第三章 聞いていた話と違う
婚姻から半年ほど経ったころ、コンラートはアデライードのところへ一通の書類を持っていった。
もともとは、彼女に見せるつもりのものではなかった。
領内の北東にある小さな鉱山で、前年に落盤事故が起きている。死者はなく、重傷者が三人。そのうち二人にはすでに補償金が支払われていたが、最後の一人だけがまだ受け取っていない。鉱山を経営する家からは必要な負担金が納められ、王都の担当部署からも支給決定が出ているにもかかわらず、肝心の金が届かない。
領内の役人が何度か照会したが、返ってくるのは「確認中」という一言ばかりだった。
打つ手がないわけではなかった。辺境伯として王都の担当部署に正面から掛け合えば、多少は動くだろう。ただしその場合、次に問題になるのは鉱夫の腕ではなく、役所の面子だ。北方の辺境伯と王都の役人が意地を張り合ったところで、得をする者は一人もいない。
三度目の返書を机に放ったとき、控えていた家令が言った。
「聖女猊下にご相談なさってはいかがでしょう」
「必要ない」
即座にそう答え、それから、なぜ必要ないのかを自分が説明できないことに気づいた。
渡り廊下の向こうの部屋では、毎日誰かの申立書が読まれている。王都へ返される箱の中身が何なのか、コンラートは知らなかった。
知らないまま、半年が過ぎていた。
結局、翌朝には書類を抱えていた。
「半年ですか」
書類に目を落としたアデライードが言った。
「正確には七か月だ」
「支給決定から?」
「そうだ」
「長いですね」
被害を受けた鉱夫は、事故で片腕に重い怪我を負っている。今は鉱山の事務仕事へ移っていて、暮らしていけないほど困窮しているわけではない。しかしそれは、支払われると決まった金を七か月待たされてよい理由にはならなかった。
「こちらを?」
アデライードが書類の最後を指した。王都から届いた直近の返書だった。
「『必要な確認が完了次第、速やかに処理する』」
「ああ」
「何を確認しているのでしょう」
「それが分からない」
「お尋ねになりましたか」
「三度」
「返答は?」
「これだ」
三度とも、一字一句同じ文言だった。
アデライードは、もう一度最初から書類を読み始めた。
コンラートは向かいの椅子に腰を下ろした。
この半年で、彼女が書類を読み終わるのを待つことには慣れた。急かしても意味がないどころか、急かすと最初から読み直すことがある。
やがて、アデライードが顔を上げた。
「元の支給決定書はございますか」
「写しなら」
「見せてください」
コンラートは持ってきた一式から探して渡した。アデライードはそれも読む。
「鉱山側が提出した事故報告書は?」
「ここだ」
「医師の診断書」
「それもある」
「本人からの申請書」
「ある」
「事故後の雇用状況についての証明」
「……それも必要なのか」
「支給額の算定に用いた可能性があります」
コンラートは別の束から探し出した。アデライードは受け取ったそばから、一通ずつ机に並べていく。
「書類に不備が?」
「今のところ見当たりません」
「では、なぜ止まっている」
「それを調べます」
あまりにも当然のように言われて、コンラートは言葉に詰まった。
「どうやって」
「王都に記録の提出を求めます」
「……出してくるのか」
アデライードが顔を上げた。
「出していただきます」
言い方は穏やかだったが、相手に選択肢を残しているようには聞こえなかった。
「聖女が求めれば?」
「正当な申立てに関する記録でしたら」
「拒否されたら」
「拒否理由を書面で提出していただきます」
「それも拒否されたら」
「その事実を王室府に報告いたします」
「王室府も出さなければ?」
「王室府に、王室府が記録提出要求に応じなかった事実について見解を求めます」
コンラートは黙った。
「……面倒だな」
「そうでしょうか」
「相手にとってだ」
「記録を出していただければ、一度で済みます」
その理屈は分かる。
分かるが、王都の役人たちが彼女を心底嫌がる理由も、よく分かった。
アデライードは手元の紙を揃えた。
「この案件は、わたくしのほうでお預かりしても?」
「構わないが」
「ご本人からの申立てが必要です」
「本人?」
