本人に尋ねた。そして本人から問い返され、今度は王太子と正面から向き合った。
コンラートは?
何も聞いていない。
五人の男との噂についても。自分との婚姻を彼女自身がどう思っていたのかも。辺境へ来ることをどう考えていたのかも。
何一つ尋ねないまま、
――君を愛することはない。
と先回りした。
「…………」
「コンラート様?」
「何でもない」
今日だけで何度目か分からない返事になった。
五人目は騎士団長だった。
会場の端で、軍関係者と話している。三十代前半。濃い褐色の短髪に、暗い金褐色の瞳。コンラートよりさらに大柄で、礼装の上からでも実戦で鍛えた体格だと分かった。
最後まで出てこないほうがよかったのかもしれない、とコンラートが思うことになるのは、もう少しあとのことである。
「騎士団長閣下」
アデライードが声をかけた。
男が振り向く。
一瞬だけ、妙な間があった。
「聖女猊下」
「お久しぶりでございます」
「八か月ぶりですか。辺境では随分とお静かにお過ごしだと聞いております」
「おかげさまで」
「財布を焼かれたという報告も届いておりません」
「何よりでございますね」
声は丁寧だが、中身が釣り合っていない。
コンラートは二人を見比べた。
「こちらがヴァルデンブルク辺境伯閣下です」
騎士団長はコンラートに礼をした。
「お初にお目にかかります」
「こちらこそ」
ここまではまともだった。
「辺境伯閣下」
「何だ」
「聖女猊下は、そちらでも元気に書類を増やしておられますか」
「確認のために必要な書類を求めているだけです」
アデライードの声が低くなった。
「その『必要』が多すぎると申している」
「騎士団が最初から記録を適切に残してくだされば、追加提出は不要でございます」
「現場に書類を書いている暇があると思っているのか」
「事後記録という言葉をご存じありませんか」
「知っている。その事後記録を五種類に増やしたのは誰だ」
「五種類になったのは、拘束者名簿と証拠品管理を同じ紙に書いて紛失なさった方がいたからでしょう」
「一度だ」
「一度あれば十分です」
「現場では一度の例外くらい起きる」
「その例外で、無関係の方が三日余分に拘束されました」
「だから補償した」
「わたくしが言うまでなさらなかったでしょう」
「する予定だった」
「予定を記録に残してくださいませ」
「ほら、また書類だ」
コンラートは口を挟まなかった。
周囲の人間が、いつの間にか少しずつ距離を取っていることに気づく。中央の高官らしい男がこちらを一度見て、何事もなかったように視線を逸らした。
慣れている。よくあることらしい。
「相変わらず、紙の上では無敵ですな」
「閣下も相変わらず、剣を持つと法令をお忘れになるようで」
「忘れてはいない。優先順位の問題だ」
「後から都合よく付け替えることを、優先順位とは申しません」
アデライードの榛色の瞳に、金色が浮いた。
見覚えがあった。
鉱夫の補償案件のときより、ずっと強い。
騎士団長はそれを見て、鼻で笑った。
「辺境伯閣下」
「何だ」
「一つご忠告申し上げておきます」
突然、声だけが礼儀正しくなる。
「聖女猊下の目がその色になったとき、王都では『天啓が下った』と言われておりましてね」
コンラートはアデライードを見た。
本人は騎士団長を睨んでいる。
「天啓?」
「誰彼かまわず人の財布を焼くことを趣味としておられる聖女様が、財布の中の金貨を数えているときの色か、あるいは財布に火をつけた瞬間の色だと言われているんですよ」
辺境伯の前で、その妻であり聖女でもある人物に向かって言ってよい台詞ではない。遠巻きにしていた面々も静まり返った。騎士団長は構わず、「お気をつけになったほうがよろしいかと」と平然と付け加える。
さすがのコンラートも返答に窮していると、
「趣味ではございません」
アデライードがきっぱりと言った。
騎士団長が露骨に舌打ちする。
「否定するのはそこかよ」
口調が完全に崩れた。
周囲にいた騎士が一人、天井を見た。
コンラートはしばらく何も言えなかった。
「騎士団長閣下」
アデライードは冷たい声で続けた。
「わたくしが最後に閣下のお財布に損失を与えたのは、正当な補償請求に応じていただくためです」
「俺個人の財布から出させたじゃないか」
「命令書への署名を拒否なさったので」
「部下の失敗を全部俺に払わせる気か」
「指揮官とは、そのような役職では?」
「だから嫌いなんだ、あんたは」
「奇遇でございますね」
アデライードが微笑んだ。
まったく笑っていない。
コンラートは理解した。
本当の意味で、理解した。
二人の間には、確かに特別な感情がある。ただし、その感情を恋愛と呼ぶのは、種類を大幅に間違えている。
「アデライード」
「はい」
「もういい」
「ですが」
「祝宴だ」
騎士団長も息を吐いた。
「辺境伯閣下の言うとおりだ。俺も仕事で来ているわけではない」
「先に始めたのは閣下です」
「だからそういうところだ」
「二人とも」
コンラートがもう一度言うと、ようやく黙った。
