↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛さないと言った辺境伯は、前言を撤回したい  作者: 如月アトリ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/7

第二章 猫をかぶっているにしては長い

 辺境伯領都に着いた翌朝、朝食を終えたアデライードは、聖女として使う執務室を見たいと言った。

「こちらでございます」

 家令が案内したのは、本邸から渡り廊下でつながる古い執務棟の一室だった。

 アデライードに与えた居室は、二階の北側の一角にある。代々の辺境伯夫人が使ってきた区画で、窓からは崖下の川と、その向こうに続く森を見下ろせる。本邸でもっとも広く、もっとも眺めのいい部屋だ。食堂を挟んですぐ渡り廊下があり、執務棟へ出るにも都合がいい。

 王命による婚姻とはいえ、妻を軽んじたつもりはない。身分に見合った部屋を与えたまでだ。

 アデライードのほうも、調度が古いとも言わなければ、家具を王都風に入れ替えろとも言わなかった。

 執務室は、以前は代官補佐の部屋として使われていたが、近年はほとんど空いている。机と書棚はすでに整えさせてあり、王都から先に届いていた箱が壁際に積み上げられていた。

 アデライードは部屋に入ると、まず窓を見た。

「北向きですね」

「お気に召しませんか」

 家令が緊張した声で尋ねる。

「いいえ。紙が日焼けしにくくて助かります」

 次に机の高さを確かめ、椅子に一度腰を下ろし、書棚の奥行きを覗き込んだ。

「こちらの棚は、もう一段増やせますか」

「可能かと存じます」

「では、そのようにお願いいたします。あとは、この机の横に小さい台を一つ」

「何をお置きになりますか」

「未処理の箱です」

「未処理?」

「開封前のものと、確認済みのものを分けます」

 家令は神妙にうなずいた。

 コンラートは扉のそばから、そのやり取りを眺めていた。

 地味な要求だと思った。

 王都の聖女宮から北の辺境へ移ってきたのだから、もっと何か言うものだと思っていた。絨毯だの暖炉だの、客を迎えるための長椅子だの。

 実際に出てきたのは、棚と台だった。

「ほかには?」

 家令がおそるおそる訊く。

「今のところはございません。使ってみて不都合があれば、そのときに」

 アデライードはそう答えて、壁際の箱へ目を向けた。

「こちらは開けても?」

「もちろんです」

 家令が答えたときには、彼女はもう箱の封を確かめ始めていた。

 コンラートはしばらく立ったまま見ていたが、用もないので自分の執務室へ戻った。


「厨房へ? 何をしに」

 三日目、アデライードが厨房へ行ったと聞いて、コンラートはとうとう何か始まったのかと思った。

 初日に本邸へ入った彼女は、使用人たちへの挨拶を済ませ、用意された部屋を確認し、その日の夕食では出された料理を普通に食べた。翌日も執務室に棚と台を一つ増やしてほしいと言っただけで、それ以外には何も要求していない。

 それが三日目になって、初めて厨房へ出向いたという。

 昼食を運んできた侍従が、盆を置きながら答える。

「朝食の時間を早められるかとのお尋ねでございました」

「それだけか」

「それだけでございます」

 コンラートはしばらく黙った。

「献立に不満が?」

「いいえ。朝のうちに王都への返書を書きたいので、一時間ほど早く食事を取れれば助かる、と」

「……そうか」

 午後、たまたま廊下で行き会ったアデライードに、彼はあらためて尋ねた。

「厨房へ行ったそうだな」

「はい」

「何か問題があったのか」

「朝食のお時間について相談いたしました」

「それだけか」

 アデライードが不思議そうに瞬く。

「ほかに何かございましたか?」

「いや」

 コンラートはそれ以上聞かなかった。

 何を期待していたのか、自分でも説明がつかなかった。

 その日の夕食も、普通だった。


 今のところ、誰も夜中までアデライードの部屋に居座ってはいなかった。

 辺境伯領都へ来て一週間。彼女は朝食後に執務室へ入り、昼食を挟んで夕方まで仕事をした。夕食のあとにも書類を読むことがある。

 王都から定期便が来れば箱が増え、返送する箱もまた増えた。ときおり神殿や王室府、地方の役人らしい者から書簡が届き、彼女はそれに返事を書く。

 来客があれば会う。男であることも、女であることもあった。

 コンラートは、別に監視しているわけではなかった。

 辺境伯家に出入りする者について家令から報告を受けるのは、領主として通常の業務である。

 だから、アデライードのもとを訪れた男が二人とも神殿の書記で、片方は既婚者、もう片方は五十を越えていると知ったことにも、特に意味はなかった。


「宝石商は、お呼びしておりません」

 家令の返事に、コンラートは一瞬黙った。

 アデライードが衣装商を呼んだのは、辺境へ来て二週間ほどが過ぎたころだった。

 コンラートは今度こそ身構えた。

 こちらへ来てから、彼女が身につけているものは王都から持参した衣装ばかりだ。聖女としての公務用、辺境伯夫人として人前に出るためのもの、日常用。どれも上質だが、華美ではない。