「聖女が独自に案件を作ることはできません。ご本人、または正当な代理人から、支給遅延について確認を求める申立てをいただきます」
「辺境伯からでは駄目なのか」
「コンラート様は被害者ではございませんので。ただし、領主として事情説明を添えていただくことはできます」
「分かった」
「ありがとうございます」
アデライードはすでに次の紙へ手を伸ばしていた。
「待て」
「はい?」
「今からやるのか」
「申立てをいただいてからです」
「そうか」
「ですので、まずご本人に確認を」
「俺が?」
「領内の方でしょう」
そのとおりだった。
コンラートは書類の半分を持って立ち上がった。
聖女に仕事を頼みに来たはずが、なぜか自分の仕事が増えていた。
鉱夫本人からの申立書が届いたのは三日後で、アデライードはその日のうちに王都へ記録提出要求を出した。それから十日ほどして、いかめしい封蝋の押された大きな封筒が届いた。
コンラートが昼食を終えて執務室へ戻ろうとすると、渡り廊下の途中でアデライードの書記に呼び止められた。
「辺境伯閣下。聖女猊下より、先日の鉱山事故についてお話があると」
「何か分かったのか」
「どうやら」
やけに曖昧な返事だった。
アデライードの執務室へ入ると、机いっぱいに書類が広げられていた。
「コンラート様」
「分かったのか」
「はい」
「何だった」
「確認待ちでした」
「それは知っている」
「本当に、確認待ちだったのです」
コンラートは眉を寄せた。
アデライードは紙を一枚差し出した。
「最初の支給決定のあと、担当部署が医師の診断内容について追加確認を求めています」
「本人にか」
「いいえ。別部署に」
「なぜ」
「事故による労働能力の低下率を、別の基準で再計算する必要があると判断したようです」
「それで?」
「照会を受けた部署が、これは鉱山事故補償ではなく、一般の労働事故補償基準で判断すべき案件ではないかと疑義を返しております」
「それで?」
「最初の部署が、鉱山事故補償制度が優先すると返しております」
「それで?」
「二つ目の部署が、では最初の支給決定額で問題ないのではないかと返しております」
コンラートは、次の言葉を待った。
「それで?」
「止まっています」
「なぜだ」
「最初の部署が、その回答を『確認済み』として処理していないからです」
コンラートは机に広げられた書類を見渡した。
「誰か一人が、確認したと書けば終わるのか」
「概ね」
「七か月?」
「はい」
沈黙が流れた。
「馬鹿なのか?」
アデライードは肯定も否定もしなかった。
「この男は、そのために七か月待っていたのか」
「少なくとも記録上は」
「担当者は?」
「二度変わっています」
「余計に悪いだろう」
「引継ぎの際、未処理案件として残っております」
「未処理なら処理しろ」
「そのように申し上げます」
声音は平静そのものだったが、榛色の瞳に金色が濃く差していた。
コンラートには初めて見る色だった。
「怒っているのか」
口にすると、アデライードがこちらを見た。
「何にでしょう」
「いや……」
聞いたこちらが間違えたような気がした。
彼女は再び書類へ視線を戻した。
「支給自体はすでに決定しておりますので、今回は再審査を求める必要もございません。未処理になっている確認を完了し、支払いを実行するよう求めます」
「それだけでいいのか」
「それだけで済ませてくだされば」
済ませなかった場合については、聞かないことにした。
三週間後、補償金は支払われた。
遅延期間についての利息も付いていた。
利息の話は、聞いていない。
コンラートは報告書をもう一度確かめてから、夕食の席でアデライードに言った。
「払われたそうだ」
「よろしゅうございました」
「利息が付いていた」
「当然の権利ですので」
「請求したのか」
「支払いを求める書面に、根拠となる条項を添えました」
「添えただけか」
「はい」
添えられた側が同じように受け取ったかどうかは、また別の話だろう。
「それだけか」
「ほかに何か?」
「七か月止まっていたものを、君が記録を出させて三週間で払わせた」
「もともと支給は決まっておりましたから」
「その支給がされなかったから問題だったんだろう」
「はい」
アデライードはスープをひと口飲んだ。
本当に、特別なことをしたつもりはないらしい。
