最悪の未来、そして5歳児の手のひら
新作を三分割投稿、本日・明日・明後日18:40で完結いたします。
「――さあ、読め。次の未来を、この私に見せるのだ!」
引き裂くような絶叫。
鼓膜を震わせる爆音と、鼻腔を突くツンとした硝煙の匂い。
そこは、燃え盛るニューヨークの超高級ペントハウスだった。ガラス張りの壁の向こう、まばゆい夜景はすべて真っ赤な炎に包まれている。
「いや……いや、いややぁぁぁ!」
私のちいさな身体は、冷酷な黒いチャイナスーツを着た老人――劉天啓の、鋼のように硬い手に拘束されていた。彼の指に嵌められた巨大な翡翠の指輪が、私の視界を冷たく遮る。
私のすぐ足元には、胸を撃ち抜かれ、血の海に沈むパパ(養父)の姿。
「……逃げろ、……行くんだ……!」
それがパパの最後の言葉だった。パパの身体から、あたたかい『生の光』が急速に失われ、どす黒い影に塗りつぶされていく。
「パパ! パパ、嫌や、死んだら嫌ぁぁぁ!」
さらに奥では、金髪を振り乱したエリザベスお姉ちゃんが、黒服の男たちに引きずられていくのが見えた。
「――お星さま、お願い、未来を変えて! パパを、みんなを助けて!」
私の涙がこぼれ落ち、床の血溜まりに波紋を作った瞬間、夜空のすべての星が『黒く』濁り、ガラスのように粉々に砕け散った――。
「――っ!!」
目を覚ますと、そこはいつものお布団の中だった。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
冷や汗でぐっしょりと濡れたパジャマ。ちいさな、ふにふにとした五歳児の手のひら。
見上げれば、キャラクターもののシーツと、蛍光塗料で光る天井の星のシール。
「ゆめ……?」
私は起き上がり、トコトコと寝室の窓へと向かった。
窓を開けると、流れ込んできたのは大阪の湿気を含んだ夜風。そして、遠くから聞こえる電車のガタゴトという音。ネオンや街灯が明るすぎる大阪の夜空には、本来なら星なんて数えるほどしか見えないはずだ。
けれど、私――『天宮凛』の目には違って見えた。
ビルの明かりを突き抜けて、空の奥の奥に、無数の星たちが川のように流れている。その一つ一つが、莫大な『未来の情報』を乗せて、瞬いているのだ。
(……思い、出した。私、むかし……別の世界で、星を読むお仕事をしていた。たくさんの人を助ける、お星さまの巫女、だったんだ……)
五歳になる今まで、ずっと忘れていた。
毎晩のように見る『怖い夢』が、ただの悪夢ではなく、これから訪れるかもしれない『最悪の未来』だということも。
「りんちゃん、起きたん? どうしたん、窓開けて。風邪ひくで?」
背後から、パタパタとスリッパの音を響かせて現れたのは、お母さん(養母)の夕紀だった。優しい茶色の髪を後ろで一本に結び、エプロン姿のまま、心配そうに私のちいさな肩を抱きすくめる。
「ママ……」
「また怖い夢見たん? 大丈夫、ママがここにおるよ。パパももうすぐ、お仕事から帰ってくるからね」
お母さんのあたたかい体温が、私の頼りないちいさな心に染み渡っていく。
私は首を振って、涙をぐっと堪えた。
まだ、大丈夫。私は現代の日本に、この優しいパパとママの元に転生したんだ。
あの怖い夢は、絶対に現実にさせない。
でも、その『運命の歯車』は、その日の夕方に突然、動き出すことになった。
◇
「りんちゃん、おかえりー。今日は保育園で何したん?」
夕方、保育園の入り口。
迎えにきてくれたパパ――『天宮悟』は、今にも倒れそうなほど疲れ果てていた。
大手電機メーカーの営業職。毎日深夜まで残業し、上司に怒鳴られ、休日も接待で潰れる。絵に描いたようなブラック企業の社畜。三十代後半のはずなのに、パパの肩はすっかり丸まり、目の下にはどす黒いクマが張り付いている。
「パパ! あのね、今日はね、お勉強のじかんにね、すっごくむずかしい『かんじ』を覚えたよ!」
「おお、漢字? りんちゃん、五歳でもう漢字書けるんか。すごいやん」
パパは力なく笑いながら、私の前にしゃがみ込み、大きな手を差し出してきた。
「はい、おてて繋ごうな」
「うん!」
パパの手を、私のちいさな手のひらで、ぎゅっと握りしめる。
――その瞬間だった。
ビリリッ! と、指先から頭のてっぺんまで静電気のような衝撃が走った。
「うっ……!」
頭の中に、濁流のように情報が流れ込んでくる。
これは、星読みと対をなす私のもう一つの異能――触れた相手の肉体と感情を読み取る『生体情報』。
視界がぐにゃりと歪み、パパの身体が『光のレントゲン』のように透けて見えた。
全体的に、パパの身体の光は弱々しい灰色。疲れ果てている証拠だ。
けれど、胃のあたりの一角だけが、まるでインクを落としたように真っ黒に澱んでいる。
その黒い澱みの上に、ぷかぷかと浮かび上がってきたのは、今日、保育園の絵本で覚えたばかりの、あの不吉な文字だった。
――【 死 】
(……え?)
息が止まりそうになった。
その不吉な文字は、胃の中の『黒い泥団子』から、パパの元気なエネルギー(生の光)をじわじわと吸い取っている。
(お星さま、これ、なに……? パパの中の、これ、なに!?)
必死に星の瞬きを脳裏で追いかける。流れ込んできたのは、現代の医学用語。
『ステージ2・進行性胃がん。放置すれば1年以内の生存率は――』
そんなの、五歳の私の頭じゃ理解できない。
でも、星と生体情報は、それを私に分かりやすい『超シンプル言葉』に翻訳して伝えてくれた。
「……パパ」
「ん? どうしたん、りんちゃん。急に立ち止まって」
パパが不思議そうに私を見下ろす。
私はパパの手をぎゅーっと、痛いくらいに握りしめ、上気した顔で見上げた。
「パパのおなかにね、黒くて、すっごくいじわるな『泥団子』がいるよ」
「え……? ど、泥団子?」
パパは一瞬、きょとんとした。
「うん! 泥団子! それね、パパのおいしいエネルギーをね、もぐもぐ食べて、どんどん大きくなってるの。このまま放っておくとね、パパ、お星さまになって、りんちゃんたちの前から消えちゃうよ!」
「あはは……」
パパは私の言葉を、子供特有の『ごっこ遊び』か、突飛な想像力だと思ったらしい。
頭をぽんぽん、と撫でて笑った。
「そうかぁ。パパのお腹に泥団子がおるんか。じゃあ、今日の夜ご飯はいっぱい食べて、その泥団子をやっつけんとなぁ」
「ちがう! おやつ食べても、お水飲んでも、やっつけられないの!」
私は必死だった。夢の中の、血の海に沈むパパの姿がフラッシュバックする。
あの未来の始まりは、今、この瞬間なんだ。
「あのね! パパ、最近、お仕事のときにお腹がチクチク、いたーいってなるでしょ? お水飲むとね、焼けつくみたいに熱くなるでしょ?」
「え……?」
パパの笑顔が、ぴたりと固まった。
「あとね、ゴホゴホって咳をするとき、お口の中が『錆びた鉄のスコップ』みたいな、嫌な味がするでしょ!? パパ、ママに隠れて、おトイレで血をペッて吐き出したでしょ!」
「なっ、なんでそれを……っ!?」
パパの顔から、みるみる血の気が引いていく。
それらはすべて、パパが誰にも、妻の夕紀にすら言わずに隠していた『本物の初期症状』だったからだ。
胃の激痛、逆流する酸、そして今朝、職場のトイレで確かに吐き出した、ほんのわずかな血。
「パパ……お願い、お医者さんのところに行って。白い大きなお部屋で、パパのお腹をもしゃもしゃって機械で覗いてもらうの。そうしたら、泥団子が見つかるから。早く、ちいさいうちに『はさみ』でチョキンって切らないと、パパ、死んじゃう!」
五歳の幼児が、真っ直ぐな目で、絶対に知り得ない「極秘の体調不良」をピンポイントで当て、涙ながらに訴えている。
パパは冷や汗をだらだらと流しながら、自分の胃のあたりを手で押さえた。
「りん、ちゃん……お前、なんで、それを……?」
ゴクリ、とパパの喉が鳴る音が聞こえた。
◇
「ちょっと、あなた! 本当にそうなの!?」
その日の夜。天宮家のリビングは、お母さんの怒鳴り声に近い叫びで包まれていた。
テーブルの上には、冷めかけたハンバーグ。
お母さんは、パパの胸ぐらを掴む勢いで詰め寄っていた。
