第二十二話
丁重にというよりも、
恐る恐るという感じか。
まるで壊れ物でも触るような手付きで、
沢辺氏はゆっくりとバッグから絵を取り出そうとする。
中へと突っ込まれていた右手が徐々に外へと現れる。
その手にしっかりと掴まれている絵。
それは紫色の袱紗のようなものに厳重にくるまれてある。
沢辺氏はそれを机の上へと置き終わると、
今度はその袱紗を開きにかかった。
重ねられた布が一枚一枚丁寧に開かれてゆく。
それに呼応するように、
俺の心臓はさらに激しく脈打ち始めた。
もうじきあの絵、
あの『男の絵』が俺の網膜へと飛び込んでくるのだ。
そう思うと何やら体だけでなく、
その眼球さえも身構えてしまうような、
そんな奇妙な感覚を覚えた。
開かれてゆく布。
もう次ぐらいには絵の姿が見えるかもしれない。
沢辺氏の手付きが今まで以上にゆっくりと動く。
いや、ゆっくりだと感じているのは、
沢辺氏のせいではなく、
それを見ている俺の脳のせいかもしれなかった。
開かれる布。
そして、絵。
俺は瞬きもせず、
しばらくその絵を見つめていた。
やがて、目の端から涙がにじみ出てくる。
俺はそれを抑えようと目をつぶり、
右手の人差し指と親指で目頭を押さえた。
涙はそれで治まった。
もうそれ以上溢れ出る涙はなかった。
何故なら、その涙は『感動』ではなかったからだ。
それはただ長時間瞬きをしなかったからという、
生理的なものに過ぎなかった。
俺は沢辺氏にはわからぬよう、
小さく嘆息した。
少しがっかりした思いがしたからだ。
前述したとおり、
俺は芸術というものにはまったく素養がないが、
『モナリザ』のその魅惑的な微笑ぐらいは知っている。
いわゆる、心のどこかで、
そういう絵を期待していた、
というところがないではなかった。
昨日の沢辺氏の絵を語るその陶酔ぶりから、
万人が見ても思わずその絵に魅了されてしまうような、
そんな妖しさすら醸し出すそんな絵を期待していたのだ。
その期待からすれば、
袱紗の下から現れたその絵に、
俺は拍子抜けする思いがした。
まず、手のひら二つ分ぐらいと、
大きさ的に随分と小さく迫力に欠けた。
昨日、沢辺氏がこんなものです、と手で表現したそれよりも、
さらに一回り小さいようにも見受けられる。
まぁ、沢辺氏の頭の中では、
それくらいに大きく見えているのだ、
ということかもしれないが。
そして肝心の絵の内容だが、
果たしてこれはどうなのだろうか?
いわゆるその絵は、
昨日沢辺氏が描いたものと同様、『抽象画』だったのだ。
歪んだ黒っぽい男が、そこには描かれていた。
しかし下手をしたら、
昨日沢辺氏が描いたものの方が、
まだ上手いのではないかと思えるほどの非具象ぶりだった。
それを芸術と言うのなら、
俺には一生理解できない境地だとも思えた。
絵についてはそのように散々な思いがしたが、
ただ唯一目を引くものとして、
その絵の技法というか何というか、
陶器に描かれたようなその絵。
先ほど沢辺氏がバッグから絵を取り出そうとした際、
俺は壊れ物でも触るような手付きでと表現したが、
それは大事だからというだけでなく、
実際に壊れ物でもあったのだ。
後で沢辺氏に聞いてわかったことだが、
それは『陶版画』というもので、
陶磁器に絵付けをして焼成した絵画ということなのだそうだが、
ただそれだけがめずらしいだけで、
後は特に俺の興味をそそるようなものは感じなかった。
俺はふいに沢辺氏の視線を感じ顔を上げる。
そこにはやはり、俺の顔を見て満足そうな沢辺氏がいた。
ひょっとして氏は、
俺が先ほど流しそうになったその涙を、
感動と受け取ったのかもしれない。
そうでないが故に、
何だが少し癪にさわる思いがしたが、
あえて反論はしなかった。
やがて沢辺氏は、
まるで赤ん坊でも抱き上げるようにその絵を持ち上げ、
頬ずりせんばかりに顔へと近づけると、
目一杯剥いたその両眼で愛撫するかのように絵を見つめ始めた。
ギラギラと光るその目。
その光は絵の光沢から反射したものを受けてのものだったのか、
あるいは目そのものが光を発していたのかは定かではない。
だがそれは、言葉は悪いかもしれないが、狂気じみていた。
沢辺氏は時折チラチラとこちらへと視線を向けてくる。
まるで新しく買った玩具を友達に見せびらかしているような、
そんな子供のような視線に見えた。
そう、今の沢辺氏は完全に子供だった。
子供のように何も屈託なく、そして疑うこともなく、
その絵を心から受け入れ、虜となり、心酔しきってしまっている。
そうと考えるならば、
狂気と思えていたそれも少しは理解できるような気もしたが、
もちろんそれで全てが理解できるとも思えなかった。
気付けば、氏の手が震え始めている。
絵に接し続けていたことで感極まったのだろうか。
落として割ってはいけないと感じたのか、
氏は慌てて元の机の上へと絵を置いたが、
置いた後もその右手の震えだけは治まる様子はなかった。
氏はその震える右手を見つめながら、
胸の内を吐露するように俺へと話しかけてくる。
「……昨日は一週間おきと言いましたが、
どうもおかしいんです……」
「?……、一週間おき、とは、手が絵を描かせるという……」
どうやらその手の震えは、
俺が思っていたこととは別の理由だったらしい。
「はい、大抵は一度絵を描けば、
何とかその後一週間は発作が止まっていたんです……」
沢辺氏は左手で右手を押さえにかかった。
苦しそうだ、まるで右手が自分の物ではないかのようだった。
「治まらない、ということですか……」
俺の声に沢辺氏はこっくりと頷いた。
「実は、昨日は二度描いていたんです……」
「二度……」
「ここへ来る前に、自宅で一度……」
俺は未だ震える手を必死で押さえ続けている沢辺氏に、
次は何と声をかけるべきか考えていた。
視界にはその原因である『男の絵』を捉えながら。
しかし、一体その絵の何が、そしてどこが、
沢辺氏をそこまで引きつけているのか。
だが今の俺には、
いくらその絵を見たところで答えは出てこなかった。
だが、実際そうなってしまっているのだ。
頭の中に絵の中の男が住んでしまうくらい。
手が独りでに絵を描かせてしまうくらい。
そして、絵が独りでに動き出してしまうくらい……。
果たしてどこまで本当なのか。
だが、俺は今ちょうど思い出したことがある。
沢辺氏は『ダイコン』だった、ということをだ。
俺の事務所のビル前をウロウロとする沢辺氏、
その時の様子を思い出したのだ。
だとすれば『演じている』ということはあり得ない。
今しがた俺の目の前で、
狂気すら感じる様子で絵を愛でた沢辺氏、
そして今現在、
苦痛に顔を歪め手を振るわせる沢辺氏。
それら全て『偽りのない姿』だということなのだ。
だとすれば、
今だけのことではない、
昨日から現在までの沢辺氏の言動は全て真実だった、
ということになる。
そうであるならば……、そうあのことも。
『絵が動いた』というあのことも、
やはり事実だったというのだろうか―。
そこまで考え至った時だった、
俺は何やら軽いめまいを覚える。
それは同じだった。
そのめまいは、
昨日事件現場で感じた二度のめまいと、
全く同じ感覚がしたのだ。
しかし何故そう思ったのかについては、
今の俺には到底理解し得ぬことであった。




