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5歳児、ウォール街を支配する 〜異世界の巫女は、星を読んで家族(パパ)の死線を変える〜  作者: かぶんす


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五歳児、プライベートジェットでウォール街へ

「――あ、あかん。お腹壊しそうや。キャビアって、こんなに山盛りで食べるもんなん?」


雲を突き抜け、高度一万二千メートルの青空を滑るように飛ぶラグジュアリー・プライベートジェット


『ハミルトン・スカイクイーン号』。


その白真珠のように輝く機内のリビングエリアで、お母さんは震える手でクラッカーを口に運んでいた。


「夕紀、落ち着くんだ……。僕なんて、貧乏性だからさっきから高級シャンパンの値段をネットで調べて、一口飲むたびに『これでコンビニ弁当が十個買える……』って頭の中で計算して卒倒しそうなんだよ」


パパもオーダーメイドの上質なスーツをぎこちなく着こなし、借りてきた猫のようにソファーの端で縮こまっている。

二人がパニックになるのも無理はなかった。

機内はプライベートジェットの常識を遥かに超えた、まるで空飛ぶ五つ星ホテルだった。

大理石をあしらったシャワールームに、最高級シルクのダブルベッドが備えられた寝室。そして、彼らのためだけに同乗したミシュラン三つ星シェフが、目の前で新鮮なフォアグラやトリュフを調理しているのだ。


「パパ、ママ、これおいしいよ! お星さまのマークのクッキー!」


私は、特注の白いレザーソファーの上で、エリザベスお姉ちゃんに膝枕をされながら、高級アイシングクッキーをサクサクと食べていた。


「オーマイガー! なんて愛らしいの……! クッキーを齧るその小さな前歯、まるで可愛いリスさんのようだわ! 凛ちゃん、もっと食べる? それとも、お姉ちゃんが直接食べさせてあげましょうか!?」


エリザベスは、完全に昨日までの冷徹な『氷の女王』の面影を無くしていた。

彼女のサファイアの瞳はハートマークに濁り、私の口元を高級シルクのハンカチで優しく、まるで国宝を扱うかのように丁寧に拭っている。


「お姉ちゃん、ありがとー! メロンのジュースもおかわりしていい?」


「もちろんでよ、マイ・エンジェル! コック! 今すぐ世界一新鮮なマスクメロンを十個絞りなさい! 急いで!」


「い、いえ、そんなに絞らなくて結構ですから……!」


パパが慌てて制止する。パパの身体から流れ込む『生体情報』は、アメリカ進出への極度の緊張と、エリザベスのあまりの豹変ぶりへの戸惑いで、複雑なマーブル模様を描いていた。


「サトル、遠慮しないで」


エリザベスは私を抱きしめたまま、パパたちに向き直ってウインクした。


「あなたたちは、私の命を救ってくれたハミルトン家の最重要パートナーよ。……これからは、あなたたちもこの『世界の特権』を当たり前のように享受する資格があるわ。何と言っても、サトル。あなたのアジア顧問の初年度報酬、三億円スリーミリオンはすでにスイスのプライベートバンクに送金済みよ」


「さ、三億円……。まだ一秒も働いていないのに……」


パパが遠い目をしている。


「ふふ、これしきハミルトン・グローバル・インベストメンツ(HGI)の総資産から見れば、誤差のようなものだわ。……それに、あなたたちがこれから見せる『未来予測の力』は、その数百倍の価値をウォール街にもたらす。……そうでしょう?」


エリザベスが、一瞬だけ鋭いプロの投資家としての目を覗かせた。

(うん。パパとお姉ちゃんを死なせないために、お星さまはいっぱいお仕事してくれるよ)

私は、夜空の星座が示す、ニューヨークを巡る電子の激流を脳裏で見つめていた。

これまでは日本の小さな一戸建てやアパートの周囲しか見えていなかった私の「星読み」だったが、ハミルトン家と深く繋がったことで、その解像度は爆発的に向上していた。

世界の金融、トレンド、国家間の思惑。

それらが、まるで巨大な光の毛糸玉のように、ニューヨークのマンハッタンを中心に絡み合っているのが、はっきりと視える。


「お姉ちゃん。……お空の向こうに、おっきなお城が見えるよ」


私が窓の外を指差すと、機体はちょうど雲を抜け、眼下に息を呑むような大パノラマを映し出していた。

世界で最もまばゆい、コンクリートとガラスの摩天楼。

マンハッタンの、セントラルパークを囲む超高層ビル群が、夕暮れの黄金色の光を浴びて輝いている。

天宮家、ついにニューヨーク・ウォール街に到着である。



JFK空港に到着した私たちを待っていたのは、大統領の警護シークレットサービスさながらの黒い防弾仕様のSUVによる船団だった。

サイレンを鳴らす先導車に守られながら、私たちはマンハッタンの中心にそびえ立つ、ハミルトン家が所有する超高級ペントハウスへと直行した。


「……なんやこれ、家の中にエレベーターがあるだけじゃなくて、お部屋の真ん中に本物の川が流れてるで……。鯉とか泳いでへんやろな……」


お母さんがリビングのデザイン噴水を見て、またしても腰を抜かしている。


「サトル、ユキ。長旅で疲れたでしょう。まずはゆっくりお風呂に入って……と言いたいところだけど、実は一人、どうしてもあなたたちに今すぐ会いたいという頑固者が待っているの」


エリザベスが、ペントハウスの最奥にある、巨大なマホガニー製の両開きドアを指差した。

そのドアの向こうから漂ってくる重苦しい空気。

それは、これまで出会ったどんな暗殺者や詐欺師よりも圧倒的な、『世界を支配する男』のプレッシャーだった。


「パパ……? もしかして、あの中に……」


パパがゴクリと喉を鳴らす。


「ええ。我がハミルトン家の家長であり、HGIの創業者。……私の父、アレクサンダー・ハミルトンよ」


エリザベスがドアを開けた。

室内の照明は少し暗く、壁一面のガラス窓の向こうには、宝石をちりばめたようなマンハッタンの夜景が広がっている。

その夜景を背に、ゆったりと革製のハイバックチェアに深く腰掛けている男がいた。

年齢は五十代後半。

美しく整えられた白髪混じりの銀髪に、すべてを見透かすような、鋭い灰色の瞳。

オーダーメイドの高級スリーピーススーツをまとい、その手には、世界経済を揺るがす報告書レポートが握られている。


「待っていたぞ、天宮ファミリー」


アレクサンダーの声は、まるで地響きのように低く、威厳に満ちていた。

一瞥されただけで、パパとお母さんの背筋がピンと伸び、完全に直立不動の姿勢になる。


「父上。彼らが――」


「エリザベス。私はお前に、日本のオカルトじみた詐欺師を捕まえてこいと命じた覚えはない」


アレクサンダーは娘の言葉を冷酷に遮り、灰色の瞳でパパを射抜いた。


「サトル・アマミヤ。お前が、我が娘の飛行機の事故を予言し、救ったという話は聞いた。……だが、そんなものは、お前たちが事前に爆弾を仕掛け、自作自演で我が娘の信頼を勝ち取った『詐欺』である可能性も否定できない」