「体調が悪いって、なんで言わへんかったん! 血を吐いたって、本当!? お腹が痛いのも、ただの飲みすぎやって言ってたやん!」
「い、いや、夕紀、落ち着けって……。ただのストレス性の胃炎やと思っててん。仕事も忙しいし、お前を心配させたくなかったし……」
「心配するわアホ! 死んだらどうするん!」
お母さんの目には、大粒の涙がたまっていた。
その横で、私は椅子にちょこんと座り、オレンジジュースをストローでちゅーっとすすりながら、静かに二人のやり取りを見つめていた。
お母さんは私の方を振り返ると、膝をついて、私のちいさな手を握りしめた。
「りんちゃん。本当に……本当にパパのお腹の中に、その『黒い泥団子』があるの?」
「うん」
私はコクコクと頷いた。
「パパの手を繋いだらね、頭の中に、パパのお腹の絵がピカーって見えたの。ここがね、真っ黒なの。お星さまもね、ここに【死】っていう、いじわるな漢字が浮かんでるよって教えてくれた」
「死、って……」
お母さんは息を呑み、絶句した。
普段なら、五歳児の絵空事として笑い飛ばすところだ。
けれど、先ほどパパが白状した「隠していた自覚症状」と、私の言葉があまりにも完全に一致しすぎていた。
「明日……明日一番に、総合病院の人間ドックを予約するわ」
「夕紀、でも明日は大事な会議が――」
「仕事と命、どっちが大事やと思ってるん!!」
おあねえちゃん顔負けの、お母さんの超ド級の怒声がリビングに響き渡る。
パパは「ひぃっ」と首をすくめて、完全に縮こまった。
「わ、分かりました……行きます。明日、有給取って病院行きます……」
「当たり前や! りんちゃんがこうやって教えてくれたんやから、絶対に行くで!」
お母さんはそう言うと、私をきゅーっと強く抱きしめてくれた。
「ありがとう、りんちゃん。パパの悪いところ、教えてくれて。ママ、絶対にパパを死なせへんからね」
お母さんのあたたかい涙が、私の首筋に零れる。
私はちいさな手でお母さんの背中をぽんぽん、と叩いた。
(よかった……。これで、パパは病院に行ってくれる。泥団子を、早く切ってもらえる。パパが血を流して倒れる未来の、最初の一歩は……今、消えたんだ!)
私の胸の奥で、異世界の巫女のエンブレム――星を象った光の紋章が、あたたかく脈打った。
けれど、喜びも束の間。
私は、すぐに別の大きな壁にぶつかることになる。
病院に行くにしても、精密検査を受けるにしても、そしてパパが激務のブラック企業を辞めて治療に専念するにしても。
現代日本で『最悪の未来』をすべてひっくり返すには、絶対に足りないものがある。
それは――お金だ。
(パパを助けるため、そして、あの怖い劉天啓やお姉ちゃんたちの未来を変えるため……)
私はリビングの窓から、明るい大阪の夜空を見上げた。
頭の中で、世界の莫大な電子データ――【為替(FX)】と【株価】の動きが、光り輝く『情報の星座』となって、ぐるぐると回り始める。
(お星さま。パパをお金持ちにする方法、教えて!)
ちいさな巫女の、現代日本での「経済チート」の幕が、静かに上がろうとしていた。
◇
「――胃カメラの結果ですが。……信じられないことに、極めて初期の段階の悪性腫瘍、つまり胃がんが見つかりました」
翌日の夕方、天宮家のリビング。
パパが病院からもらってきた検査結果の用紙をテーブルに置いた瞬間、お母さんはソファーにへなへなと崩れ落ちた。
「嘘……ほんまに、あったんや。泥団子……」
「ああ。医者も驚いてたよ。『自覚症状がほとんど出ないレベルの小ささなのに、よく見つけられましたね。奇跡ですよ』って。来月、腹腔鏡手術で切除することになった。一週間程度の入院で済むそうだ」
パパは自分の胃のあたりをさすりながら、信じられないものを見る目で、リビングの隅でおもちゃのブロックを組み立てている私を見つめた。
「凛ちゃん……本当に、お前がパパの命を救ってくれたんだな。ありがとう」
「パパ、泥団子、チョキンしてもらえる?」
「ああ、してもらえるよ。これでパパ、お星さまにならずに済む」
パパが私を抱き上げ、ぎゅっと抱きしめる。パパの身体から流れ込んでくる『生体情報』は、昨日までのどす黒い【死】の気配が嘘のように薄れ、安堵と、私に対する畏怖に近い感情で満ちていた。
だが、お母さんは涙を拭うと、すぐに現実的な問題に表情を曇らせた。
「でも、あなた。手術代に、入院費……それに、あなたはしばらく仕事を休まなきゃいけないんでしょう? ただでさえ今の会社、有給取るのも嫌がらせされるようなブラック企業なのに」
「……ああ。会社には手術のことを報告したんだが、上司からは『自己管理がなってない。そんなに休むなら、代わりの人間はいくらでもいる』と言われたよ」
パパは悔しそうに拳を握りしめた。
命は助かった。けれど、ブラック企業にすがりついて、すり減りながら働く生活に戻れば、またいつか別の『泥団子』がパパの身体を蝕むだろう。パパが血の海に沈む、あの最悪の未来を完全に回避するためには、パパをあの地獄のような職場から救い出さなければならない。
そのためには、どうしても『お金』が必要だった。
「パパ、ママ。お仕事、やめちゃえばいいよ」
私はパパの膝の上から、二人の顔を見上げて言った。
「えっ? やめるって……凛ちゃん、お仕事やめたら、私たちはご飯が食べられなくなっちゃうのよ?」
「ううん、食べられるよ! お星さまがね、パパに『おまじない』を教えてくれるって。スマホをぽちぽちするだけで、いっぱいお金がもらえるおまじない!」
「スマホをぽちぽち……? おまじない?」
パパとお母さんは顔を見合わせた。
「ほら、パパ。スマホ、かして」
私はパパのポケットからスマートフォンを引っ張り出すと、画面をタップするようにパパに促した。
私はまだ五歳だから、漢字だらけのスマートフォンの操作は自分ではおぼつかない。でも、私の頭の中には、大阪のまばゆいネオンの奥に輝く『情報の星座群』がはっきりと見えていた。
それは、現代社会を駆け巡る電子の奔流。
【米ドル/日本円(USD/JPY)】
【メキシコペソ/日本円(MXN/JPY)】
世界の通貨が、どちらへ向かって流れていくのかを示す、光り輝く星の道筋だ。
「お星さまがね、いま『ペソくん』っていう、サボテンの国のお金がね、すっごく元気に走っていこうとしてるって言ってるよ」
「ペソ……? メキシコペソのことか?」
大学時代に少しだけ経済をかじっていたパパが、怪訝そうに眉をひそめる。
「そう、ペソくん! ペソくんね、いまはとってもお安いんだけど、明日の朝になると、すっごくお高くなるの。だからね、いま、パパの持ってるお金をぜんぶ『ペソくん』に変えてほしいの」
「いやいや、凛ちゃん。それは投資……いや、FX(外国為替証拠金取引)のことかい? さすがにそれはギャンブルだし、パパたちにはそんな余剰資金はないよ。貯金なんて、今回の医療費を払ったら、もう十万円くらいしか残らないんだから」
「十万円でいいよ! 十万円をね、スマホの口座に入れて、『ればれっじ』っていう魔法をいっぱいかけるの!」
「れ、レバレッジ!?」
パパはソファから転げ落ちそうになりながら叫んだ。
五歳の幼児の口から「レバレッジ」という超専門用語が飛び出してきたのだから、無理もない。
「りんちゃん、レバレッジって、どこでそんな言葉覚えたん……!?」
お母さんもハンバーグをひっくり返しそうな勢いで驚いている。
「お星さまが頭の中で教えてくれたの! 『ればれっじ』はね、ちいさな蟻さんがね、すっごく大きな象さんをひょいって持ち上げる魔法だよって! 十万円しかなくても、にひゃくごじゅうまんえん分のお買い物ができるの!」
「それは……確かに、国内最高の二十五倍レバレッジの仕組みそのものだけど……!」
パパは冷や汗を流しながら、私の頭の中の知識の正確さに戦慄していた。
「でもね、この魔法はね、失敗すると象さんがドスンって落ちてきて、蟻さんが潰れちゃうの。だから、普通の人は怖くてできないんだよ」
「そ、そうだ。レバレッジを高くかけると、少しの予想のハズレで全財産が吹き飛ぶ。だから素人が手を出すべきじゃ――」