「聖女は、いつもああいうことをしているのか」
アデライードが匙を止めた。
「どういうことでしょう」
「記録を出させて、止まっているものを動かす」
「それも仕事の一つです」
コンラートは匙を置いた。
「なぜ聖女に、そこまでの権限がある」
聖女とは慈愛と癒しの象徴であると、神殿は説く。病める者に手を差し伸べ、貧しい者を憐れむ存在である。少なくとも、記録の提出を拒んだ王室府に見解を求める存在ではない。
「初代の聖女の話は、ご存じですか」
「聞いたことはある」
「では、帯の話は」
「知らん」
「まだ法や裁きの仕組みが、今のように整っていなかったころのことです」
当時、王が裁きの場に立たされた。罪の中身は伝わっていない。伝わっているのは、王がその場から逃げ出そうとしたということだけだ。王を裁くための手続きも、留め置くための仕組みも、まだ何ひとつ定まっていなかった。
「そのとき居合わせた女神官が、ご自分の帯で王を椅子に縛りつけました」
コンラートは杯を持つ手を止めた。
「……縛った?」
「はい」
「王を」
「はい」
「それで済んだのか」
「王はずいぶん暴れられたそうですが、帯はほどけなかったと」
アデライードの口調は、明日の天気を話すのと変わらなかった。
「その帯は、今も櫃に納められております。次の聖女が近づくと、櫃が光ります」
「光る」
「はい」
「ほかにそういうものは」
「ございません」
即答だった。
「神殿に伝わる神秘は、その櫃だけでございます」
返す言葉がなかった。
奇跡も癒しもない。
あるのは、逃げようとした王を縛った帯が一本きりである。
「その一件のあと、王家と神殿で聖女法というものが整えられてまいりました。以来、聖女には司法の権限がございます」
「司法」
「はい」
いびつな形だと思った。
「その司法権は、どこまで及ぶ」
「王と同等でございます」
コンラートは何も言えなかった。
「それだけの権限があって、自分で人を捕らえたりはできないのか」
「できません」
「では、どうする」
「行政の権限をお持ちの方に求めます。聖女自身には、兵も役人もおりませんので」
「相手が応じなければ?」
「応じなかったこと自体が、次の審査の対象になります」
先ほど聞いた話そのものだった。記録を出さなければ、出さなかった理由を求める。それも拒めば、さらに上へ持っていく。自分で人を動かす権限を持たない代わりに、何をしたのか、なぜしなかったのかを、際限なく問い続けることができるらしい。
慈愛の象徴という話は、どこへ行ったのか。
「聖女とは、そういうものなのか」
「初代がそうでしたので」
「今も同じか」
「その時代の人々が最も必要としている助けを与えられる者が選ばれるのだと、言われております」
「では、今は」
アデライードは答えなかった。
金を払えば罪が消え、払えない者からは消えない。その手の話なら、辺境にもある。
コンラートは息を吐いた。
「話を戻す」
「はい」
「君の仕事は、結局何だ」
アデライードは指を折りながら説明した。人々から申立てを受ける。必要な記録を王家、神殿、貴族、行政機関に求める。処分に法的な疑義があれば異議を申し立てる。調査が不十分なら再調査を求める。不当に失われた財産があれば返還を請求する。救済のための訴訟費用が必要であれば、聖女の基金から支援することもある。
「基金、と会計係が言っていたな」
「はい」
「神殿の金か」
「一部は寄進によりますが、神殿の財産ではございません」
「君が管理している?」
「聖女職に付属する財産として」
「どのくらいある」
「何がですか」
「財産だ」
「今ここで?」
「大体でいい」
アデライードは記憶を探るように少し間を置き、それから短く金額を口にした。
コンラートは黙った。
「……もう一度」
同じ額だった。
「それは、全部君のものか」
「正確には、わたくし個人の財産と、聖女職に付属する財産と、目的を定められた基金に分かれております」
「合わせれば?」
「先ほどの程度です」
「程度」
「毎年変動いたしますので」
コンラートは水を飲んだ。
頭の中で、領地の年間収益の何年ぶんに当たるかを数えかけ、途中でやめた。
辺境伯家が貧しいわけではない。北方の領地として、それなりの土地と収益がある。それでも、たった今聞いた数字を「程度」と呼ぶ気には、どうしてもならなかった。