「さ、自作自演なんて、そんな滅相もない……!」


パパが必死に否定する。


「黙れ。私は奇跡を信じない。この世にあるのは、精緻なデータと、冷徹な分析のみだ。……5歳の幼児が星を読んで未来を当てるなど、ウォール街を舐めるのも大概にしろ」


アレクサンダーは冷たく言い放つと、デスクの上のマルチディスプレイをタップした。

そこには、赤と青の複雑な折れ線グラフが激しく明滅していた。


「ならば、今ここで私に『証明』して見せろ。……現在、我がファンドは、宿敵である中国系の政府系ファンド『龍門資本ロンメン・キャピタル』から、ある大手IT企業の株を巡って、大規模な売り崩し(ショートアタック)を仕掛けられている。我が社の未来予測AIは、この株価は一時間後に『急反発する』と弾き出した」


アレクサンダーは、灰色の瞳をギラリと光らせ、私を睨みつけた。


「さあ、星読みの巫女。お前の『お星さま』は、この株価がこれからどうなると言っている? もし外せば、お前たちをテロ容疑者として今すぐFBIに引き渡す」


「あ、アレクサンダー様! さすがに、そんな世界最高峰の金融バトルを、5歳の子どもに――」


パパが前に出ようとするが、私はパパの服の裾をツンツンと引っ張った。

私は、アレクサンダーの身体から漂う『生体情報』を静かに読み取っていた。

彼は冷酷な仮面を被っている。けれど、その心臓は、驚くほど「激しい焦りと、肉体的な限界の悲鳴」を上げていた。

そして、彼の脳裏にこびりついている、不気味な黒い影――『劉天啓』の執念深い悪意。


「おじさん」


私はアレクサンダーのデスクにトコトコと近づくと、マルチディスプレイに映るグラフを、ちいさな人差し指でツンと触った。


「そのグラフ、ぜんぶ『嘘っこ』だよ」


「……何だと?」


「お星さまがね、『あっちの黒いチャイナのおじいちゃん(劉天啓)が、おじさんたちの優秀なロボット(AI)を騙すために、偽物の注文をいっぱい並べてゲラゲラ笑ってるよ』って言ってる。その赤色のお線、もうすぐ崖から落ちるみたいに、ドスンって落っこちちゃうよ」


「――ッ!!」


アレクサンダーの鋭い眉が、ピクリと跳ね上がった。

それは、彼らが今日直面している最大の懸念点――『見せフェイク・オーダー』によるAIの誤認識の可能性そのものだった。


「お星さまの予報だとね、あと『三十分後』に、おじさんたちのロボットが騙されて、お買い物をしすぎちゃうの。そうしたら、あっちのおじいちゃんが、持ってるものをぜんぶ『売り』ボタンで叩きつけて、おじさんたちのお金をぜんぶ奪っちゃう。おじさん、大赤字になって、またお胸がチクチク痛くなっちゃうよ?」


「な、なぜそれを……私の持病の心狭心症のことまで……!」


アレクサンダーは、ついにその圧倒的な威厳を崩し、デスクから立ち上がった。その額には、びっしりと冷や汗がにじんでいる。


「父上、凛ちゃんの言葉を信じて! 私の時もそうだったの! AIが予測できない『裏の罠』を、この子は完璧に視ているのよ!」


エリザベスが必死に訴えかける。

アレクサンダーは激しく揺れ動く灰色の瞳で私を見つめ、やがて、喉を鳴らして受話器を掴んだ。


「……トレーディングデスクか。私だ。……AIによる自動買い付けプログラムを、今すぐ一時停止しろ。今並んでいる買い注文を、すべてキャンセル(取り消し)だ。……理由? 私の『直感』だ。今すぐやれ!」


冷徹なデータ主義だった男が、5歳の幼児の言葉によって、世界を動かす数億ドルの注文を、土壇場で書き換えた。

そして、その運命の三十分後。

ウォール街を、激震が襲うことになる。



「――三十分経ったぞ」


アレクサンダー・ハミルトンの低く冷たい声が、スイートルームの張り詰めた空気を切り裂いた。

デスクの上に並ぶ十数枚のマルチディスプレイには、大手IT企業『シグマ・テック』の株価チャートが、嵐の前の静けさのように横ばいで推移している。

パパとお母さんは、お互いの手を壊れそうなほど強く握りしめ、チアノーゼを起こしそうな顔で画面を見つめていた。

もし、私の予言が外れていれば、私たちは今すぐ連行され、テロ容疑者として暗い独房に閉じ込められる。天宮家の運命をかけた、あまりにも巨大すぎる三十分間。

当の私はというと、エリザベスお姉ちゃんの膝の上で、高級なマカロンを「もぐもぐ、おいちい」とマイペースに頬張っていた。


「凛ちゃん、本当に大丈夫なんだよな……? パパ、もう心臓がマカロンみたいに粉々に砕け散りそうだよ……」


パパがガタガタと震えながら、私の顔を覗き込んでくる。


「大丈夫だよ、パパ。ほら、お空の星たちが、いじわるなおじいちゃんの合図で『いまだー!』って走り出したよ」


私がちいさな指でディスプレイを指差した、まさにその瞬間だった。

――ピキィン。

警告音とも、地鳴りともつかない不気味な電子音が、部屋の中に鳴り響いた。

直後。画面に映る『シグマ・テック』の株価を示す折れ線グラフが、まるで心停止した患者の心電図のように、垂直に、奈落の底へと向かって真っ逆さまに落下し始めた。


「な、何だこれは……っ!? 下がっていく……大暴落だ!!!」


アレクサンダーが、灰色の瞳を限界まで見開いて絶叫した。


「取引所のシステムがパニックを起こしている! 買い気配が完全に消滅したぞ! ……何が起きているんだ!?」


すかさずエリザベスが、手元のタブレットを叩いて怒涛の勢いでデータを解析し、悲鳴のような声を上げた。


「父上、大変よ! さっきまでシグマ・テック株に並んでいた、数十億ドル規模の『買い注文』が、暴落が始まった瞬間に一斉にキャンセル(取り消し)されたわ! これ……すべて実体のない【見せスプーフィング】だったのよ!」


「見せ板……! 龍門資本ロンメン・キャピタルめ、最初から買う気などサラサラなかったというわけか!」


「そうです! 私たちのAIは、その大量の偽の買い注文を『強い支持線』だと誤認して、反発すると予測していたの! もし、さっき凛ちゃんに言われるまま自動買い付けプログラムを実行していたら……」