「でも、お星さまは『ぜったいに間違えない』から、大丈夫だよ!」
私はパパの震える手を、両手でぎゅっと包み込んだ。
『生体情報』を通じて、私の絶対的な確信をパパの心へと直接送り込む。
「パパ。凛ちゃん、パパのお腹の泥団子、当てたでしょ? お星さまのいうこと、本当だったでしょ? だから、凛ちゃんを信じて」
真っ直ぐな、一点の曇りもない五歳の瞳。
パパは生唾を飲み込んだ。
昨日までなら、子供の妄想だと一蹴していただろう。だが、現に自分の胃がんを完璧に見抜かれ、命を救われたばかりなのだ。
「……夕紀。……僕に、十万円、使わせてくれないか」
「あなた……本気なの? 凛ちゃんの言う通りにするってこと?」
「凛ちゃんには、僕たちには見えない『何か』が見えている。……僕は、娘を信じたいんだ」
お母さんはしばらく絶句していたが、やがて大きくため息をつくと、キッチンから通帳を持ってきてテーブルに置いた。
「わかったわ。これが、うちの全財産よ。……凛ちゃん、パパを信じて、任せるからね」
「うん! お星さま、がんばる!」
こうして、天宮家のスマホの中に、十万円が用意され、即座にFXの口座へと送金された。
「パパ、スマホの画面にね、サボテンの絵の……じゃなくて、メキシコペソのマークを出して」
「これか? ええと、現在のレートは一ペソ=六・二五円だな」
「そう、それ! それをね、いっぱいいっぱい『買う』ボタンを押して。限界まで、ギューギューに詰め込んでね!」
パパは震える指で、十万円の保証金に対し、最大のレバレッジ(二十五倍)をかけ、四十万通貨(約二百五十万円相当)の買い注文を放った。一銭(〇・〇一円)動くだけで四千円が動き、もし一・五銭下がれば、その瞬間に十万円が強制ロスカット(全額消滅)される、まさに蟻が象を背負うような極限の取引。
「かっ、買ってしまった……。これで、少しでも逆方向に動いたら、僕たちの全財産は一瞬で消える……」
パパは額の汗を拭うことも忘れ、スマホの画面に表示される、数秒ごとに変動する数字を血走った目で見つめ始めた。
「パパ、お目々が赤いよ? 大丈夫、お星さまがね、『今夜、サボテンの国で、すっごく偉い人が「もうペソくんは安売りしません!」って叫ぶから、みんなが慌ててペソくんを買いに走るよ』って言ってる。だから、もうねんねしていいよ」
「ね、眠れるわけないだろう……っ!」
パパはその夜、一睡もできなかった。
深夜二時。
パパがリビングで、祈るようにスマホの画面を見つめていた、その時。
アメリカの市場で、突如としてメキシコ中央銀行の要人発言が速報として流れた。
事前予想を完全に覆す、想定外の大幅な利上げ。
凛の言った「ペソを安売りしない(利上げ)」という神託が、現実のものとなった瞬間だった。
ニューヨーク時間、世界中の投機筋が一斉にメキシコペソの買い注文へと殺到する。
スマホの画面の中で、評価損益の数字が、ものすごい勢いで跳ね上がり始めた。
「な、なんだこれは……!? 上がっていく……ペソが、垂直に吹き飛んでいる……!」
六・二五円だったレートは、数時間のうちに、一気に六・五〇円まで急騰。
二十五銭(〇・二五円)の上昇。
通常、四十万通貨の取引で二十五銭が動くと、その利益は――。
「じゅう、十万円が……一晩で……に、二十万円に……!?」
利益額、ちょうど十万円。
一晩で、投資した元本が「二倍」に膨れ上がっていた。
パパの月給の、手取りに近い金額が、わずか数時間、スマホを数回タップしただけで生み出されたのだ。
「う、嘘だろ……。本当に、凛ちゃんの言った通りになった……」
パパはガタガタと全身を震わせ、スマホを持ったまま、リビングの床にへたり込んだ。
物音に気づいて起きてきたお母さんも、画面の数字を見るなり、両手で口を覆って、その場に固まった。
「あなた……これ、夢じゃないよね? 本当に、十万円が、増えてる……?」
「夢じゃない。……凛ちゃんの言う通りにしたら、本当に……世界が動いたんだ」
二人が驚愕と興奮で言葉を失う中、私はお布団からトコトコと歩いてきて、パパのスマホの画面をのぞき込んだ。
「ね? お星さま、嘘つかないでしょ?」
私は五歳児の無邪気な笑顔で、パパとママを見上げた。
だが、私の脳裏で見つめる『情報の星座群』は、すでに次の変化を捉えていた。
(ペソくんのフェスティバルは、これでおしまい。……つぎは、もっと大きなお買い物の星が、すぐそこまで流れてきているよ)
パパをあのブラック企業から救い出し、そして夢の中の『最悪の未来』をひっくり返すための資金は、まだ始まったばかりだ。
ちいさな神童がウォール街を揺るがす物語は、この大阪の十万円から、確実に加速し始めていた。
◇
「――あ、頭がおかしくなりそうだ……」
一晩明けた月曜日の朝。
パパは寝不足で充血した目をこすりながら、食卓でため息をついた。
スマートフォンに表示されているFX口座の残高は、きっかり『20万4千円』。昨日まで死にそうな顔で「貯金が十万円しかない」と絶望していた男の口座に、一晩で倍以上の金額が転がり込んできたのだ。
「あなた、お味噌汁こぼれてるよ」
お母さんが呆れたように言いながら、パパの手元を布巾で拭く。そのお母さんの手も、実はわずかに震えていた。
「夕紀……これ、僕の一ヶ月分の手取りの半分以上だよ。それが、凛ちゃんが『ペソくんを買って』って言っただけで……。もし、もう一回同じことができたら……」
「ダメだよ、パパ」
私はトーストにいちごジャムをスプーンで塗りながら、ちいさな人差し指をチチチ、と振った。
「ペソくんはね、もうお山を登りきって疲れちゃったの。いまはね、おねんねする時間だから、無理にお仕事させたら怒っちゃうよ」
「えっ? あ、ああ、そうなのか……」
パパはまるで、伝説の投資顧問の言葉を拝聴するかのように姿勢を正した。五歳児の私に向かって、完全に『弟子』の態度である。
「でも、凛ちゃん。パパの胃がんの手術は来月だ。入院もしなきゃいけないし、会社を休むとなると上司からまた何を言われるか……。やっぱり、有給の申請をするだけでも胃が痛いよ」
パパの身体から流れ込んでくる『生体情報』は、不安とストレスで灰色に濁っていた。
胃の『泥団子』は手術で切除できる。けれど、パパを精神的に追い詰めている本質は、あの理不尽なブラック企業そのものなのだ。
私はスプーンを置くと、パパの膝の上にトコトコとよじ登り、その耳元で内緒話をするように囁いた。
「パパ。今日ね、お仕事に行ったら、すっごく怒りん坊の上司のおじさんがね、パパに『お前なんかもう会社に来なくていい!』って、真っ赤なお顔で叫ぶよ」
「えっ!? ま、毎日言われてるようなもんだけど……今日は特にひどいのか?」
「うん。でもね、泣いちゃダメ。おうち帰ってきたら、お星さまがね、『ふくり効果』っていう、すっごくおっきな雪だるまの魔法を教えてくれるから。だから、お仕事……やめちゃっていいよ?」
「ふ、複利効果……!?」
パパは本日二回目の、ソファーから転げ落ちそうな驚きを見せた。
「凛ちゃん、複利って……。得た利益をまた投資に回して、雪だるま式に資産を増やす、あの投資の基本中の基本にして究極の奥義のことかい!?」
「そう! 雪だるまさん! 坂道をゴロゴロ転がすと、最初はちいさな雪の玉なのに、最後はパパよりおっきな雪だるまさんになるでしょ? お金さんもね、お友達をどんどん呼んで、おっきくなるの!」
私は両手を大きく広げて、雪だるまの大きさを表現した。
「でも、それにはもっと大きな元手が必要で……」
「大丈夫、今日、お星さまが『ドルくん』と『円ちゃん』が、すっごく激しいダンスを踊るよって言ってるから。夜になったら、パパにダンスのステップを教えてあげるね」
私はパパの頬をふにふにと触りながら、にこっと笑った。
◇
その日の夕方。
パパは、今までに見たことがないほどスッキリとした表情で帰宅した。
玄関のドアを開けるなり、パパはネクタイを乱暴に引きちぎり、床に放り投げた。
「夕紀! 凛ちゃん! ……僕、会社辞めてきた!!」
「ええええっ!? あ、あなた、本当に辞めたん!?」
キッチンからお母さんが泡立て器を持ったまま飛び出してくる。