騎士団長は一礼し、去っていく。数歩ほど離れたところで、別の騎士に何か言われたらしく振り返った。
「あと、辺境伯閣下」
「まだあるのか」
「その人、見た目より頑固ですから」
「存じている」
毎日顔を合わせている。
「そうですか」
騎士団長は妙に納得した顔で去っていった。
アデライードはまだ、金色の浮いた目でその背中を見送っている。
「嫌いなのか」
「はい」
即答だった。
「ずいぶん素直だな」
「あの方について取り繕う理由がございませんので」
「向こうも同じようだった」
「でしょうね」
「噂では、かなり特別な関係だと聞いていた」
「そうでしょうか」
「今なら分かる」
「何がです?」
「特別ではある」
アデライードが怪訝そうにした。
「ただし、恋愛ではない」
「当然でございます」
なぜわざわざ確認する必要があるのか、という顔だった。
危うく声が出そうになり、コンラートは杯で口元を隠した。
その夜、屋敷へ戻ったころには、コンラートはすっかり疲れていた。
祝宴そのものより、五人の男を見たせいだと思う。
宰相補佐。アデライードを見つけた途端に駆け寄ってきた過保護な後輩。恋愛感情らしきものはどこにも見当たらず、コンラートのことは聖女の健康管理を引き継いだ責任者として歓迎した。
王立技術院長。パンを片手に制度論を交わす仕事仲間。夜会へ連れてくる女性の好みは、どう見てもアデライードとは別系統だった。
大使殿下。何も言っていない女性に勝手に婚姻を断り、そのぶんきちんと嫌われた男。
王太子。政策上の誤りを認めさせられたあとも、自分の改善をアデライードに報告し続けていた男。
騎士団長。本当に仲が悪かった。
最後の一人だけは、これ以上説明する必要がない。
コンラートは椅子に腰を下ろした。
噂の材料になった出来事は、確かにあった。宰相補佐は聖女宮へ頻繁に通った。王立技術院長とは夜を越えて議論した。大使殿下とは何度も踊り、話をした。王太子は何度もアデライードを追いかけた。騎士団長とは、人目も憚らず激しく言い争った。
事実だけを並べれば、なるほどと思う。
そこから、『五人の有力な男を次々に惑わせた恋多き聖女』という話が出来上がった。
「…………」
コンラートは額を押さえた。
盛りすぎだろう。
誰が最初に言い出したのかは知らないが、そこに話を足した者がいて、それを聞いてさらに面白くした者がいる。王太子と話していた、なら「親しい」。踊った、なら「恋仲」。夜まで議論した、なら「密会」。口論した、なら「愛憎入り乱れる関係」。
よくもまあ、ここまで育てたものだ。
そして自分は、その完成品だけを辺境で聞いた。
恋多き聖女など、どこにもいなかった。いたのは、仕事で五人それぞれと頻繁に関わり、そのたびに周囲から勝手な話を作られた女である。
そこまではいい。
問題は、その次だった。
コンラートは椅子に深くもたれた。
――それは……無礼だな。
大使殿下について、自分でそう言った。
――仮にわたくしがどうお答えしたとしても、あなたはその言葉を信じるのですか。
公爵令嬢から聞いたアデライードの言葉も残っている。
自分は本人に聞かなかった。
何一つ。
噂を聞いた。勝手に人物像を作った。自分に下された王命への不満もあった。
そして祭壇で、
――君を愛することはない。
と言った。
高位神官の視線が、八か月余りを経て、鮮明によみがえった。
あの神官は正しかった。
認めたくないが、正しかった。
「……最悪だ」
誰もいない部屋で呟いた。
扉の外から足音がして、間もなく軽いノックが響いた。
「コンラート様」
アデライードだった。
「入れ」
扉が開く。彼女はもう祝宴の衣装から着替えていた。落ち着いた色の部屋着に、濃い髪も簡単にまとめ直している。
華やかな王都の夜から帰ってきた姿としては、やはり地味だった。
だが、コンラートはほっとした。
「何だ」
「明日の予定を確認しておきたくて」
「今か」
「朝でも構いませんが」
「いや。入れ」
アデライードは机の前まで来た。手には当然のように紙がある。
「午前中、わたくしは聖女宮へ参ります。コンラート様は王室府ですね」
「ああ」
「昼食は別々になるかと」
「分かった」
「午後は?」
「空いている」
「では、帰路の予定を一緒に確認していただけますか」
「もちろん」
「ありがとうございます」
用件はそれだけだったらしい。
アデライードが出ていこうとする。
「アデライード」
呼び止めた。
「はい?」
彼女が振り返る。
今なら聞けるかもしれない。王都で何があったのか。噂をどう思っていたのか。婚礼の日、自分の言葉をどう受け取ったのか。
聞くべきことはいくらでもある。八か月余り、何一つ聞かなかった。
「……いや」
結局、言葉は出てこなかった。
「何でもない」
「そうですか」
アデライードは少し不思議そうにしてから、扉へ向かった。
「おやすみなさいませ」
「ああ。おやすみ」
扉が閉じる。
コンラートは机の上の紙を見た。
明日は帰路の予定を一緒に決める。
それだけのことが、今は少し楽しみだった。