エリザベスの顔から、完全に血の気が引いていた。


「私たちは、市場の底が抜けた最悪のタイミングで、十億ドル(約千五百億円)規模のシグマ・テック株を高値で掴まされ……一瞬で、数千億円の損失を被っていたわ。HGIは、今頃ウォール街の藻屑になっていた……っ!」


「う、嘘だろ……。千、千五百億円……?」


あまりにも天文学的な金額の規模に、パパの魂が口から抜けかけていた。


「パパ、だから言ったでしょ? 『見せ板』っていうのはね、泥棒さんがお宝を盗むために、パトカーの偽物のおもちゃをたくさん並べて、警察官のおじさん(AI)をあっちに引きつけておく『嘘っこ注文』なんだよ!」


私がマカロンの粉を口元につけながら解説すると、パパは冷や汗を流しながら、それを脳内で翻訳した。


「ス、スプーフィング(見せ板)……! 大量取引のフェイクオーダーを板に並べることで、アルゴリズムに『買い支えがある』と誤認させ、そこに本物の売り(ショートアタック)をぶつけて一気に市場を崩壊させる、機関投資家の禁じ手……! 凛ちゃん、そんな高度なマーケット操作の裏を、ただ『嘘っこ』の一言で完全に見抜いたのか……!」


天宮家が驚愕する中、スイートルームの主であるアレクサンダーは、まるで石像のように固まっていた。

自分の右腕である最先端の未来予測AI。

世界最高峰の頭脳が集うHGIのトレーダーたち。

そのすべてが、中国の黒幕・劉天啓が仕掛けた完璧な罠に嵌められ、破滅の崖っぷちに立たされていた。

それを。

たった一枚のマカロンを食べながら、「ロボットが騙されてるよ」と笑った5歳の少女が、一瞬で救って見せたのだ。


「……ありえん。こんなことが、あってたまるか……」


アレクサンダーはガタガタと膝を震わせ、デスクを両手で支えた。

彼のプライド、冷徹なデータ主義、ウォール街の覇王としての自信。そのすべてが、目の前の小さな私という「本物の奇跡」の前に、跡形もなく崩壊していく。

そのとき。


「――う、ぐっ……!」


アレクサンダーが突然、苦悶の声を漏らし、自分の左胸を強く掻きむしるようにしてデスクに突っ伏した。


「父上!? 大変、心絞痛の作動アタックよ! ニトロは……ニトロはどこ!?」


エリザベスが青ざめて叫び、室内が大混乱に陥る。


「パパ、おじさんのお胸の奥が、氷でギューギューに縛られてる! 息ができないって叫んでるよ!」


私の『生体情報』は、アレクサンダーの冠動脈が極度の緊張とショックで痙攣スパズムを起こし、心臓に血液が行き届かなくなっているのを、はっきりと捉えていた。


「凛ちゃん、どうすればいい!?」


パパが慌てて私を降ろす。


「お姉ちゃん、おじさんの着ているお洋服スーツの、右側のお胸の内ポケット! そこに、ちいさな赤いお薬のボトル(ニトロスプレー)が入ってる!」


「えっ!? 内ポケットに……!?」


エリザベスが慌ててアレクサンダーのジャケットの内ポケットに手を突っ込むと、本当に凛の言った通りの位置から、赤いニトロスプレーの容器が飛び出してきた。


「あったわ! 父上、口を開けて!」


スプレーがアレクサンダーの舌下に噴射される。

同時に、私はトコトコとアレクサンダーに近づくと、その震える大きな手に、私のちいさな手のひらをそっと重ねた。


「おじさん、大丈夫だよ。凛ちゃんが、お胸のチクチクを『ぽいっ』ってしてあげるからね」


私の生体情報の治癒波動が、アレクサンダーの自律神経へと優しく浸透し、痙攣を起こしていた血管を柔らかく解きほぐしていく。


「あ……、はぁ……っ……」


わずか数秒。

アレクサンダーの激しい呼吸が、劇的に落ち着きを取り戻していった。

顔に赤みが戻り、血管の痛みが、嘘のように消え去っていく。

彼は信じられないという顔で、自分の胸に手を当て、それから、自分の手の上に重ねられた私の小さな手を見つめた。


「痛みが……消えた……? 薬の効果だけではない、この温かい感覚は、一体……」


アレクサンダーは、ゆっくりと顔を上げた。

その灰色の瞳には、先ほどまでの冷酷な不信感は、微塵も残っていなかった。

あるのは、神の前にひれ伏す巡礼者のような、圧倒的な【畏怖】と、そして――。


「……父上? お加減は……」


エリザベスが恐る恐る尋ねる。

アレクサンダーは、ゆっくりと立ち上がると、オーダーメイドの高級スリーピーススーツが汚れるのも厭わず、私の前に両膝をついた。

地上300メートルの王座に君臨する覇王が、5歳の幼児を見上げる姿勢を取ったのだ。


「凛、ちゃん……と、言ったな」


アレクサンダーの声は、震えていた。


「私は生涯、データと確率しか信じない男だった。……だが、今、確信した。お前は『奇跡』そのものだ。我が娘の命を救い、我が社の破滅を未然に防ぎ、そして私の命まで救ってくれた……」


彼は私のちいさな手を両手で包み込み、深くこうべを垂れた。


「天宮凛。本日この瞬間より、お前をハミルトン・グローバル・インベストメンツの【終身・最高預言者チーフ・オラクル】に任命する。我が一族のすべての資産、世界中の人脈、そして私の命すら、すべてお前のために使おう」


「えっ……さいこう……よげんしゃ?」


聞き慣れない言葉に、私が首を傾げると、横からエリザベスが猛烈な勢いで割り込んできた。


「ちょっと、父上! 凛ちゃんは私のエンジェル(天使)よ! 勝手に最高預言者なんていう堅苦しい役職につけて、お仕事させる気じゃないでしょうね!? 凛ちゃんには、ハミルトン家の資産で毎日お菓子を食べさせて、お人形で遊んでもらうのが仕事なのよ!」


「ふん、エリザベス。お前の『溺愛』は視野が狭い。トイザらスを一店舗建てるなど、片腹痛い。……凛。私はお前のために、セントラルパークの隣にある、最高級のビルを丸ごと一棟、お前の『おもちゃプレイルーム』として買い取ったぞ。中には、世界中のディズニーランドのアトラクションをすべて詰め込ませよう」