「辞めた、というか……凛ちゃんの予言通りだったよ。今日、取引先とのトラブルを僕のせいにされて、部長から『お前なんかもう明日から来なくていい! 今すぐ辞表を書け!』って全社員の前で怒鳴られたんだ。いつもなら、胃をキリキリさせながら謝り倒すところだけど……」
パパは不敵な笑みを浮かべた。
「凛ちゃんの言葉を思い出してね。胸ポケットから、あらかじめ書いておいた退職届をスッと取り出して、『はい、分かりました。本日付で退職させていただきます』って部長のデスクに叩きつけてやったよ。部長、顔を真っ赤にして、金魚みたいに口をパクパクさせてた!」
「あなた、カッコいい……!」
お母さんが目を輝かせる。
「でも、あなた、本当に良かったの? これでもう、引き返せないよ?」
「ああ。凛ちゃんを信じる。僕たちの未来は、あの子の瞳に映っているんだ」
パパは私の前にしゃがみ込み、その手をぎゅっと握った。
「凛ちゃん。パパ、会社を辞めて自由の身になったよ。……さあ、ダンスのステップを教えておくれ」
「うん! パパ、かっこいい! じゃあ、スマホを出してね」
私はパパのスマホの画面を指差した。
頭の中の星空には、先ほどよりも太く、まばゆい『電子の星座』が輝いていた。
今夜は、アメリカの雇用統計――世界中の投資家が固唾をのんで見守る、月に一度の金融のお祭りだ。
「いまからね、『ドルくん』がお熱を出してフラフラになるの。だから、ドルくんをぜんぶ『売り』ボタンでいっぱいにしちゃって」
「ド、ドルの売り……! つまりショート(空売り)だな!? だけど、事前の市場予想では、今夜の雇用統計はかなり良い数字が出るはずだ。みんなドルを買おうとしているぞ?」
パパのプロ投資家並みの疑問に対し、私は頭を小さく横に振った。
「ううん。みんな、お星さまの天気予報を見てないから、傘を持ってないの。いまね、アメリカの裏側で、みんながお仕事のサボりっこをしてるのが、お星さまには丸見えだよ」
「お、お仕事のサボりっこ……? まさか、実際の雇用データが事前予測より大幅に悪いということか……!?」
パパは唾を飲み込んだ。
もし、国が発表するはずの極秘の経済データを事前に知っているのだとしたら、それは【インサイダー(内部者取引)】という重罪になる。
「ねえ、凛ちゃん。それは……みんなが知らない秘密の『ズルっこ』なんじゃないの? パパ、警察に捕まらない?」
「捕まらないよ! ズルっこじゃないもん。お星さまはね、空からみんなのことを見てるだけ。明日雨が降るよって教えてあげる『お天気予報』と同じだから、安全だよ!」
「お天気予報……。そうか、超常的な未来予測なら、インサイダー規制の対象外(というか証明しようがない)だな!」
パパは妙なところで納得すると、ゴクリと息を呑み、口座の20万円すべてを証拠金にして、米ドル/日本円(USD/JPY)の『売り(ショート)』の注文を限界まで叩き込んだ。
「二十万通貨のショート……。一円動けば二十万円の利益。逆に一円上がれば、その瞬間に退職金代わりの資金が全て消える……」
夜九時半。
テレビのニュース番組が、アメリカの雇用統計の発表をリアルタイムで報じた。
『――速報です。たった今発表されたアメリカの非農業部門雇用者数は、市場予想のプラス二十万人を大幅に下回る、マイナス五万人となりました。歴史的な大悪化です!』
アナウンサーの絶叫と同時に、スマホの画面に表示されたチャートが、まるで崖から落ちる石のように垂直に急落し始めた。
「下がった……! ドルが、大暴落している……!!」
一ドル=一二〇・五〇円だったレートが、一秒ごとに、一二〇・〇〇円、一一九・五〇円、一一九・〇〇円へと、一気に一円五十銭も突き抜けて急落していく。
「あ、ありえない……! 一瞬で、一瞬で三十万円以上の含み益が……!」
パパの顔が引き攣っている。
「パパ、まだだよ! 雪だるまさん、もっとゴロゴロして!」
「えっ!? ここで、さらにポジションを増やす(ピラミッディング)のか!?」
「そう! ドルくん、もっとお熱が高くなって、一一八円まで走っていくから。いまあるプラスのお金もぜんぶ使って、もう一回『売り』を押して!」
パパは凛の指示に従い、増え続ける含み益を担保にして、さらに追加で売り注文を浴びせかけた。これぞ、凛の言う「複利の雪だるま」の、超攻撃的プラン。
「ひ、ひぃぃ……! 心臓が破裂しそうだ……!」
パパは胸を押さえ、床にのたうち回った。
翌朝、五時。
ニューヨーク市場が閉まった。
米ドル/日本円のレートは、凛の予言通り、ぴったり『一ドル=一一八・〇〇円』で静止していた。
パパのスマホの画面に表示された、確定済みの純資産残高は――。
『資産総額:3,240,000円』
「さ、三百二十四万円……」
パパは、スマホを両手で捧げ持ったまま、リビングの床に正座し、神棚を拝むようにして固まっていた。
昨日の朝まで十万円しかなかった天宮家の貯金が、わずか二日間で、普通のサラリーマンの年収に近い額へと化けていたのだ。
お母さんに至っては、炊飯器の前で「おお、神様……凛様……」と、私に向かって熱心に手を合わせ、拝み始めている。
「ママ、おてて合わせたらダメだよ? 凛ちゃん、神様じゃないもん。パパとママの、普通の子どもだよ?」
「普通の子どもが、二日で三百万円稼ぐかアホ! いや、アホなんて言ってごめんなさい凛様、今日の夜ご飯は何がよろしいでしょうか……!?」
お母さんのテンションが完全にバグっていた。
「凛ちゃん。これで……パパの入院費も、手術代も、これからの生活費も、完全にクリアできたよ。本当に、本当にありがとう……」
パパは涙を流しながら、私を抱きしめた。
パパの身体から流れ込む『生体情報』は、完全にピンク色の「幸福と健康」の光に満ち溢れていた。会社を辞めたことで、ストレス性の胃痛もすっかり消え去っている。
(よかった……。これでパパは、ゆっくり病院で治療ができる)
私はパパの首にしがみつきながら、ほっと胸をなでおろした。
これで、最悪の未来の『第一の破滅(パパの死)』は、完全に粉砕されたのだ。
だが、私がリビングの窓から外を見ると、現代日本の空に、まだちいさな、けれど確実にどす黒い『悪意の星』が生まれつつあるのが見えた。
(パパのお金が、急にたくさん増えたから……。悪い人たちが、パパたちのことを見つけようとし始めているよ)
これだけの巨万の富を動かせば、当然、日本の金融庁や、ネット上の詮索好きな連中が黙ってはいない。
家族を守るための「次の盾」が必要だ。
私は、お母さんの手をぎゅっと握った。
お母さんの身体から、私と同じ『生体情報』をわずかに読み取る感覚――お母さんの中に眠る、占い師としての「素質」が、私の力と共鳴してピクピクと動き出すのを感じた。
「ママ。……ママ、お人助けの『うらない師さん』になっちゃえばいいよ」
「え? 私が、占い師……?」
ここから、天宮家はさらなる「バズり」の渦へと巻き込まれていくことになる。
◇
「――えっ? 私が、占い師……?」
お母さんは、お味噌汁のお玉を握ったまま、目を丸くして私を見つめた。
パパがブラック企業を退職し、胃がんの手術に向けて一息ついたのも束の間。リビングのローテーブルに300万円以上の残高が表示されたスマホを前にして、天宮家は新たな問題に直面していた。
「そうだよ、ママ! お星さまがね、『急にパパのポケットがいっぱいになると、悪い税金のおじさんや、ネットのコソ泥さんがお家を覗きにくるよ』って言ってるの」
「税金のおじさん……税務署のことか。コソ泥は、ネットで突然金持ちになった個人を特定しようとする特定班だな」
パパが神妙な顔で腕組みをして頷いた。すっかりパパは、私の言葉を「世界一信頼できる経済アナリストの進言」として受け止めるようになっている。
「確かに、無職になった僕が二日で300万円も稼いだとなると、資金の出所を怪しまれる。でも、夕紀が個人事業主として『占い師』を開業して、そこで正当に稼いだお金ということにして確定申告をすれば、税金的にも社会的にも完璧なカモフラージュになる!」
