第一章 君を愛することはない
「君を愛することはない」
「承知いたしました。では、婚姻契約書を確認させてください」
祭壇の向こうに控えていた高位神官の視線が、花婿コンラートの横顔に突き刺さった。
――言うことは決めていたが、場所と時機は、少し誤ったかもしれない。
そう思ったところで、口から出たものを引っ込める方法など知らない。あとになって揉めるくらいなら、祭壇の前で先に言っておくほうが互いのためになるはずだ。
「契約書はどちらにございますか」
花嫁も神官の据わった目には気づいているようだが、取り乱す様子はない。むしろこの場で最も落ち着いていた。
「……控室に用意してある」
「では、署名の前に最終確認をいたしましょう」
案内を求められて、コンラートは眉を寄せた。
普通なら、もう少し何かあるのではないかと思う。驚くなり、傷つくなり、腹を立てるなり。
婚礼の祭壇を前に、夫となる男から愛さないと宣言され、その直後に書類の所在を尋ねる女は、コンラートの知る範囲に一人もいなかった。
もっとも、神前で花嫁に「愛することはない」と告げた男も、彼の知る範囲では自分ひとりだった。比べようがない。
コンラートは花嫁と並んで、粛々と祭壇をあとにした。背中に神官の目を感じ続けていたが、これも仕方がない。
彼が王都に足を運ぶのは、多くて年に一度だった。
ヴァルデンブルク辺境伯家の当主となって六年。冬の半分は雪に閉ざされ、その雪が解ければ国境で小競り合いが始まる土地である。今年で三十二になるが、王都の社交界に出た記憶は指で数えられる程度しかない。
よって、今日妻となる女――聖女アデライードについて、彼が知っていることは多くない。
二十四歳。平民の出で、幼いころから神殿に育てられ、十一のときに聖遺物に選ばれた当代の聖女。
そして王都では、たいそう評判が悪い。
王太子、宰相補佐、騎士団長、王立技術院長、隣国から駐在している王弟。
よりによって王都でも指折りの有力者ばかり五人と、何かしら噂になっている。
王太子を惑わせた。宰相補佐を夜ごと聖女宮へ通わせた。王立技術院長と一晩を明かした。異国の王弟と密かに将来を誓い合った。騎士団長とは、人目も憚らず激しく言い争うほどただならぬ仲であるという。
細部は話す者によってまるで違う。五人全員と関係していると聞いたときには、さすがに話を盛っているのではと思ったが、火のないところに煙は立たないともいう。
実際、アデライードが王都の高官たちとたびたび衝突し、ときには相手に金銭的な制裁まで科してきたことは事実らしかった。
気に入らない男の財布に火をつける聖女。
そんな話まで聞いた。
どこからどこまでが本当なのか、コンラートは知らない。彼にとって重要なのは、そういう女を王命によって妻に迎える、という一点だけだった。
なぜ王が聖女を北の辺境へ嫁がせる気になったのか、理由は聞かされていない。
厄介払いだろう、という見当だけはついていた。
控室へ向かう廊下で、彼は隣を歩く花嫁をあらためて眺めた。
思っていたより、地味だった。
聖女の婚礼衣装であるから、布地は当然のように上質だ。白を基調とした生地に細かな銀糸が織り込まれ、裾と袖口には神殿の紋様が控えめに刺繍されている。髪にも儀礼用の飾りがあった。
それだけ整えられていても、本人の印象は華やかとは言いがたい。
背丈は女として平均ほどで、並んで歩けばこちらのほうが頭ひとつ高い。体つきにも目を引くところはない。濃い色の髪に、榛色の瞳。顔立ちは整っている。領都の祭りの日に町を歩いていれば、多少は目に留まる娘かもしれない。せいぜい、その程度だった。
――いや、容姿だけで人を惑わせるとは限らない。むしろ、そういう女ほど外からは分からないものだと聞く。
そこまで考えたところで、思いのほか長く隣を観察していたことに気づき、コンラートは前を向いた。
控室には、王家と神殿の立会人、それに双方の文官が待ち構えていた。卓の上には、寸分違わぬ内容の契約書が三部、きちんと並べて置かれている。
アデライードは席につき、婚礼衣装の袖を整えると、いちばん上の一部を手に取って、本当に最初から読み始めた。
コンラートは立ったまま、それを見下ろした。
王都には、そばに立たれただけで小さく身をすくめる令嬢がいる。北方で剣ばかり握って育った体は、磨き上げられた床の上では威圧の道具に見えるらしい。
アデライードは、顔も上げなかった。
一条ずつ丁寧に視線を落とし、ときおり頁をめくる手を止めては、しばらく同じ箇所を見つめている。
「何か問題が?」