「わあーっ! ビルまるごとおもちゃ箱! ディズニーランド! おじさん、かっこいー!」


「くっ……! おじさん、だと……? 嬉しい……胸が熱い、これは狭心症ではなく……【萌え】だな……っ!」

アレクサンダーは胸を押さえ、嬉し涙を流しながら悶絶した。


「ちょっと父上! 私の凛ちゃんに変な言葉を教えないで!」


世界最強の金融親娘が、5歳の私の前で、醜い「どっちが私をより甘やかせるか」の権力闘争マウンティングを始めようとしていた。


「……あ、あの、ハミルトン様? 三億円の契約は……?」


パパが恐る恐る挙手する。

アレクサンダーは極上の、けれど目が完全に座った笑顔でパパを振り返った。


「サトル。三億円などという端金はしたがねを提示して、すまなかった。……年収は【十億円テンミリオン】に変更する。あと、お前たちの安全を守るために、元SAS(英国特殊空挺部隊)の精鋭からなる私設軍隊を二十四時間、アパートの周囲に配置させてもらう。いいな?」


「じ、十億円に……私設軍隊……」


パパは完全にキャパシティを超え、お母さんと共に、ペントハウスの床に崩れ落ちたのだった。

こうして、天宮家はアメリカ上陸初日にして、ウォール街の覇王すらも「完璧なシスコン・おじいちゃん(?)」へと堕落させ、名実ともにウォール街を裏から支配する最強のファミリーとなった。

しかし、大逆転の祝杯をあげるペントハウスの窓の外。


遙か太平洋を越えた中国・上海の超高層オフィスでは、劉天啓が怒りに震えていた。


『――なぜだ! なぜ、ハミルトンはあの完璧なスプーフィングを避けることができた! 誰だ……誰が、私の邪魔をした……っ!?』


劉天啓の未来予測AIが、不吉なエラーを吐き出す。

彼の「死の恐怖」が、ゆっくりとニューヨークへと向けられようとしていた。



「――なぜだ! なぜハミルトンはあの完璧な罠を避けることができた! 誰が私の邪魔をしたのだ!」


中国・上海の超高層ビルの最上階。

漆黒のチャイナスーツに身を包んだ老人、劉天啓リウ・テンチーは、巨大な翡翠の指輪を嵌めた指でデスクを激しく叩きつけた。

彼の目の前の巨大なディスプレイには、彼が極秘裏に開発させた最先端の未来予測AIが、赤く点滅するエラーコードを吐き出し続けている。

そして、その画面の端には、かつて彼が開発させたAIが弾き出した、不吉極まりない『予言』が不気味に浮かび上がっていた。


『警告:劉天啓。あなたは“未来を読む存在”によってすべてを奪われ、殺される』


「ハミルトンのAIが私の裏をかいたのではない。あの裏には、もっとおぞましい『何か』がいる……。まさか、あの時の『巫女』の生き残りか……?」


劉天啓は、恐怖と怒りに歪んだ顔で自分の胸元を強く掴んだ。

彼は幼少期に「未来を読む少女」から自身の死を予言され、その恐怖から逃れるために、世界中の予言者や異能者を捕らえては利用し、最後には殺してきた。彼にとって、未来を読む存在とは、自分の命を脅かす『最悪の敵』であり、同時に手に入れなければならない『不死への鍵』だった。


白面はくめんを呼べ」


劉天啓が低く呟くと、豪奢なオフィスの影から、音もなく一人の男が現れた。

白い陶器のような無表情の仮面――いや、仮面に見えるほどに感情の起伏が削ぎ落とされた、真っ白な肌の男。

元特殊部隊の暗殺者、コードネーム『白面』。


「ハミルトンが『チーフ・オラクル』として囲い込んだ、日本から来た五歳の神童、天宮凛。……あの娘を、無傷で私の元へ連れてこい。もし抵抗するなら、両親の目の前で手足を――」


「了解(イー、ダァ)」


白面は感情のない声で短く応えると、煙のようにその場から姿を消した。



数日後。ニューヨークの超高級ペントハウス。


「凛ちゃん! 今日はね、凛ちゃんのためにマディソン・アベニューのおもちゃ屋さんを丸ごと貸し切っておいたわ! 好きなお人形を、棚の端から端まで全部カートに入れましょうね!」


「わあーい! お姉ちゃん、お買い物! お人形いっぱい!」


私はエリザベスお姉ちゃんの腕に抱っこされながら、満面の笑みでジュースを飲んでいた。

パパの年収が十億円になり、ハミルトン家から元SAS(英国特殊空挺部隊)の精鋭たちによる二十四時間の護衛がつくようになったものの、私たちの生活は良い意味であまり変わっていなかった。


「凛ちゃん……。お姉ちゃんの溺愛っぷりが、日に日にエスカレートしてないかい? さっきセントラルパークを散歩しただけで、お姉ちゃんの部下たちが不審者を全員タックルでねじ伏せてたよ……」


パパが、高級仕立てのスーツを着ておろおおろしながら、後ろからついてくる。パパの『生体情報』は、アメリカの贅沢な暮らしに胃がびっくりしているのか、ピンク色と、少しだけ「庶民に戻りたい」という灰色の光が混ざり合っていた。


「いいじゃない、サトル。凛ちゃんの安全は、世界の金融市場の安定と同義なのよ。少しでも不穏な動きがあれば、即座に排除するのがハミルトンの流儀よ」


エリザベスはフンスと胸を張り、私に甘いマカロンを食べさせようとした。

だが、その時。

私の頭の中で、大阪の明るいネオンや、マンハッタンのまばゆい摩天楼を突き抜けて、夜空の星たちがキチキチと不気味な音を立てて軋み始めた。

(……あれ? お星さまが、お腹を壊したみたいに、真っ黒に濁ってる)

私の『生体情報』が、セントラルパークの美しい並木道の奥から漂ってくる、異質な「空白」を検知した。

それは、普通の人が持つ「ドキドキ」や「イライラ」といった感情の波が一切ない、まるで冷たいコンクリートの壁のような、不気味な生体データ。

感情のない人間。すなわち、私を狙う刺客。

(……くる。悪いおじさんが、凛ちゃんを箱に詰めに来るよ!)

私の脳裏に、一分後の未来のビジョンが鮮鮮と映し出された。

白面が風のように現れ、エリザベスの護衛たちを一瞬で無力化し、私を抱えて逃げ去る未来。

パパとお母さんが泣き叫び、エリザベスが絶望する、最悪の断片。

(だめ。そんな未来、絶対にお星さまが許さないもん!)