「いやいや、あなた! 理屈はわかるけど、私に占いの技術なんてこれっぽっちもないよ! タロットカードの引き方も知らないし!」
お母さんがパパに泡立て器を向けながら抗議する。
「大丈夫だよ、ママ。凛ちゃんがお手伝いするもん」
私はトコトコとお母さんに近づき、そのあたたかい手をぎゅっと握りしめた。
――ピリリッ。
「ひゃうっ!?」
お母さんがちいさな悲鳴をあげて飛び上がった。
私の指先からお母さんの身体へ、私の『生体情報』の回路が一時的につながったのだ。お母さんの中に眠る、人の心を敏感に察知する優れた共鳴能力が、私の力によってパチパチと音を立てて目覚めていく。
「ママ。占いはね、お勉強しなくてもいいんだよ。相手の『心臓さんの内緒話』を聞けばいいの」
「心、臓さんの……内緒話?」
「そう! 人はね、お口では『私は良い人です』って嘘をつくけど、お胸の奥の心臓さんは嘘をつけないの。悪いことを考えていると、心臓さんが『バクバク、黒い煙ぷしゅー!』って、すっごく苦しそうに叫ぶの。お耳をすまして、その声をそのままママのお口で教えてあげるだけだよ」
「心臓の嘘、か……。つまり、生体情報のバイオデータから相手の『精神状態』や『感情の揺らぎ』、そして『隠し事』を見抜くテクニックだな!」
パパがまたしても見事な専門用語の翻訳を披露した。
「そんなの、本当に私にできるの……?」
まだ不安そうなお母さんだったが、パパがすかさず自分のノートパソコンを開いて微笑んだ。
「やってみよう、夕紀。まずは手軽なスキルシェアサービスに、個人鑑定のアカウントを登録するよ。名前はそうだな……『占い師・YUKI』。凛ちゃんのサポートがあれば、すぐに口コミで広がるはずだ」
こうして、天宮家の「占い師・YUKI」プロジェクトが、なかばお遊びのノリで始動したのだった。
◇
数日後。
お母さんのアカウントには、すでに十数件の「恐ろしいほど当たる」という極上のレビューが書き込まれていた。
凛ちゃんがお母さんの肩をちょこんと触りながら、お母さんがビデオ通話やチャットで相談者の悩みを解決する。ただそれだけで、相談者が口にもしていない「旦那の浮気場所」や「職場のいじめの主犯」をピンポイントで言い当てるのだから、バズるのも当然だった。
しかし、急激に注目を集めると、どうしても『濁った星』を引き寄せてしまう。
ある夜。
お母さんのビデオ鑑定枠に、一件の予約が入った。
画面に現れたのは、高級そうなスーツを着て、これみよがしに派手な数珠を腕に巻いた、五十代半ばの男だった。
名前は『神楽宗山』。ネットやテレビで「奇跡の霊能カウンセラー」を自称し、何冊も本を出している業界の有名人だった。
『フッ……君が最近ネットでチョロチョロと小銭を稼いでいる、素人占い師のYUKIかね?』
画面の向こうの神楽は、鼻で笑いながら、傲慢な態度でウイスキーのグラスを揺らした。
「は、はい。天宮……じゃなくて、YUKIです。今日はどのようなご相談でしょうか?」
お母さんは緊張して、声が少し震えている。
『相談? 違うよ。私はね、君のような「本物の能力もないくせに、霊感を騙って弱者から金を巻き上げる詐欺師」を駆逐しにきたのだ。今、この通話は私のチャンネルで生配信されている。君の化けの皮を剥ぎ、ネットの笑いものにしてやろうと思ってね』
そう言って、神楽は意地の悪い笑みを浮かべた。
彼の生配信のコメント欄には、神楽の熱狂的な信者やネットの野次馬たちから「偽占い師ざまぁw」「化けの皮剥がしてやれ!」といった悪質なコメントが大量に流れている。
お母さんは顔を青ざめさせ、パソコンの画面の前で固まってしまった。
「あ、あなた……! この人、テレビに出てる有名な……!」
パパが横から飛び出そうとするが、私はお母さんの背中にそっと、ちいさな手のひらをあてた。
(お星さま、お星さま。この数珠をいっぱいつけたおじさん、だぁれ?)
私の脳裏に、どす黒い嵐のような『情報の星座』が浮かび上がる。
神楽の手を握ることはできないが、ビデオカメラの向こうから伝わる声の振動、表情のミリ単位の引き攣り、そして視線の動き。私の生体情報と星読みが、インターネットの光回線を通じて、神楽の『本性』を瞬時に解析した。
(わあ……。このおじさんのお胸の奥、真っ黒なゴミ箱みたい。嘘つきオバケがいっぱい住んでるよ)
私はお母さんの耳元に、ちいさなお口を寄せて、コソコソと囁いた。
「ママ、そのまま言えばいいよ。おじさん、昨日ね――」
お母さんは一瞬、驚きに目を見張ったが、すぐに私の言葉を信じて、覚悟を決めたような冷徹な瞳で神楽を見つめ返した。
「神楽先生。私を詐欺師とお呼びになるのは結構ですが……その前に、あなた自身の『心臓さん』が、すごく苦しそうに叫んでいるのを聞いてあげてください」
『ハッ、何をわけのわからないことを――』
「昨日。先生は、ご自身のサロンに相談に来られた八十代の独り暮らしの女性に、こう言いましたね。『この五百万円のツボを買わなければ、亡くなったご主人の魂が地獄で永遠に業火に焼かれる』と」
画面の向こうで、神楽がピクリと眉を跳ね上げた。ウイスキーを揺らす手が、わずかに止まる。
「そ、そんなの、ただの営業トーク……いや、霊的指導だ!」
「いいえ。あなたは、そのおばあちゃんが『旦那さんの遺してくれた大事な遺産』を切り崩して、震える手でツボのお金を払ったのを見て、心の中でこう思いましたね。――『よし、これで今月も愛人に外車を買い与えられる』と」
『な、何をおかしな妄想をっ……!』
神楽の額に、タラリと冷や汗が流れた。
お母さんの言葉は、あまりにも具体的すぎた。昨日、彼が防音のカウンセリングルームで、一対一で行った悪質な霊感商法の現場そのものだった。
「先生、まだありますよ。あなたの左腕に巻かれているその不気味な数珠。それは霊山で祈祷されたものではなく、一昨日、あなたが海外の激安通販サイトで、一袋百円で仕入れたプラスチック製のおもちゃですね? あなた、昨日の夜、パソコンの前で『こんなゴミを十万円で買うアホ信者がたくさんいて、笑いが止まらんわ』って、ゲラゲラ笑いながら、焼き鳥を食べてましたよね」
『な、ななな、何をデタラメを叫んでいる! 証拠はあるのか証拠は!』
神楽は完全に慌て、椅子から立ち上がろうとした。その拍子に、グラスが倒れて高級デスクが濡れる。
「証拠なら、ご自身のスマホの『隠しフォルダ』にありますよ。パスワードは、あなたの愛人の誕生日である『0821』。そこには、あなたが信者たちを『家畜』『金づる』と呼んで嘲笑している、お仲間とのLINEのやり取りが、すべて画像で保存されていますよね?」
『――ッッ!?』
神楽は、まるで心臓を撃ち抜かれたかのように口をパクパクさせ、その場にへたり込んだ。
パスワードまで完璧に言い当てられた。それは、世界で彼一人しか知らないはずの、絶対の秘密だった。
生配信のコメント欄は、一瞬にして凍りつき、次の瞬間には爆発的な勢いで流れ始めた。
【待て、神楽の様子がおかしいぞ……】
【パスワードを言われた瞬間の顔、マジで図星の顔じゃねえか!】
【隠しフォルダって本当か!?】
【おい詐欺師は神楽の方だったのかよ!!】
『う、あ……あ、ありえない、そんな……お前、何者だ……っ!?』
神楽は恐怖に引き攣った顔で画面を見つめ、最後は逃げるようにビデオ通話を切断した。
直後。神楽の生配信は大炎上。
ネットの有志たちによって、彼がこれまでに高齢者から騙し取ってきた数億円規模の詐欺行為や脱税の証拠が次々と暴かれ、翌朝には警察が彼の自宅に強制捜査に入る事態へと発展したのだった。
◇
「……す、凄すぎる」
パソコンをパタンと閉じたパパが、呆然とした声で呟いた。
「夕紀……君、本当に本物の占い師になっちゃったよ。あの悪徳カウンセラーを、一言も言い返せないレベルで完膚なきまでに論破するなんて」
「私じゃないよ、あなた。私はただ、凛ちゃんが耳元で教えてくれたことを、そのままオウム返しに言っただけ……。だけど、あの神楽って人、本当にお胸の奥が真っ黒だった。凛ちゃんが肩を触ってくれたとき、その黒い悪意が、私の頭の中にもドロドロって流れ込んできて、すごく怖かった……」
