第二章 猫をかぶっているにしては長い
辺境伯領都に着いた翌朝、朝食を終えたアデライードは、聖女として使う執務室を見たいと言った。
「こちらでございます」
家令が案内したのは、本邸から渡り廊下でつながる古い執務棟の一室だった。
アデライードに与えた居室は、二階の北側の一角にある。代々の辺境伯夫人が使ってきた区画で、窓からは崖下の川と、その向こうに続く森を見下ろせる。本邸でもっとも広く、もっとも眺めのいい部屋だ。食堂を挟んですぐ渡り廊下があり、執務棟へ出るにも都合がいい。
王命による婚姻とはいえ、妻を軽んじたつもりはない。身分に見合った部屋を与えたまでだ。
アデライードのほうも、調度が古いとも言わなければ、家具を王都風に入れ替えろとも言わなかった。
執務室は、以前は代官補佐の部屋として使われていたが、近年はほとんど空いている。机と書棚はすでに整えさせてあり、王都から先に届いていた箱が壁際に積み上げられていた。
アデライードは部屋に入ると、まず窓を見た。
「北向きですね」
「お気に召しませんか」
家令が緊張した声で尋ねる。
「いいえ。紙が日焼けしにくくて助かります」
次に机の高さを確かめ、椅子に一度腰を下ろし、書棚の奥行きを覗き込んだ。
「こちらの棚は、もう一段増やせますか」
「可能かと存じます」
「では、そのようにお願いいたします。あとは、この机の横に小さい台を一つ」
「何をお置きになりますか」
「未処理の箱です」
「未処理?」
「開封前のものと、確認済みのものを分けます」
家令は神妙にうなずいた。
コンラートは扉のそばから、そのやり取りを眺めていた。
地味な要求だと思った。
王都の聖女宮から北の辺境へ移ってきたのだから、もっと何か言うものだと思っていた。絨毯だの暖炉だの、客を迎えるための長椅子だの。
実際に出てきたのは、棚と台だった。
「ほかには?」
家令がおそるおそる訊く。
「今のところはございません。使ってみて不都合があれば、そのときに」
アデライードはそう答えて、壁際の箱へ目を向けた。
「こちらは開けても?」
「もちろんです」
家令が答えたときには、彼女はもう箱の封を確かめ始めていた。
コンラートはしばらく立ったまま見ていたが、用もないので自分の執務室へ戻った。
「厨房へ? 何をしに」
三日目、アデライードが厨房へ行ったと聞いて、コンラートはとうとう何か始まったのかと思った。
初日に本邸へ入った彼女は、使用人たちへの挨拶を済ませ、用意された部屋を確認し、その日の夕食では出された料理を普通に食べた。翌日も執務室に棚と台を一つ増やしてほしいと言っただけで、それ以外には何も要求していない。
それが三日目になって、初めて厨房へ出向いたという。
昼食を運んできた侍従が、盆を置きながら答える。
「朝食の時間を早められるかとのお尋ねでございました」
「それだけか」
「それだけでございます」
コンラートはしばらく黙った。
「献立に不満が?」
「いいえ。朝のうちに王都への返書を書きたいので、一時間ほど早く食事を取れれば助かる、と」
「……そうか」
午後、たまたま廊下で行き会ったアデライードに、彼はあらためて尋ねた。
「厨房へ行ったそうだな」
「はい」
「何か問題があったのか」
「朝食のお時間について相談いたしました」
「それだけか」
アデライードが不思議そうに瞬く。
「ほかに何かございましたか?」
「いや」
コンラートはそれ以上聞かなかった。
何を期待していたのか、自分でも説明がつかなかった。
その日の夕食も、普通だった。
今のところ、誰も夜中までアデライードの部屋に居座ってはいなかった。
辺境伯領都へ来て一週間。彼女は朝食後に執務室へ入り、昼食を挟んで夕方まで仕事をした。夕食のあとにも書類を読むことがある。
王都から定期便が来れば箱が増え、返送する箱もまた増えた。ときおり神殿や王室府、地方の役人らしい者から書簡が届き、彼女はそれに返事を書く。
来客があれば会う。男であることも、女であることもあった。
コンラートは、別に監視しているわけではなかった。
辺境伯家に出入りする者について家令から報告を受けるのは、領主として通常の業務である。
だから、アデライードのもとを訪れた男が二人とも神殿の書記で、片方は既婚者、もう片方は五十を越えていると知ったことにも、特に意味はなかった。
「宝石商は、お呼びしておりません」
家令の返事に、コンラートは一瞬黙った。
アデライードが衣装商を呼んだのは、辺境へ来て二週間ほどが過ぎたころだった。
コンラートは今度こそ身構えた。
こちらへ来てから、彼女が身につけているものは王都から持参した衣装ばかりだ。聖女としての公務用、辺境伯夫人として人前に出るためのもの、日常用。どれも上質だが、華美ではない。