私はエリザベスの腕からトコトコと降りると、近くのベンチの横へと走った。


「凛ちゃん!? 急に走ったら危ないわよ!」


エリザベスたちが慌てて追いかけてくる。

私は一分後の未来のビジョンから逆算して、ポケットから昨日お姉ちゃんに買ってもらったお気に入りの『よく跳ねるカラフルなスーパーボール』を取り出した。

(ここにお星さまの『おまじない』を置くね)

私は、ベンチの脚のわずかな隙間に、スーパーボールをコロン、と置いた。

さらに、お姉ちゃんが持っていた高級テイクアウトのコーヒーカップのストローを、ゴミ箱の蓋の隙間に斜めに差し込む。

そして、足元に落ちていた、大きなドングリを一つ、アスファルトの小さなくぼみにそっと置いた。

大人が見れば、ただの五歳児の他愛もない悪戯いたずらにしか見えない、奇妙な配置。

だが、これこそが、バタフライ効果を極限までコントロールする、私の『未来視ピタゴラスイッチ』の起爆装置だった。


「凛ちゃん、お人形で遊ぶ前に、おててを拭きま――」


エリザベスが私に近づこうとした、その瞬間。

――シュッ!

木々の影から、信じられない速度で、白い無表情の男――白面が飛び出してきた。

彼の右手には、一瞬で人間を眠らせる特殊な麻酔スプレーが握られている。


「なっ……!? 侵入者! 各員、戦闘態勢――」


元SASの護衛たちが腰の銃に手をかけようとするが、白面の速度はそれを遥かに凌駕していた。一瞬にして護衛の懐に飛び込み、無力化しようとした、まさにその一歩目。

白面がアスファルトの上の『ドングリ』を踏みつけた。

普通の人間なら、ただドングリが潰れて終わる。だが、超人的な速度で動いていた白面にとって、そのわずかな足元の「転がり」は、致命的な重心のズレを生み出した。


「……っ?」


白面が無表情のまま、わずかに体勢を崩し、一歩大きく踏み出す。

その踏み出した先には――私がベンチの隙間に置いた、直径わずか三センチの『スーパーボール』があった。

白面の頑丈なタクティカルブーツが、スーパーボールを全力で踏みつける。

瞬間、ボールは猛烈な圧力で弾け飛び、近くのゴミ箱の蓋に斜めに刺さっていた『ストロー』を直撃した。

パチン、とストローが跳ね返り、ゴミ箱の上に置かれていた、中身がたっぷり入った重い空き缶を弾いた。

空き缶がゴロゴロと転がり落ち、その先を歩いていた、大きなセントバーナード犬を連れた散歩中のマダムの足元を直撃する。


「キャッ!?」


マダムが驚いてリードを離してしまい、興奮した超大型犬が、ものすごい勢いで白面に向かって突進した。


「グルルゥ、ワンッ!」


白面は、突然目の前に現れた五十キロを超える巨犬を避けるため、空中で身を翻さざるを得なかった。

しかし、その着地予定地点には――お姉ちゃんのSPが、驚いて手から滑り落とした、最高級のピカピカに滑る『マカロンの箱のプラスチックカバー』が落ちていた。

ツルッッッ!!!


「なっ……!?」


感情を失っていたはずの暗殺者の顔に、初めて、明らかな【驚愕】の表情が浮かんだ。

白面の両足はマカロンのカバーで見事に滑り、彼は漫画のように綺麗にひっくり返ると、そのまま近くの池に向かって、頭から派手に突っ込んでいった。

――ドボォォォン!!!

激しい水しぶきが上がり、セントラルパークの静かな池の中に、白い無表情の暗殺者が沈んでいく。


「……ワン!」


大型犬が池のふちで嬉しそうに吠え、濡れ鼠になった白面は、泥と藻を頭に載せたまま、信じられないものを見る目で、池の中から私を見つめていた。

一分先の未来を、たった一個のドングリとスーパーボールで完璧に書き換え、無傷で暗殺者を撃退したのだ。


「……す、凄すぎる」


パパが腰を抜かしてベンチに座り込んだ。


「サトル……今のは、ただの偶然……じゃないわよね? 凛ちゃん、あの男がそこから走ってくるのを知っていて、ドングリを……?」


エリザベスも、タブレットを落としそうになりながら、私の『神がかったピタゴラスイッチ』の全貌を理解し、ガタガタと震えていた。


「うん! お星さまがね、『いじわるなおじいちゃんのお友達が、凛ちゃんを泥んこにしにくるから、ドングリさんで滑らせちゃえ』って言ったの!」


私は何事もなかったかのように、お気に入りのアンパンマンの人形をぎゅっと抱きしめ、お姉ちゃんを見上げてにこっと笑った。


「オーマイガー……! なんて完璧な防衛システムなの……! 世界最高のセキュリティ会社すら不要だわ! 凛ちゃん、あなた本当に私の最高預言者チーフ・オラクルよ!」


エリザベスは池から這い上がろうとする白面を冷たく一瞥すると、手元のインカムでSPたちに指示を出した。


「池の中の濡れ鼠を捕らえなさい。ハミルトン家へのテロ行為として、FBIとCIAの特別尋問室に直行よ。……それから、龍門資本の劉天啓に、私から最高に冷たい『警告のメッセージ』を送りなさい。――これ以上マイ・エンジェルに触れようとするなら、お前のファンドを世界中から合法的に圧殺するとね」


「了解しました、ボス」


濡れ鼠になった白面がSPたちに拘束されて連行されていく中、私はパパの手をぎゅっと握りしめた。

パパの『生体情報』は、先ほどのスリリングな展開への恐怖から、一気に「娘が強すぎて何も心配いらない」という、お気楽なピンク色へと染まりつつあった。

だが、私の脳裏の星空には、さらなる巨大な『情報の星座』が激しく脈打っていた。

劉天啓の刺客を撃退した。けれど、彼の狂気は、これで収まるようなものではない。

(いじわるなおじいちゃん、今度はパパの『パソコン』を壊そうとしてる。……パパ、お星さまのお歌に合わせて、もっといっぱいきんきらのお金を動かさなきゃ!)

天宮家とハミルトン家、そして世界金融を巻き込む本当の『金融戦争』の火蓋が、今、ニューヨークで切って落とされようとしていた。



「――な、なんやこれ! パソコンの画面に、目が真っ赤なガイコツが浮かび上がってゲラゲラ笑っとるで!」


マンハッタンの超高級ペントハウスの朝。

お母さんが、焼きたてのフレンチトーストをお皿に載せたまま、リビングのデスクを指差して悲鳴をあげた。


「ひ、ひぃぃぃっ! 僕の、年収十億円の専用トレーディングパソコンが……! キーボードを押しても、全く反応しない! 画面が真っ赤に染まっていく!」


パパが頭を抱えて、デスクの前でパニックに陥っていた。

パパが使っている最新鋭の端末は、ハミルトン家が提供した、国防総省レベルのセキュリティを施された最高機密システム。それがいま、どす黒いレッドスカルのアイコンにジャックされ、不気味な電子笑い声を上げているのだ。


緊急事態エマージェンシーよ! すべての端末をネットワークから遮断しなさい!」


バタバタと激しいヒールの音を響かせてリビングに飛び込んできたエリザベスお姉ちゃんは、いつもの私を抱きしめる「デレデレ顔」を完全に消し去り、冷徹な金融界のプリンセスの顔をしていた。