お母さんは私を強く抱きしめ、ふぅ、と長い息を吐いた。
「でも、これでわかったわ。凛ちゃんの力は、人を救うための『奇跡』。私は凛ちゃんの声を届ける、ただのスピーカーになればいい。それなら、私にもできる!」
「うん! ママ、お話しするの上手だったよ! かっこよかった!」
私はお母さんの頬にスリスリと顔を寄せた。
パパの胃がんの手術費用を稼ぐための「カモフラージュ」として始めた占い。
だが、この『神楽撃退事件』をきっかけに、ネット上では「本物の神占いが現れた」と、天宮家の存在が世界的なバズの渦へと巻き込まれようとしていた。
そのバズの波は、太平洋を越え、ウォール街の巨大ファンドの令嬢――エリザベス・ハミルトンの元へと届くことになる。
「パパ、ママ。……つぎはね、すっごくおっきな『金の髪の毛のおねえちゃん』が、飛行機に乗ってパパたちを迎えにくるよ」
私は、夜空に輝く、ひときわ眩しい『青い星』を見つめながら、静かに予言した。
◇
「――な、なんやこの高級車は……! うちのアパートの前に、戦車みたいな黒い車が止まっとるで!」
神楽の霊感商法を暴いてから数日後の昼下がり。
お母さんがベランダから外を覗き、お玉を持ったまま大騒ぎしていた。
大阪ののどかな下町の路地に不釣り合いな、全長6メートルはあろうかという漆黒の最高級ストレッチリムジン。その周囲には、ピシッと黒いスーツを着こなした体格のいい外国人SPたちが数人、鋭い目で警戒に当たっている。
「夕紀、落ち着いて……。あ、あらかじめメールで連絡があったんだ。僕たちの『占い』と『投資』の実績に目をつけて、どうしても直接会って相談したいという超大口のクライアントから……」
パパが冷や汗を流しながら、よれよれのシャツの襟を正した。
天宮家のリビングテーブルの上には、1枚の豪奢な招待状が置かれていた。
そこにはゴールドの刺繍で、こう書かれていた。
『本日午後2時、大阪マリオット都ホテルの最上階スイートルームにて、お待ちしております。ハミルトン・グローバル・インベストメンツ』
「ハミルトンって……あの、世界で一番大きなお金持ちの会社やんか! なんでそんなところが、うちみたいな庶民に用があるの!?」
「わ、分からない。でも、断ったら何をされるか分からない規模の相手だ。行くしかないよ」
パパとお母さんがガタガタと震える中、私はのんきにアンパンマンの靴下を履いていた。
「パパ、ママ、いこー! お星さまがね、『きんきらの髪の毛のお姉ちゃんが、おいしいジュースを用意して待ってるよ』って言ってるもん!」
「お、おいしいジュースって……凛ちゃん、緊張感の欠片もないね……」
パパは弱り切った顔で私を抱き上げると、私たちは黒塗りのリムジンへと乗り込んだのだった。
◇
あべのハルカスの最上階、地上300メートルに位置する最高級スイートルーム。
全面ガラス張りの向こうには、大阪の街並みが一望できる絶景が広がっていた。
だが、部屋の中に漂う冷徹なオーラは、その絶景すら霞ませるほどだった。
ソファーの真ん中に腰掛け、優雅にアールグレイの紅茶をすすっている女性。
輝くような金髪を美しいウェーブに整え、サファイアのような青い瞳。仕立ての良い白いシルクのブラウスに、無駄のない知的なボディライン。
彼女こそが、世界最大級のヘッジファンド「HGI」の創業者の一人娘であり、同社の「未来予測AIプロジェクト」の責任者――エリザベス・ローズ・ハミルトンだった。
「ようこそ、天宮ファミリー。わざわざ足を運んでくれて感謝するわ」
エリザベスは、通訳を通さず、完璧で気品のある日本語でそう言った。
その声は鈴を転がすように美しいが、同時に一切の妥協を許さない『捕食者』の冷たさを孕んでいた。
「は、初めまして。天宮悟です。こちらは妻の夕紀、そして娘の凛です」
パパが緊張のあまり、今にも胃に新しい『泥団子』を作りそうなほどカチコチになって挨拶する。
「お近づきの印に、お嬢様には特別な果汁100%のメロンジュースを用意させたわ。お口に合うといいけれど」
エリザベスが軽く指を鳴らすと、黒服のウェイターが、クリスタルグラスに入ったまばゆい緑色のジュースを私の前に置いた。
「わあーい! メロンのジュース! お姉ちゃん、ありがとう!」
私は遠慮なくストローを咥えて、ちゅーちゅーと美味しそうにすすり始めた。
「……さて。挨拶はこれくらいにして、本題に入りましょうか」
エリザベスはティーカップをソーサーに置くと、細く美しい脚を組み替え、鋭い視線をパパに向けた。
「サトル・アマミヤ。あなたは、元はしがない電機メーカーの営業マン。貯金も十万円ほどしかなかった。けれど……先週の月曜日、あなたはメキシコペソの市場で完璧な取引を行い、資産を倍にした。さらに金曜日の雇用統計では、事前予測を完全に裏切るドルの大暴落を『発表の一分前』からショートし、資産を300万円以上に膨らませた。……これ、どういうことかしら?」
「そ、それは……ただの、ビギナーズラックというか……」
「嘘はナシよ、時間の無駄だから」
エリザベスは冷酷にパパの言葉を遮った。
「我がHGIが数十億ドルを投じて開発した『未来予測AI』ですら、あの雇用統計の暴落は予測できなかった。それなのに、日本の吹けば飛ぶような個人投資家が、完璧なタイミングで、狂気じみた全力レバレッジ(複利)をかけて資産を増やした。……市場のバグを突くような『何か』が、あなたたちには見えているはずよ」
エリザベスは身を乗り出し、サファイアの瞳を細めた。
「さらに、奥さんのYUKI。ネットの占いアカウントを開設して数日。神楽という悪徳詐欺師の、誰にも知られていないスマートフォン隠しフォルダのパスワードまでピンポイントで言い当てた。……これは『占い』なんてチープな言葉で説明できるものじゃない。あなたたちは、世界の情報を事前に読み取る【何か】を持っている。違うかしら?」
「ひ、ひぃっ……!」
パパとお母さんは、世界最高峰の金融貴族からの尋問に、完全に蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまった。
さすがに、5歳の娘が異世界から転生した巫女で、星を読んでいるなんて言えるはずがない。
「隠さなくてもいいわ。私はあなたたちを罰しにきたわけじゃない」
エリザベスはふっと表情を和らげ、傲慢な笑みを浮かべた。
「提案よ。ハミルトン家と提携しましょう。あなたたち家族全員を、今すぐプライベートジェットでアメリカ(ニューヨーク)へ招待するわ。サトルには我がファンドのアジア戦略部門の顧問の椅子を。年収はとりあえず一億円からスタート。住居も、最高峰の医療ケアも、すべてのセキュリティもハミルトンが提供する。あなたたちに眠る『未来予測の力』を、我が社の超高性能AIと融合させるのよ」
「い、一億円……!?」
パパの目玉が飛び出そうになった。普通のサラリーマンだったパパにとって、一生かかっても稼げないような額だ。
「……もし、断ったら?」
お母さんが、震える手で私を自分の背中に隠しながら、搾り出すように尋ねた。
エリザベスは美しく、けれど酷薄に目を細めた。
「断るメリットはないと思うけれど。ハミルトンの提案を拒絶するということは、世界中の金融ネットワークを敵に回すということよ。あなたたちのFX口座を凍結し、社会的に抹殺することなんて、私の電話一本で一秒後に完了するわ。……選択肢は一つだけ。従うのよ」
逆らえば、一瞬で奈落の底に落とされる。
世界を裏から操る巨大ファンドの力は、天宮家のようなちいさな家族をすり潰すことなど、アリを踏み潰すよりも簡単だった。
パパとお母さんが、絶望的な沈黙に包まれる。
そのときだった。
「お姉ちゃん」
私はメロンジュースを飲み干すと、ソファーからトコトコと降りて、エリザベスの前に歩み寄った。
「凛、だめっ……!」
お母さんが慌てて制止しようとしたが、私は気にせず、エリザベスの白く柔らかな手を、私のちいさな両手でぎゅっと握りしめた。
「……何かしら、お嬢さん。私の交渉の邪魔を――」
――ビリリリッ!!!