 そろそろ不満が出てもおかしくないころだと思っていた。

 ところが衣装商が帰ったあと、家令から上がってきた支出予定は、コンラートが腹の中で見積もっていた額よりずっと小さかった。

「これだけか」

「はい」

「冬物は?」

「すでに十分お持ちとのことでございます。こちらの気候に合わせて裏地を厚くするものが二着、あとは普段着を数着お直しになると」

「宝石は」

 そこで返ってきたのが、先ほどの答えだった。

「宝石商は、お呼びしておりません」

「……そうか」

 口にしてから、なぜ自分が宝石の話を持ち出したのか分からなくなった。

 別に買ってほしかったわけではない。

 買われたら困ると思っていたのである。

 困るはずだった。

 コンラートは支出予定の紙を家令に返した。

「問題ない」

「承知いたしました」

 家令が出ていったあと、コンラートは机に残された別の書類を開いた。

 まだ二週間だ。

 いくらなんでも、判断するには早い。


 ある日の朝食で、アデライードの皿に蜂蜜をかけた焼き菓子が出た。

 彼女はひと口食べて、わずかに目を見開いた。

 それを見ていた給仕の娘が声をかける。

「お好きですか?」

「はい。おいしいですね」

「料理長に申し上げておきます」

「毎日は結構です」

「では、ときどき」

「そのくらいでしたら」

 それだけの会話だった。

 コンラートは向かいから眺めていた。

 珍しいものではない。辺境では冬から春にかけて、どこの家でもよく出る菓子だ。

「王都にはないのか」

 思わず尋ねると、アデライードはこちらを見た。

「似たものはございますが、こちらの蜂蜜は香りが違いますね」

「山のものだからな」

「そうなのですね」

 そう言って、彼女はもうひと口食べた。

 少し嬉しそうだった。

 辺境伯領都へ来て、ひと月が過ぎていた。

 アデライードは相変わらずだった。朝早く起きて食事を取り、働き、ときどき散歩をして、また働く。夜になれば眠る。

 使用人とも揉めなかった。古参の侍女たちは、最初のうちこそ聖女相手に手が震えるほど緊張していたが、ひと月もすると、ごく普通に彼女の部屋を出入りするようになっていた。