その後ろからは、アレクサンダーおじさんまでもが、深刻な表情でタブレットを握りしめて現れる。


「サトル、夕紀、落ち着け。……ハッカーだ。上海の劉天啓リウ・テンチーが、世界最凶の金融サイバーテロ組織『ブラック・サークル』を雇い、我がHGIとサトルの個人口座に同時ハッキングを仕掛けてきた」


「ブラック・サークル……!? あの、各国の政府銀行すら麻痺させたという、伝説のサイバーテロリストですか!?」


パパが冷や汗を流しながら、ディスプレイを見つめる。


「ええ。奴らの目的は、サトルの口座の十億円をハッキングで強制的に動かし、世界市場で『偽の売り注文』を大量にばら撒くことよ。それによって市場を人工的に大暴落させ、パニックに陥ったところで、劉天啓のファンドが底値で市場をすべて買い叩く……」


エリザベスは唇を強く噛み締めた。


「現在、我が社のサイバーセキュリティチームが総力で防御しているけれど……敵の攻撃コードが高度すぎて、防壁が次々と突破されているわ。あと十分で、サトルの口座のすべての権限が奪われ、世界を巻き込む『人工的な金融恐慌』の引き金が引かれてしまう……!」


「そ、そんな……。十億円が盗まれるだけじゃなくて、僕の名前で世界中を大混乱にするなんて……。やっぱり、僕みたいな庶民がこんな世界に首を突っ込むべきじゃなかったんだ!」


パパの『生体情報』は、恐怖と自己嫌悪で、今にも消え入りそうなドブネズミのような灰色に沈んでいた。

だが、私はフレンチトーストにメイプルシロップをたっぷりとかけながら、リビングの大きな窓の外を見上げていた。

(……あれ? お空の星たちが、青色から、すっごく汚い『泥だらけのクモの巣』にがんじがらめにされてる)

私の『星読み』と『生体情報』は、インターネットの光回線という目に見えない星の道を伝って、ニューヨークから世界中に広がる「悪意のデータ」をリアルタイムで受信していた。

劉天啓の放ったハッカーたちの、黒い悪意。

彼らは、パパのパソコンの中に、目に見えない「悪い泥棒の虫」を何千万匹も送り込み、パパの大事なお金を外へ連れ出そうとしている。

(だめ。パパのパソコンは、お星さまのマークがついてる、凛ちゃんの大事なおもちゃなんだから! 泥棒さんなんか、ぽいってしちゃうもん!)

私は最後の一口のフレンチトーストをパクリと食べると、お口のまわりをペーパーナプキンでふきふきして、トコトコとパパのデスクへと向かった。


「お姉ちゃん。おじさん」


私はエリザベスの服の裾をツンツンと引っ張った。


「その『ガイコツさん』ね、お口の中に、ちいさな『嘘っこのダミーキー』を隠してるよ。パパ、キーボードの『コントロール』っていうボタンと、『アルト』っていうボタンを、ぎゅーって一緒に押して?」


「え……? コントロールと、アルト……?」


パパが驚いて私を見下ろす。


「凛ちゃん、それはシステムを強制再起動する時の……。いや、でも画面が完全にロックされていて、そんな基本コマンドは効かないはず――」


「いいからやりなさい、サトル! 凛ちゃんの言葉は、宇宙の真理よ!」


エリザベスが猛烈な勢いで叫んだ。

パパはビクッと肩を震わせると、言われた通りにキーボードの『Ctrl』と『Alt』を同時に長押しした。

すると、奇跡が起きた。

真っ赤だったガイコツの画面が一瞬だけ白く反転し、その奥に、ハッカーたちが隠していた、侵入用の裏口バックドアのプログラムコードが、滝のように青い文字で流れ落ち始めたのだ。


「なっ……!? バックドアが開いた!? 敵が防御のために隠していたはずの、メインコントロール・ノードのIPアドレスが、丸見えになったぞ!」


アレクサンダーが、タブレットを落としそうになりながら絶叫した。

世界最凶のハッカー集団が、何年もかけて隠蔽してきた「自分の足跡」が、5歳の幼児の一言によって、一瞬で引きずり出されたのだ。


「パパ。パソコンはね、難しいお勉強じゃないよ。お星さまのおリズムに合わせて、ピアノさんをぽんぽん、って叩くおもちゃなんだよ」


私はパパの膝の上によじ登ると、パパの手を私のちいさな手で包み込んだ。

私の『生体情報』がお母さんの時と同じようにパパの指先へと流れ込み、パパの脳裏に、世界中の光ファイバーが織りなす「電子の五線譜(楽譜)」がはっきりと視覚化された。


「さあ、パパ! お星さまのお歌だよ! 凛ちゃんが歌うから、その通りにピアノ(キーボード)さんを弾いてね!」


「お、お歌……!? キーボードで、お歌を弾くのか!?」


「そう! いくよ! ――♪ぽん、ぽん、ちゅ。 ぽん、ぽん、ちゅ!」


私が、保育園でよく歌うお遊戯の歌を歌い始める。

一見すると、ただの5歳児の可愛い鼻歌。

だが、そのリズムとメロディは、星の運行が示す、ハッカーたちの攻撃データを完全に無力化する『カウンター・パッチ(修復プログラム)』の入力コードそのものだった。


「♪ぽん(エンターキー)、ぽん(スペースキー)、ちゅ(『Y』のキーをプッシュ)!」


「う、おおおおおおっ!?」


パパは私の歌うリズムに合わせて、まるで一流のピアニストのように、キーボードの上で指を猛烈な速度で踊らせた。

パパの目には、キーボードのキーの一つ一つが、光り輝く「星の鍵盤」に見えていた。


「♪つぎはね、みぎのお耳を、ツン、ツン、ぷしゅー!」


「みぎのお耳……! つまり、テンキーの『8』と『9』を押して、エンターだな!」


カタカタカタカタ!!!

ッターン!!!