「それだけの金を、君が管理しているのか」
「わたくし一人ではございません。会計官がおります」
「当然だ」
「最終確認はいたしますが」
「……全部?」
「全部ではございません」
少し安心した。
「一定額以上の資金移動と、基金の目的外使用、それから長期債権については」
安心するのをやめた。
「王都から届く箱は、その仕事か」
「多くは」
「毎日読んでいるのも」
「はい」
「何年くらいやっている」
「自分で申立てを読むようになったのは十六歳ごろからです。十八歳以降は、ほぼ今と同じように」
「十八」
「はい」
コンラートは、向かいに座る女をあらためて見た。
二十四歳。平均的な背丈。特に目を引くところのない体つき。濃い髪をきちんとまとめ、今日も派手ではない色のドレスを着ている。
王都の有力者五人を次々と惑わせ、宮廷を引っかき回した女。そう聞いていた。
その女が十八歳から六年間、今とほとんど同じ量の書類を読み続けていたという。
「アデライード」
「はい」
「君は、王都でいつ男を五人も相手にしていたんだ」
アデライードの手が止まった。
言ってから、コンラートも止まった。
食卓の端に控えていた給仕までが、息を殺した気配がした。
「……失礼」
さすがに言い方が悪かった。
「いえ」
アデライードはしばらく考えていた。
「わたくしも、五人を同時にお相手した覚えはございません」
「同時かどうかを聞いたわけではない」
「では、順番に?」
「そういう意味でもない」
「そうですか」
どうしてこの女は、時々こういうところだけ妙に素直なのだろう。
コンラートは額を押さえた。
「忘れてくれ」
「承知いたしました」
返事だけは早かった。
アデライードはまた食事に戻り、コンラートもそうするよりほかになかった。
その夜、執務室で一人になってから、彼は昼間の会話を思い返した。
半年。
アデライードは辺境へ来てから、目立った問題を一つも起こしていない。それどころか、働きすぎではないかと思う程度には働いている。領内の人間から申立てがあれば見る。王都に記録を出させる。必要なら金も動かす。今日聞いた限りでは、それを十代のころからずっと続けているらしい。
王都での噂と、この半年で見てきたアデライードが、どうにも一人の人間としてつながらなかった。
噂がすべて嘘だったとは思わない。
王太子と接触があったこと。宰相補佐が聖女宮へ通っていたこと。王立技術院長と夜を徹して何かをしていたこと。隣国から駐在する王弟と親しく話していたこと。騎士団長と人目も憚らず口論したこと。
それぞれ、目撃した者がいたからこそ噂になったのだろう。ならば、何かはあったはずだ。
ただ、その「何か」が、本当に自分の聞いていたようなものだったのか。
そこまで考えて、コンラートは椅子に深くもたれた。
もし噂のほうが大きく間違っていたとすれば、別の問題が生じる。
自分は、その噂をまともに確かめてもいない。
それなのに婚礼の祭壇で、
――君を愛することはない。
と、堂々と言った。
あの高位神官の視線を思い出した。
今になって、あれは場所と時機だけの問題ではなかったのかもしれない、と思えてきた。
「…………」
コンラートは机の上の書類を一枚取った。
婚姻そのものを望んでいなかったことと、アデライードの評判を警戒したことは、別の問題だ。王命による婚姻である以上、最初に互いの関係を明確にしておくこと自体は、必ずしも間違いではない。
そうだ。
問題は言い方と場所だった。
おそらく。
たぶん。
コンラートは書類に視線を落とし、同じ行を三度読んだところで、内容がまったく頭に入っていないことに気づいた。
考えるのはやめた。
今すぐ結論を出す必要はない。王都でのアデライードを、自分はまだ見ていない。そこを確認してからでも遅くはない。
なぜ確認したいのかは、考えないことにした。
そう決めて書類を置いたはずが、気がつくと手が別の紙を引き寄せていた。
街道の状態。王都までの日数。留守のあいだに決裁の要る案件。
三行ほど書いたところで、ペンが止まった。
考えないことにしたのではなかったのか。
コンラートはペンを置いた。
置いたが、書いた紙は捨てなかった。