そろそろ不満が出てもおかしくないころだと思っていた。
ところが衣装商が帰ったあと、家令から上がってきた支出予定は、コンラートが腹の中で見積もっていた額よりずっと小さかった。
「これだけか」
「はい」
「冬物は?」
「すでに十分お持ちとのことでございます。こちらの気候に合わせて裏地を厚くするものが二着、あとは普段着を数着お直しになると」
「宝石は」
そこで返ってきたのが、先ほどの答えだった。
「宝石商は、お呼びしておりません」
「……そうか」
口にしてから、なぜ自分が宝石の話を持ち出したのか分からなくなった。
別に買ってほしかったわけではない。
買われたら困ると思っていたのである。
困るはずだった。
コンラートは支出予定の紙を家令に返した。
「問題ない」
「承知いたしました」
家令が出ていったあと、コンラートは机に残された別の書類を開いた。
まだ二週間だ。
いくらなんでも、判断するには早い。
ある日の朝食で、アデライードの皿に蜂蜜をかけた焼き菓子が出た。
彼女はひと口食べて、わずかに目を見開いた。
それを見ていた給仕の娘が声をかける。
「お好きですか?」
「はい。おいしいですね」
「料理長に申し上げておきます」
「毎日は結構です」
「では、ときどき」
「そのくらいでしたら」
それだけの会話だった。
コンラートは向かいから眺めていた。
珍しいものではない。辺境では冬から春にかけて、どこの家でもよく出る菓子だ。
「王都にはないのか」
思わず尋ねると、アデライードはこちらを見た。
「似たものはございますが、こちらの蜂蜜は香りが違いますね」
「山のものだからな」
「そうなのですね」
そう言って、彼女はもうひと口食べた。
少し嬉しそうだった。
辺境伯領都へ来て、ひと月が過ぎていた。
アデライードは相変わらずだった。朝早く起きて食事を取り、働き、ときどき散歩をして、また働く。夜になれば眠る。
使用人とも揉めなかった。古参の侍女たちは、最初のうちこそ聖女相手に手が震えるほど緊張していたが、ひと月もすると、ごく普通に彼女の部屋を出入りするようになっていた。
そして本人は、蜂蜜をかけた焼き菓子ひとつで少し嬉しそうな顔をする。
コンラートは自分の皿に目を落とした。
祭りの日に町を歩いていれば、多少は目に留まる娘。
婚礼の日に抱いた印象は、今も変わっていない。
変わっていないはずなのだが、食べ物ひとつでそんな顔をするのか、とだけ思った。
必要のない情報だったが、覚えてしまったものは仕方がない。
「聖女猊下は、王太子殿下ともご昵懇であったとか」
領内の鉱山を管理する家の当主がそう口にした瞬間、食卓の空気がわずかに止まった。
アデライードが辺境へ来て、二か月目に入ったころだった。
家臣たちもすでに彼女の存在に慣れ始めている。
辺境伯夫人として出るべき場には出る。領内の有力者との食事にも同席する。それでいて、自分から話の中心へ割り込むことはない。聞かれれば答え、必要があれば意見を言う。
その夜も、そうした席の一つだった。
コンラートは発言した男を見た。
かなり酒が入っている。
アデライードは杯を置いた。
「王太子殿下とは、何度か政務上のお話をいたしました」
「ほう。王都ではずいぶんと噂に」
「噂については存じております」
「では――」
「その話はもういい」
コンラートが遮ると、酔った男はようやく自分が何を口にしたのか理解したらしく、勢いよく頭を下げた。
宴が終わったあと、コンラートは廊下でアデライードに言った。
「気にするな」
「何をでしょう」
「さっきの話だ」
「ああ」
本当に今思い出したという顔だった。
「特には」
「慣れているのか」
「長くございましたので」
「訂正しようとは思わなかったのか」
アデライードは少し考え込んだ。
「どの噂をでしょう」
「……全部だ」
「一つ訂正いたしますと、別のものについて説明を求められます」
その言い方には、妙に実感がこもっていた。
「五人分か」
「それだけとは限りません」
コンラートは足を止めた。
「まだいるのか?」
アデライードも止まり、彼を見上げる。
「噂でしたら」
「……そういうことか」
「はい」
彼女はまた歩き出し、コンラートもそれに続いた。
さすがに五人以上は多い。
とは思ったが、それも噂なのだろう。
いや、噂だと決まったわけではない。
目の前で問題を起こしていないことと、王都で何もなかったことは同じではない。王都では王都なりの事情があったのかもしれない。
そう考えれば、矛盾はない。
矛盾はないはずだった。
「増えていないか」
「何がですか」
「箱だ」
「増えておりますね」
「そういう意味ではない」
アデライードが首を傾げた。