リビング中に、心地よい打鍵音が鳴り響く。

パパが私の歌に合わせてキーを入力するたびに、画面の赤いガイコツは苦しそうに歪み、ハッカーたちがばら撒いた「悪い泥棒のマルウェア」が、光の粒子となって次々と消滅していった。


「あ、ありえない……。これは、ハッキングの防壁を修復しているんじゃない……。サトル、お前、凛ちゃんの歌に合わせて、敵のサーバーの『心臓部』に、逆に数兆回もの買い注文(DDoSアタックに近い超高速買い付け)を送り込んでいるのか!?」


アレクサンダーが、目玉が飛び出しそうな顔でディスプレイの数値を睨みつけた。


「敵のハッカー集団は、世界中の投資家から集めた空売り用の資金口座を使って、我が社を攻撃していた。……だが、凛ちゃんは、その口座の『バグ』を完璧に見抜き、敵の資金をすべて【メキシコペソ】と【日本円】の超高レバレッジの買い戻しへと強制的に誘導しているのよ!」


エリザベスが、興奮のあまり髪を振り乱して叫んだ。


「敵のシステムは、自分たちの仕掛けたハッキングコードが、まさか自分たちの資金を『勝手に全力買い』する命令に書き換えられているなんて、夢にも思っていないわ! 敵のサーバーの処理能力キャパシティが、自分たちの暴走注文に耐えきれず、完全にオーバーヒートしている!」


「♪おしまいのお歌だよ! ――みんなで一緒に、お星さまになぁれ! はい、ぽんっ!!」


私が最後に、パパのちいさな小指を掴んで、一番大きな『Enterキー』を力いっぱい押し込んだ。

――ッターン!!!!!

瞬間、ディスプレイの中の赤いガイコツは、「ギャアアアッ!」というノイズ音と共に粉々に砕け散り、元の美しいHGIのトレード画面へと戻った。

それと同時に、画面の右下に表示された、敵のサイバー攻撃元のデータ。

『龍門資本・攻撃ファンド:強制ロスカット完了。残高:0ドル』


「……消、消滅した」


アレクサンダーはタブレットを床に落とし、ガタガタと震えながらソファーに座り込んだ。


「ブラック・サークルが、劉天啓から預かっていたテロ資金、十億ドル(約千五百億円)が……わずか三分間、5歳の少女の『お遊戯の歌』によって……すべて市場に吸い込まれ、消滅した……。我がHGIは一銭も傷つかず、敵の攻撃ファンドだけが、一瞬にして自己破産したのだ……」


世界中を恐怖に陥れてきたサイバーテロ組織が、アンパンマンのジュースを飲む幼児の鼻歌によって、完膚なきまでに叩き潰された。

これぞ、世界最高の「ざまぁ」の瞬間だった。


「……夕紀。……僕、本当に、世界を救っちゃったみたいだ」


パパが、燃え尽きた灰のようになって、キーボードの上で真っ白になっていた。


「あなた……凄かったよ。まるで、世界一カッコいいピアニストみたいだった!」


お母さんが、パパの肩を揉みながら涙を流して喜んでいる。


「マイ・エンジェル……!!!(絶叫)」


エリザベスお姉ちゃんが猛烈な勢いでスライディングし、私を抱きしめた。


「オーマイガー! なんて神聖なお歌なの! 凛ちゃん、あなた本当に私のチーフ・オラクルよ! ブラック・サークルを一言の歌で自滅させるなんて、歴史上のどんな天才プログラマーも敵わないわ!」


「お姉ちゃん、凛ちゃん、ただお歌うたっただけだよ? ぽん、ぽん、ちゅー、だよ?」


「キュンッッッ!!!(心停止寸前)」


エリザベスは胸を押さえ、その場にばたりと倒れ込んだ。


「凛。私はお前のために、セキュリティ専門の子会社を丸ごと一つ買い取ったぞ。本日より、世界最高のホワイトハッカー千人を、お前の『おもちゃのパソコン』を監視するためだけに配置する。いいな?」


「お、おじさん……おもちゃのパソコンに、ホワイトハッカー千人って、規模がおかしいよ……」


パパが遠い目をしている。パパの『生体情報』は、またしても娘の規格外の能力に対する「もう驚くのはやめよう」という、お気楽なピンク色へと染まりきっていた。

天宮家、ハッカー襲来をまさかの「鼻歌」で完全撃退。

世界最強の金融ファミリーの伝説は、ニューヨークの空に、ますます輝かしく刻まれていくのだった。

しかし、その頃。

上海のオフィスで、劉天啓は、自分のテロ資金口座が一瞬で「残高ゼロ」になった画面を見つめ、泡を吹いて卒倒していた。

『う、あ……あ、ありえない……。私の十億ドルが……私の命の資金が……消えた……っ!? 誰だ……誰が、私の邪魔を……っ!!!』

彼の未来予測AIは、ただ一言、不気味なメッセージを表示していた。

『警告:未来を読む少女が、あなたをロックオンしました』

劉天啓の、死へのカウントダウンが、確実に早まりつつあった。



「――いや、だからね? エリザベス様、アレクサンダー様。僕はただの、ごく初期の胃がんの手術をするだけなんです。日本の普通の市民病院で、普通に腹腔鏡手術を受ければ、一週間で退院できるんですよ?」


大阪へ向かうプライベートジェット『ハミルトン・スカイクイーン号』の豪華な機内。

パパは、オーダーメイドの高級スーツを着たまま、額の汗をハンカチで拭いながら必死に懇願していた。


「何を言っているの、サトル! 胃がんの手術ですって? 万が一、執刀医の手が滑ったらどうするのよ!」


エリザベスお姉ちゃんは、私をスベスベの太ももの上に乗せて優しく頭を撫でながら、信じられないほど過保護な表情で叫んだ。


「日本の医療技術が世界最高峰なのは認めるわ。だからこそ、私は大阪にあるその『市民病院』の最上階の特別ワンフロアを丸ごと買い取って、HGI専用の超高級プライベート・クリニックに改築させたわ。世界トップクラスの外科医チームも、すでにロンドンとニューヨークからチャーター機で大阪に送り込んであるわよ!」


「か、買い取って改築……!? 市民病院を!?」


パパは白目を剥いてソファーにひっくり返りそうになった。


「サトル、エリザベスの言う通りだ」


横から、最高級の葉巻(火はついていない)を指に挟んだアレクサンダーおじさんが、重々しく頷いた。


「我が社の『最高預言者チーフ・オラクル』である凛の父親の腹に、万が一のことがあっては世界の金融秩序が崩壊する。お前の胃袋は、もはやお前一人のものではないのだ。……安心しろ、病院の周囲にはすでに、日本政府の公安と、ハミルトン私設の元SAS(英国特殊空挺部隊)の精鋭五十名が、医療ボランティアや清掃員に変装して二十四時間体制で潜入している」


「清掃員に変装したSAS……! 廊下でモップをかけているおじさんが、全員アサルトライフルを隠し持っている市民病院なんて、怖くて入院生活どころか不眠症になりますよ!」


パパの『生体情報』は、あまりにも過剰すぎるセキュリティへの恐怖と、庶民感覚との凄まじいギャップで、激しいマーブル模様を描いて明滅していた。


「パパ、だいじょうぶだよ!」


私はエリザベスお姉ちゃんの膝の上で、メロンジュースをちゅーちゅーと吸いながら、パパに向けてにこっと笑った。


「お星さまがね、『パパのお腹の泥団子がんは、お医者さんのおっきなハサミでチョキンってやれば、すぐにお外にぽいって飛んでいっちゃうよ』って言ってるもん。痛いの、ちちんぷいぷいのぷいだよ!」