「いいえ。確認しております」
淡々と答えて、また読む。
神殿の文官が、何ともいえない表情になった。辺境伯家の文官のほうは、むしろ深く感心しているようだった。
契約の中身そのものは、それほど複雑ではない。
聖女位は終身であり、婚姻によって失われない。聖女としての財産と収入は辺境伯家に編入されず、辺境伯家の財産もまた聖女の管理下には入らない。相互の職務については、それぞれの権限を尊重し、不当に介入しない。生活費および辺境伯夫人としての公的支出は、別に定める。後継に関する条項は、将来必要となった時点で協議する。
コンラートに異存はなかった。
むしろありがたい。王命で婚姻を押しつけられたうえ、王都で好き放題してきたという女に領地の財布まで握られては、たまったものではない。そう思っていた。
そしてどうやら、アデライードの側も同じことを考えていたらしい。
「第二十一条ですが」
「何だ」
「『相互の職務に不当に介入しない』の、『不当に』の解釈を確認しておきたいのです」
コンラートは椅子を引いて腰を下ろした。
「聞こう」
「たとえば辺境伯領内で、聖女として調査を要する案件が生じたとき、わたくしが領内の記録の提出を求めることは、婚姻によって制限されない」
「そのつもりだ」
「反対に、わたくしが聖女として扱う案件について、コンラート様が辺境伯として結論を指示なさることもない」
「しない」
「ただし、双方の権限が重なる案件を協議することは、介入には当たらない」
「当然だろう」
アデライードは、いくらか満足そうにうなずいた。
「では、問題ございません」
彼女は双方の文官にその解釈を確認させ、当該箇所の余白に簡潔な注記を書き加えさせた。文官二人が頭を突き合わせ、婚礼衣装の花嫁の前で真剣に文言を練り始めるのを、コンラートは黙って眺めていた。
噂から想像していた女とは、まるで違う。
もっと自分の身分や聖女という立場を振りかざすものだと思っていた。あるいは、婚姻の条件として宝石なり衣装なり王都での滞在費なりを要求してくるものと。
実際に彼女が食い下がったのは、たった一条の「不当に」という一語だ。
――だが、それだけで人間を判断するには早い。
婚礼の当日から本性をさらけ出す者のほうが珍しい。王都で長く生き延びてきた女なら、辺境伯家に入る最初の一日くらい、慎重に振る舞う知恵はあるだろう。
やがてアデライードは三部すべてに目を通し終え、静かに顔を上げた。
「お待たせいたしました」
「ずいぶん念入りだな」
「契約は、署名する前に読むものですので」
さも当然という顔だった。
コンラートは何も言えなかった。
そのとおりだったからである。
再び祭壇へ戻る。
先ほどの高位神官は、まだ少しコンラートを見る目が冷たかった。
それでも、儀礼そのものは滞りなく終わった。神前で誓約を交わし、婚姻が正式に成立する。夫婦になったからといって、何かが劇的に変わるわけでもない。
儀礼のあとには短い祝宴があり、王家と神殿の高位者、それに王都に滞在している一部の諸侯が、代わる代わる夫妻に祝いを述べに来た。
アデライードの応対は完璧だった。誰に対しても同じ程度に丁寧で、同じ程度に距離がある。親しげに寄ってくる男もいなければ、意味ありげな視線を送ってくる者もいない。
例の五人は、誰ひとり来なかった。
噂の立った相手の婚礼にわざわざ顔を出す者はいない。当然といえば当然だった。
それでもコンラートは、わずかに拍子抜けした。
なぜ拍子抜けしたのかは、考えないことにした。
翌朝、二人は王都を発った。
まだ春の初めだった。北へ向かうにつれて風は冷たさを増し、街道沿いの景色からは王都近郊の華やかさが少しずつ削り落とされていく。
アデライードは馬車に乗り込むなり、小さな鞄から書類の束を取り出した。
コンラートは向かいの席から、それを見た。
「何だ、それは」
「王都を離れている間に確認しておきたい申立書です」
「馬車の中で読むつもりか」
「揺れがひどくなければ」
「気分が悪くなるぞ」
「その場合はやめます」
聞き分けはいい。
アデライードは最初の一通を開き、数分後にはすっかり読みふけっていた。
コンラートは窓の外へ顔を向けた。
王都で五人の男を惑わせたと噂される聖女。その女を、自分は王命によって妻に迎えた。警戒するに越したことはない。今のところ妙なところは見当たらないが、まだ一日しか経っていない。辺境へ着いてからが、本当の生活になる。
いずれ何か出てくるだろう。
そう考えた。
向かいの席では、新妻がすでに二通目の申立書を読み始めていた。