机の上にも書類がある。窓際の小卓にもある。棚にもある。
季節はいつのまにか初夏へ変わり、彼女が辺境へ来て三か月が過ぎていた。
城を囲む森は濃い緑に染まり、昼間なら窓を開けていられる日も増えている。
その三か月のあいだに、アデライードの執務室には棚が一つ増えた。
最初に頼んだ「未処理の箱を置く小さな台」のほうは、とっくに二つになっている。
「王都にいたころも、この量だったのか」
「多い時期はもう少し」
「これより?」
「王都では直接持ち込まれる案件もございますので」
コンラートは部屋を見回した。
噂の女というものは、もっと暇なのだと思っていた。
少なくとも、毎日これだけの書類を読んでいる姿は想像したことがない。
「全部読むのか」
「必要なものは」
「必要でないものは」
「振り分けてもらっています」
「誰に」
「王都の書記官に」
「振り分けさせて、それでもこれだけ来るのか」
「はい」
アデライードは何でもないことのように答えた。
コンラートは机の端に積まれた束を見る。その上には、まだ封を切っていない書簡が三通のっていた。
「今日はいつまでやる」
「こちらが終わるまで」
「何時だ」
「終わりましたら」
「時間を聞いている」
アデライードは、この日はじめて困った顔をした。
「分かりません」
「……そうか」
それ以上は言わなかった。
婚姻契約には、相互の職務に不当に介入しないとある。彼女が自分で処理できているものに、夫だからという理由だけで口を出すつもりはない。
ただ、部屋を出るとき、廊下にいた侍女に、夕食を忘れさせるなとだけ言っておいた。
それくらいは介入には当たらないだろう。
コンラート自身は、南側の一角を使っていた。辺境伯の居室は中央の区画にあるが、子供のころから使っている部屋をそのままにしている。アデライードのいる北側までは、廊下を二度曲がらねばならない。
南の一角からは、北の窓の明かりは見えない。
見える場所を使っていたら、毎晩それを確かめていたかもしれない。
馬車から降りたアデライードの裾には、しっかりと泥がついていた。
「何があった」
「帰り道で車輪がぬかるみにはまりました」
「怪我は」
「ございません」
「護衛は何をしていた」
「皆で押してくださいました」
「……君もか?」
「人数が多いほうが早いので」
辺境へ来て四か月目、アデライードは領内の小さな神殿へ視察に出た。
聖女として一度見ておきたいというので、コンラートは止めなかった。
同行もしなかった。
必要がないからだ。
その日の夕方、予定より一時間ほど遅れて戻ってきた結果が、この泥だった。
「聖女が馬車を押すのか」
「動かないほうが困ります」
言われてみればそのとおりだが、そういう話でもない気がした。
「服が汚れるだろう」
「洗えば落ちます」
「……そうだな」
アデライードは最後まで腑に落ちない様子で、そのまま部屋へ戻っていった。
コンラートは玄関先に残された。
宝石は増えなかった。
男も増えなかった。
使用人との揉め事もなく、辺境伯家の金を勝手に使うこともなかった。
五か月が過ぎても、何も起こらなかった。
アデライードは変わらず働いている。
むしろ一度、辺境伯夫人としての衣装費を神殿への寄進に充てようとして、会計係に止められていた。
「それは別会計です」
「同じ支出では?」
「違います」
「では、どちらから」
「聖女猊下の基金からお願いいたします」
「分かりました」
素直に直していた。
コンラートはその報告を聞きながら、落ち着かない気分になった。
最初のころは、いつ本性を現すのかと思っていた。
最近は、その「本性」とやらが何を指すのか、自分でも分からなくなっている。
ある日の夕食後、アデライードが先に席を立った。
「まだ仕事か」
「少しだけ」
「毎日少しだけと言っているな」
「毎日違う少しです」
「そういう問題か」
彼女はかすかに笑った。
「では、おやすみなさいませ」
「ああ」
扉が閉まり、廊下を北へ向かう足音が遠ざかっていく。
コンラートはしばらく座っていた。
五か月。
さすがに長い。
猫をかぶっているのだとすれば、ずいぶん根気のある猫である。
そこまで考えて、コンラートは眉間を押さえた。
いや。
判断材料が足りない。
王都での彼女を、自分は知らない。辺境へ来てから大人しくしているだけという可能性も、まだなくはない。
なくはない。
たぶん。
コンラートは杯の水を飲んだ。
なぜそこまで丁寧に可能性を残しておきたいのかは、考えなかった。
考える必要はないと思った。
翌朝、アデライードはいつもどおり朝食に現れた。蜂蜜の焼き菓子が出ると、また少し嬉しそうな顔をした。
コンラートはそれを見なかったことにして、自分の皿に視線を戻した。