その瞬間、部屋全体の空気が凍りついた。
私の脳裏に、大阪の明るい空を突き抜けて、恐ろしい『黒い破滅の星座』が浮かび上がる。
生体情報と星読みが、エリザベスの体温を通じて、彼女の『すぐそこにある死』を強制的に受信したのだ。
(あ、赤……真っ赤な火。空を飛ぶ、おっきなお鳥さん(飛行機)が、真ん中からパカッて割れて……火が噴き出してる……!)
エリザベスの身体の光が、急速にドロドロとした黒い澱みに侵食されていく。
明日。彼女が乗る予定のプライベートジェットの、右メインエンジンのタービンブレードの金属疲労、そして予備回路のショート。
現代科学の最先端検査でも見落とされる、致命的な「機械のガン」。
「いや……いやだ、お姉ちゃん……!」
私は恐怖に身体を震わせ、大粒の涙をポロポロと流しながら、エリザベスの美しい手をさらに強く握りしめた。
「凛ちゃん!? どうしたの!?」
パパたちが慌てて駆け寄る。
「お姉ちゃん、ダメだよ……! 明日、あの『大きなお空の鳥さん(飛行機)』に乗っちゃダメ!」
「……何ですって?」
エリザベスは眉をひそめ、不快そうに手を引こうとした。しかし、5歳児とは思えない私の力に、なぜか手を離せない。
「明日ね、お姉ちゃんが鳥さんのお腹に入って、お空を飛ぶと……鳥さんのお羽のところが、火でボーボーになっちゃうの! お胸の奥の、おっきな扇風機がね、バラバラって壊れて、お空で爆発しちゃう! お姉ちゃん、お星さまになっちゃうよ! 死んじゃうよぉ!」
「なっ……!?」
エリザベスの顔から、一瞬にして気品ある余裕が消え去った。
「あなた、何を言って……! 私のプライベートジェットの整備は完璧よ! 世界最高の技術者が毎日チェックしているわ!」
「ううん、お星さまには見えてるの! おっきな扇風機のね、ちいさな『はっぱ(ブレード)』に、目に見えないくらいのちいさな『ひび割れ』があるの! 明日、お空を飛んでお熱が高くなると、そこからピキピキって割れちゃうの!」
私は泣きじゃくりながら、必死に訴えかけた。
胃がんの『泥団子』を当てた時と同じ、迷いのない、真実だけを映す真っ直ぐな瞳。
エリザベスはその瞳に射すくめられ、喉を激しく鳴らした。
彼女の超高性能「未来予測AI」ですら、機械の分子レベルの金属疲労までは予測できない。だが、目の前の幼児は、それを「神託」のように預言している。
「……サトル、ユキ。……連れて帰りなさい、この子を」
エリザベスは震える手で私から手を外すと、ソファーの背もたれに深く体重を預けた。その額には、うっすらと汗がにじんでいる。
「今日の交渉はここまでよ。アメリカ行きの返事は、明日まで待ってあげる。……ただし、もしその『預言』がハズれたら、あなたたちに待っているのは容赦のない破滅よ。覚えておきなさい」
「わ、分かりました……。失礼します!」
パパはお母さんと私を抱きかかえ、逃げるようにスイートルームを後にした。
エレベーターが下降する中、パパとお母さんは私の頭を何度も撫でながら、青い顔で囁き合った。
「凛ちゃん……本当に、あのハミルトン家のお姉ちゃんの飛行機、落ちるの?」
「うん。お星さま、絶対に嘘つかない。明日、お空でおっきな火が咲くよ……」
天宮家の命運、そして世界を動かすハミルトン家の運命。
すべての鍵は、明日の大空へと委ねられた。
◇
「――あ、あかん。心臓が口から飛び出しそうや……」
運命の翌日、午前10時。
天宮家のアパートのリビングは、まるでお通夜のような重苦しい沈黙に包まれていた。
パパとお母さんは、テレビのニュース番組の画面と、壁掛け時計の針を交互に見つめながら、ガタガタと小刻みに震えている。
「夕紀、落ち着いて……。落ち着くんだ……。いや、僕の方が落ち着いてないな。胃の泥団子は切除したはずなのに、今度はストレスで別の胃痛がしてきたよ……」
パパが青白い顔で胃のあたりをさすっている。
それもそのはず。もし私の見た『爆発の預言』が外れて、エリザベスの飛行機が何事もなくアメリカに飛び立ってしまえば、天宮家にはハミルトン家からの容赦ない社会的抹殺(破滅)が待っているのだ。
「凛ちゃん……本当に、お姉ちゃんの飛行機、壊れてるの?」
お母さんが、すがるような目で私を見つめた。
私はソファーの上で、お気に入りのアンパンマンの人形を小脇に抱えながら、のんきにカルピスを飲んでいた。
「うん! お星さま、ぜったい嘘つかないもん。いまね、お空の向こうで、お姉ちゃんがすっごく怒りん坊の整備士のおじさんたちを怒鳴り散らしてるのが見えるよ」
「整備士を怒鳴り散らしてる……?」
パパとお母さんは顔を見合わせた。
その頃、関西国際空港のプライベートジェット専用ハンガー(格納庫)では、凛の言った通りの凄まじい光景が繰り広げられていた。
◇
「――何を言っているんですか、エリザベス様! 我々の整備チームは世界最高峰です! 出発前の点検でも、エンジンシステム、油圧、電気系統すべてにおいてエラーは『ゼロ』! 完璧な状態です!」
チーフ整備士が、額に青筋を立ててエリザベスに猛抗議していた。
離陸予定時刻のわずか一時間前。エリザベスが突如として「フライトを中止し、右メインエンジンの非破壊分子検査(分解ウルトラサウンド検査)を今すぐ行え」と命じたからだ。
「エラーが出ていないことなど分かっているわ」
エリザベスは、冷徹な仮面を貼り付けたまま、腕を組んで格納庫の床をヒールでコツコツと叩いた。
「言われた通りにしなさい。右メインエンジンのタービンブレード、その中の一枚にヘアラインクラック(超微細なひび割れ)がある。それと、異常を検知するはずのバックアップセンサーの電気回路に、初期不良のショート回路が発生しているはずよ」
「はあっ!? 何ですかそれは! そんなSF小説のような微細なピンポイントの故障、最新の自己診断AIでも検知できない領域ですよ! どこからの情報ですか!」
「……日本の、5歳の少女よ」
「ご、5歳……!? 正気ですか、エリザベス様!」
チーフ整備士は頭を抱えた。世界最強のファンドの令嬢が、日本のオカルトじみた幼児の戯言を信じて、数千万円規模の稼働コストがかかる検査を命じているのだ。狂気の沙汰としか思えなかった。
だが、エリザベスの脳裏には、昨日私の手を握った時に感じた、あの魂が凍りつくような『警告の波動』と、大粒の涙を流して自分を心配してくれた私の真っ直ぐな瞳が、どうしてもこびりついて離れなかった。
「黙って検査しなさい。もし何も出なければ、あなたたちのチーム全員に特別ボーナスを出すわ。……ただし、もし私の言う通りのクラックが見つかったら、あなたたちは全員クビよ。世界最高の整備チームの名が泣くわね」
エリザベスの圧倒的な威圧感に、整備士たちは唾を呑み込み、渋々と超精密非破壊検査装置をエンジンへと運び込んだ。
それから、重苦しい沈黙の中で検査が開始された。
最初は「時間の無駄だ」と鼻で笑っていた整備士たちだったが、タービンブレードの深部へ超音波スキャンが進むにつれ、徐々にその顔から血の気が引いていった。