 そして本人は、蜂蜜をかけた焼き菓子ひとつで少し嬉しそうな顔をする。

 コンラートは自分の皿に目を落とした。

 祭りの日に町を歩いていれば、多少は目に留まる娘。

 婚礼の日に抱いた印象は、今も変わっていない。

 変わっていないはずなのだが、食べ物ひとつでそんな顔をするのか、とだけ思った。

 必要のない情報だったが、覚えてしまったものは仕方がない。


「聖女猊下は、王太子殿下ともご昵懇であったとか」

 領内の鉱山を管理する家の当主がそう口にした瞬間、食卓の空気がわずかに止まった。

 アデライードが辺境へ来て、二か月目に入ったころだった。

 家臣たちもすでに彼女の存在に慣れ始めている。

 辺境伯夫人として出るべき場には出る。領内の有力者との食事にも同席する。それでいて、自分から話の中心へ割り込むことはない。聞かれれば答え、必要があれば意見を言う。

 その夜も、そうした席の一つだった。

 コンラートは発言した男を見た。

 かなり酒が入っている。

 アデライードは杯を置いた。

「王太子殿下とは、何度か政務上のお話をいたしました」

「ほう。王都ではずいぶんと噂に」

「噂については存じております」

「では――」

「その話はもういい」

 コンラートが遮ると、酔った男はようやく自分が何を口にしたのか理解したらしく、勢いよく頭を下げた。

 宴が終わったあと、コンラートは廊下でアデライードに言った。

「気にするな」

「何をでしょう」

「さっきの話だ」

「ああ」

 本当に今思い出したという顔だった。

「特には」

「慣れているのか」

「長くございましたので」

「訂正しようとは思わなかったのか」

 アデライードは少し考え込んだ。

「どの噂をでしょう」

「……全部だ」

「一つ訂正いたしますと、別のものについて説明を求められます」

 その言い方には、妙に実感がこもっていた。

「五人分か」

「それだけとは限りません」

 コンラートは足を止めた。

「まだいるのか?」

 アデライードも止まり、彼を見上げる。

「噂でしたら」

「……そういうことか」

「はい」

 彼女はまた歩き出し、コンラートもそれに続いた。

 さすがに五人以上は多い。

 とは思ったが、それも噂なのだろう。

 いや、噂だと決まったわけではない。

 目の前で問題を起こしていないことと、王都で何もなかったことは同じではない。王都では王都なりの事情があったのかもしれない。

 そう考えれば、矛盾はない。

 矛盾はないはずだった。


「増えていないか」

「何がですか」

「箱だ」

「増えておりますね」

「そういう意味ではない」

 アデライードが首を傾げた。

 机の上にも書類がある。窓際の小卓にもある。棚にもある。

 季節はいつのまにか初夏へ変わり、彼女が辺境へ来て三か月が過ぎていた。

 城を囲む森は濃い緑に染まり、昼間なら窓を開けていられる日も増えている。

 その三か月のあいだに、アデライードの執務室には棚が一つ増えた。

 最初に頼んだ「未処理の箱を置く小さな台」のほうは、とっくに二つになっている。

「王都にいたころも、この量だったのか」

「多い時期はもう少し」

「これより?」

「王都では直接持ち込まれる案件もございますので」

 コンラートは部屋を見回した。

 噂の女というものは、もっと暇なのだと思っていた。

 少なくとも、毎日これだけの書類を読んでいる姿は想像したことがない。

「全部読むのか」

「必要なものは」

「必要でないものは」

「振り分けてもらっています」

「誰に」

「王都の書記官に」

「振り分けさせて、それでもこれだけ来るのか」

「はい」

 アデライードは何でもないことのように答えた。

 コンラートは机の端に積まれた束を見る。その上には、まだ封を切っていない書簡が三通のっていた。

「今日はいつまでやる」

「こちらが終わるまで」

「何時だ」

「終わりましたら」

「時間を聞いている」

 アデライードは、この日はじめて困った顔をした。

「分かりません」

「……そうか」

 それ以上は言わなかった。

 婚姻契約には、相互の職務に不当に介入しないとある。彼女が自分で処理できているものに、夫だからという理由だけで口を出すつもりはない。

 ただ、部屋を出るとき、廊下にいた侍女に、夕食を忘れさせるなとだけ言っておいた。

 それくらいは介入には当たらないだろう。

 コンラート自身は、南側の一角を使っていた。辺境伯の居室は中央の区画にあるが、子供のころから使っている部屋をそのままにしている。アデライードのいる北側までは、廊下を二度曲がらねばならない。

 南の一角からは、北の窓の明かりは見えない。

 見える場所を使っていたら、毎晩それを確かめていたかもしれない。


 馬車から降りたアデライードの裾には、しっかりと泥がついていた。

「何があった」

「帰り道で車輪がぬかるみにはまりました」

「怪我は」

「ございません」

「護衛は何をしていた」

「皆で押してくださいました」

「……君もか?」

「人数が多いほうが早いので」

 辺境へ来て四か月目、アデライードは領内の小さな神殿へ視察に出た。

 聖女として一度見ておきたいというので、コンラートは止めなかった。

 同行もしなかった。

 必要がないからだ。

 その日の夕方、予定より一時間ほど遅れて戻ってきた結果が、この泥だった。

「聖女が馬車を押すのか」

「動かないほうが困ります」

 言われてみればそのとおりだが、そういう話でもない気がした。

「服が汚れるだろう」

「洗えば落ちます」

「……そうだな」

 アデライードは最後まで腑に落ちない様子で、そのまま部屋へ戻っていった。

 コンラートは玄関先に残された。


 宝石は増えなかった。

 男も増えなかった。

 使用人との揉め事もなく、辺境伯家の金を勝手に使うこともなかった。

 五か月が過ぎても、何も起こらなかった。

 アデライードは変わらず働いている。

 むしろ一度、辺境伯夫人としての衣装費を神殿への寄進に充てようとして、会計係に止められていた。

「それは別会計です」

「同じ支出では?」

「違います」

「では、どちらから」

「聖女猊下の基金からお願いいたします」

「分かりました」

 素直に直していた。

 コンラートはその報告を聞きながら、落ち着かない気分になった。

 最初のころは、いつ本性を現すのかと思っていた。

 最近は、その「本性」とやらが何を指すのか、自分でも分からなくなっている。

 ある日の夕食後、アデライードが先に席を立った。

「まだ仕事か」

「少しだけ」

「毎日少しだけと言っているな」

「毎日違う少しです」

「そういう問題か」

 彼女はかすかに笑った。

「では、おやすみなさいませ」

「ああ」

 扉が閉まり、廊下を北へ向かう足音が遠ざかっていく。

 コンラートはしばらく座っていた。

 五か月。

 さすがに長い。

 猫をかぶっているのだとすれば、ずいぶん根気のある猫である。

 そこまで考えて、コンラートは眉間を押さえた。

 いや。

 判断材料が足りない。

 王都での彼女を、自分は知らない。辺境へ来てから大人しくしているだけという可能性も、まだなくはない。

 なくはない。

 たぶん。

 コンラートは杯の水を飲んだ。

 なぜそこまで丁寧に可能性を残しておきたいのかは、考えなかった。

 考える必要はないと思った。

 翌朝、アデライードはいつもどおり朝食に現れた。蜂蜜の焼き菓子が出ると、また少し嬉しそうな顔をした。

 コンラートはそれを見なかったことにして、自分の皿に視線を戻した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。