「凛ちゃん……。お前がそう言ってくれるのが、世界で一番の精神安定剤だよ……」


パパは涙ぐみながら、私のちいさな手を握りしめた。

そう、これだけは間違いない。

私の「星読み」と「生体情報」の予報では、パパの手術は大成功し、パパは完全に健康な体を取り戻す。最悪の未来の『第一の破滅(パパの過労死)』は、これで名実ともに、完璧に粉砕されるのだ。

だが、ハミルトン家とタッグを組んで世界を動かすようになった私たちにとって、大阪への一時帰国は、単なる「パパの里帰り手術」では済まない大イベントになっていた。



数時間後。関西国際空港。

滑走路に降り立ったプライベートジェットから一歩外に出た瞬間、お母さんは大阪の懐かしい、ちょっぴり塩気のある生暖かい潮風を吸い込んで、お玉(を模した高級ブランドのキーホルダー)を握りしめて涙を流した。


「ああ……帰ってきたわ、大阪! ニューヨークのハンバーガーも美味しかったけど、やっぱり私は、たこ焼きとお好み焼きが恋しくて恋しくて……!」


「夕紀、感動しているところ悪いけど、出口を見てごらん……」


パパが真っ青な顔で、空港のVIP専用出口を指差した。

そこには、黒塗りの最高級防弾セダンが十台以上、一列に並んでエンジンをアイドリングさせていた。

周囲には、耳に無線インカムをつけた黒スーツの屈強な男たちがズラリと配置され、通行人たちが「ハリウッドセレブか、どこの国の大統領が来たんだ……?」と、遠巻きにスマホで写真を撮りまくっている。


「……アマミヤ様、ハミルトン様。お迎えに上がりました」


感情なき暗殺者『白面はくめん』――ではなく、ハミルトン家に完全拘束され、FBIの特別尋問を経て、今や天宮家専属の「裏の警護員(元暗殺者)」として雇用された男が、無表情のままドアを開けた。


「は、白面さん……。あなた、すっかりハミルトン家の最高級お給料(年俸五千万円)になついちゃって……」


パパが引き攣った顔でセダンに乗り込む。


「凛様。……メロンの飴ちゃんです」


白面は、ポケットから大阪のおばちゃんさながらに、パインアメをそっと私に差し出してきた。


「わあーい! 白面おじさん、あめちゃん、ありがとう!」


「キュン……!(微細な心拍の乱れ)」


白面の『生体情報』が一瞬だけ、激しいピンク色に染まった。感情のない暗殺者すら、私の5歳児パワーの前には、ただの優しい飴ちゃん配りのおじさんへとデレ化していた。

こうして、私たちは物々しい護衛の船団に守られながら、パパが入院予定の大阪の市民病院へと向かった。



大阪市内の総合市民病院。

いつもなら、おじいちゃんやおばあちゃんがのんびりと待合室でテレビを見ている、平凡な市民病院。

だが、最上階の『特別VIPフロア』に足を踏み入れた瞬間、そこは完全にウォール街の超高級ホテルのスイートルームへと変貌を遂げていた。


「な、なんやこれ……。床にフカフカの絨毯が敷き詰められてて、壁にはシャガールの本物の絵画が飾ってあるで……。ここ、ほんまにいつも予防接種にきてた市民病院!? 診察券、プラスチックの安いやつやけど大丈夫なん!?」


お母さんが、廊下を歩くたびに腰を抜かしている。

病室のベッドは、最高級の電動リクライニング仕様。

窓からは、天王寺の通天閣やハルカスが見下ろせる絶景が広がっていた。


「サトル。明日はいよいよ手術だ。……何も心配することはない」


アレクサンダーおじさんが、パパの病室のソファーに偉そうに腰掛け、最高級のミネラルウォーターをグラスに注ぎながら言った。


「私が、この病院の全医師と看護師に、お前の体重一グラムあたり一万ドルの特別ボーナスを提示しておいた。……彼らは今、大統領のオペをする以上の緊張感と使命感で燃えている」


「体重一グラムあたり一万ドル!? 僕、今七十キロだから……な、七億ドル!? お医者さんたちの目が、お金のマークに濁って、逆にメスを持つ手が震えそうなんですけど!」


パパの絶叫が病室に響き渡る。

そんなドタバタの中、私は病室の大きな窓から、大阪の明るい夜空を見上げていた。

本来なら、街の明かりで見えないはずの星空。

だが、今の私の目には、大阪の空の奥に、不気味で巨大な『黒い蜘蛛の巣』のような星図が、ゆっくりと広がっていくのが視えていた。

(……あれ? お星さまが、息ができないよー、って、もがいてる)

私の『生体情報』が、太平洋を越えて、中国・上海から放たれる、凄まじい「執念」と「狂気」の生体データをキャッチした。

それは、ハッカーテロで1500億円を失い、完全に後がなくなった黒幕・劉天啓リウ・テンチーの、最後の悪あがき。

(いじわるなおじいちゃん、今度は『日本の国(せいじ家)』のおじさんたちをたくさん脅かして、凛ちゃんたちを牢屋に入れようとしてる……!)

劉天啓は、正面からの金融バトルや武力行使ではハミルトン家に勝てないと悟り、ついにその莫大な政経コネクションを使って、日本の閣僚や金融庁のトップを裏から買収。


「天宮凛という幼児は、違法なインサイダー取引と金融テロを行っている容疑者である」という容疑を捏造し、日本政府の『国家権力』を使って、強制的に私をハミルトン家から引き離し、拉致しようと画策していたのだ。

夜空の星たちが、冷たい鉄格子の形になって、この病院を囲むように瞬き始める。

(パパの手術の日に……いじわるなおじいちゃんの、黒いお星さまが、ここに降ってくるよ)

私は、眠るパパのベッドの横で、ちいさな手をぎゅっと握りしめた。

パパの健康な未来は守った。けれど、今度は、この国そのものを巻き込む、最大の『国家交渉マネー・ウォー』が始まろうとしていた。


「凛ちゃん、どうしたの? 怖い夢でも見た?」


お母さんが心配そうに、私のちいさな肩を抱きしめる。


「ううん、大丈夫だよ、ママ。……あしたね、パパのお腹が綺麗になったら、お外に『黒いクモの巣』を持ったいじわるな人が来るの。お姉ちゃんとおじさんと一緒に、お星さまのお歌で、そのクモの巣をビリビリに破いちゃおうね!」


ちいさな巫女の瞳に、大阪の夜空をすべて支配するような、金色に輝く「星の防壁」が灯った。

最悪の黒幕との、現代日本での直接対決サスペンスの幕が、ついに上がろうとしていた。

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