そして、一人の若い整備士が、悲鳴のような声を上げた。
「ち、チーフ……っ! これ、見てください!」
「どうした、ただのノイズだろ……って、なっ、なんだこれはっ!?」
モニターに映し出されたのは、右メインエンジンの深部、第3タービンブレードの拡大画像だった。
そこには、肉眼では絶対に、光学顕微鏡でもまず見逃すような、分子レベルの【ヘアラインクラック(超微細な亀裂)】がピキピキと走っていた。
さらに、チーフ整備士が震える手で回路をテスターで測定すると、本来ならこの異常をコックピットに伝えるはずの予備センサーの基盤が、製造段階での微細なハンダ不良により、最初からショートして機能を停止していた。
「あ……ありえない……。エラー回路と金属疲労が、完全に同時に、同じエンジン内で見逃されている……」
チーフ整備士の背中を、どっと冷や汗が伝った。
もし、このまま離陸していたら。
上空一万メートルに達し、エンジンが最大出力で超高温になった瞬間、この微細なひび割れからブレードが破裂。バラバラになった金属片がガソリンタンクを直撃し、センサーがエラーを知らせる間もなく、機体は空中で一瞬にして大爆発を起こしていた。
生存率は、間違いなく『ゼロ』。
「……信じられん。自己診断プログラムでもスルーされるこんな初期不良を、一体どうやって……。エリザベス様、我々は……我々は、命を救われました……っ!」
チーフ整備士は床に膝をつき、ガタガタと震えながらエリザベスを見上げた。
エリザベスは、モニターに映し出された『死のひび割れ』を見つめながら、あまりの衝撃に言葉を失っていた。
自分のサファイアの瞳が、これまでにないほど大きく見開かれる。
(本当に……本当に、あの子の言った通りだった。機械の分子レベルの死を、あの子はただ、私の手を握っただけで『視て』いたのね……)
昨日、自分のために涙を流して「お姉ちゃん死んじゃうよ」と叫んでくれた、小さな私の姿が脳裏に蘇る。
その瞬間。
エリザベスの胸の奥で、冷徹な『ハミルトン家の令嬢』としての氷の壁が、音を立てて木っ端微塵に砕け散った。
代わりに湧き上がってきたのは、言葉にできないほどの激しい感動、驚愕、そして――。
「……関空に置いてある、最高級のロールスロイスを用意しなさい。今すぐよ」
「え? は、はい! どちらへ向かわれますか?」
「大阪の……平野区よ。マイ・エンジェルが、私を待っているわ!」
エリザベスの瞳には、昨日までの冷酷な捕食者の光ではなく、ギラギラとした、異様なほどの【溺愛】の炎が燃え盛っていた。
◇
同日、午後1時。
天宮家のアパート。
「……あかん、もう1時や。ニュースにも何ものってへん。飛行機は無事に飛んでしまったんやろうか……。うちは、うちはもう終わりや……」
お母さんがソファーで魂が抜けたように真っ白になっていた。
パパも「ごめんよ夕紀、凛ちゃん……。せっかく胃がんから助かったのに、僕のせいで家族を破滅に巻き込んで……」と、遺書を書き始めそうな勢いだった。
その時だった。
ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン!
ドンドンドンドンドンドン!!!
アパートの、建て付けの悪いチャイムが激しく連打され、ドアが壊れそうな勢いでノックされた。
「ひ、ひぃぃぃぃぃっ!!! きたあああああ! ハミルトン家の暗殺部隊や!」
パパとお母さんが抱き合って絶叫する。
「パパ、ママ、ちがうよ! お姉ちゃん、すっごくハァハァ言って走ってきただけだよ!」
私がトコトコと玄関に向かい、鍵を開けてノブを回した瞬間。
バシャァァァン!!! と、勢いよくドアが開け放たれた。
そこに立っていたのは、いつもの上品なロールスロイスのSPたちを完全に置き去りにして、全力疾走で階段を駆け上がってきたエリザベスだった。
輝く金髪は少し乱れ、息を激しく切らし、額にはうっすらと汗をかいている。
「は、ハミルトン様……! お、命だけは、どうか娘の命だけは――」
パパが床に平伏して叫ぼうとした、その時。
「――凛(RIN)ちゃん!!!!!』
エリザベスはパパたちを完全な『空気』として無視すると、スライディングするような勢いで膝をつき、私をその細く白い腕で、力いっぱい抱きしめた。
「お、お姉ちゃん……? すっごく、ぎゅーって、くるしい……」
「オーマイガー! 本当に……本当にあなたは私のエンジェル(天使)だわ! 予言は完璧に当たっていた! エンジンは本当に爆発寸前だったのよ! あなたが私の命を、ハミルトン家の未来を救ってくれたの!」
エリザベスは私の小さな頬に、何度も何度も自分の頬をすり寄せ、狂ったように私をハグし続けた。彼女の身体から流れ込んでくる『生体情報』は、昨日までの冷酷な灰色から一転して、真っ赤な【超弩級の愛情】と【狂信的な溺愛】のピンク色のオーラで完全に爆発していた。
「もうダメよ、絶対に離さないわ! あなたは私の妹よ! いいえ、私のソウルメイト! 私の人生のすべてよ!」
「え……ええええええええええっ!?!?!?」
平伏していたパパと、お玉を落としたお母さんの、ハモった絶叫がアパート中に響き渡った。
「ハ、ハミルトン様……? その、アメリカ移住の話や、僕たちの社会的抹殺の話は……?」
パパが恐る恐る尋ねる。
エリザベスは私を腕に抱いたまま、パパたちの方を振り返り、昨日までの冷酷さが嘘のような、満面の、けれどどこか目が笑っていない「極上の笑顔」を浮かべた。
「抹殺? 何を馬鹿なことを言っているの、サトル。あなたたちは私の命の恩人のご両親よ? 抹殺するわけがないでしょう。……アメリカ移住の話は、もちろん『強制』ではなく【お願い(懇願)】に変更よ。サトル、あなたのアジア顧問の年収は、一億円から【三億円】に引き上げるわ。ハミルトン家が総力を挙げて、あなたたち家族を世界一のVIPとして遇することを約束するわ!」
「さ、三億円……っ!?!?」
パパは白目をむいて、その場にばたりと倒れ込んだ。
「凛ちゃん。ハミルトン家はね、恩を仇で返すような野蛮な一族ではないの。これから私は、あなたを世界一幸せな女の子にするために、ハミルトン家のすべての力を使うわ。……ねえ、私の可愛いエンジェル。まずは、ウォール街にあなた専用のトイザらスを丸ごと一店舗、建ててあげるわね?」
「わあー! おもちゃがいっぱい! お姉ちゃん、だいしゅきー!」
「キュン……ッッ!!!(致命傷)」
エリザベスは胸を押さえ、その場に崩れ落ちそうになりながら、悶絶した。
こうして、ハミルトン家の最強のプリンセスは、凛の予言によって命を救われ、同時に世界で最も危険な【超絶重度なシスコンお姉ちゃん】へと完全覚醒してしまったのだった。
天宮家のアパートの狭いリビングで、三億円の契約書が交わされる中、私の頭の上の星空には、新たな星座が輝き始めていた。
それは、ハミルトン家と天宮家が手を取り合い、世界の金融を裏から支配していく、最強の『成り上がり』のロードマップだった。




