第二十一話
俺は二日酔いのようにふらふらと事務室の机へと向かい、
その上に備え付けてあるインターホンの受話器を手に取る。
二日酔いのように、とは言ったものの、
実際にまだ昨晩の酒が残っているようにも感じられた。
足元が覚束ないのは、
どうも風邪のせいばかりではないらしい。
「はい……」
寝起きの声、そして風邪声、さらには二日酔いの声、
それはまるで自分の声ではないように思えた。
『……あっ、あの、沢辺です』
多少のノイズと共に俺の耳に響いた声、
それは間違いなく沢辺氏のものであった。
沢辺氏?
俺は少し意外な気がした。
氏が来たことに対してではない。
氏が来ること自体は予め予定されていたことだったのだが、
来たその時間が意外だったのだ。
約束では確か会社が終わってからの19時だったはず。
まさか風邪にかこつけて俺が19時まで寝坊したとも思えない。
改めて時間を確認するまでもなく、
今は間違いなく朝だということは体感的にもはっきりとわかっている。
俺は受話器を置くと、
少しばかり早足で事務所のドアへと向かった。
しかし、実際はふらつく足取りの為、
決して早足とは言えない速度ではあったが。
多少もたつく手でドアを開錠し、そして開く。
ドアから4、5歩下がった所に、
沢辺氏は縮こまるようにして立っていた。
その沢辺氏は中から現れた俺の姿を見て、
何やら安心したかのようなそんな表情を見せ、
こちらへと歩み寄ってくる。
ひょっとしたら、
先ほどのインターホンからの俺の声が、
昨日聞いた声と余りにもかけ離れていた為に、
少し警戒していたのかもしれない。
「あの、こんな朝早くに、申し訳ありません……」
沢辺氏はそう言うと、深々と頭を下げた。
「あ、いえ、それよりどうぞ……」
沢辺氏の挨拶に俺も軽い会釈で応えながら、
氏に中に入るよう勧めた。
「でも、あの、急いでますんでここで……」
と、一旦はそう言った沢辺氏ではあったが、
自身の肩からかけていたビジネスバッグをチラリと見やり、
「すみません、やはり中でお願いできますか……」
と、即座に言い直し、
そのバッグを大事そうに抱えながら事務所へと入ってきた。
中に入ると沢辺氏は俺が勧めるまでもなく、
昨日腰掛けたのと同じソファーへと腰を掛ける。
俺は一体今時分に何事かと、
未だ沢辺氏の心の内を量りかねる思いのまま、
同じくソファーへと腰を掛けた。
「……で、沢辺さん。どうかされましたか?」
急いでいる、と言ったわりには、
なかなか口を開こうとしない沢辺氏に対し、
俺は焦れるようにしてそう質問した。
両太もも上に皮製のビジネスバッグを乗せ、
さらにその上から両の手のひらで蓋をするかのようにして、
大事そうにそのバッグを抱え込む沢辺氏。
俺の質問にもまるで反応を示さないかのようにしている。
「沢辺さん?」
俺は再びそう呼びかけ、
俯き加減のその沢辺氏の顔を下から覗き込もうとした。
だが、沢辺氏は突如スッと顔を上げたかと思うと、
さらには抱えていたバッグを目の前の机の上へと置いた。
突然のことに俺は一瞬面食らうかのようにしながらも、
何とか姿勢を元へと戻し、沢辺氏を見つめた。
氏は真っ直ぐにこちらを見据えている、
そしてその状態のまま、ゆっくりと口を開いた。
「……ここに入っています」
「……入っている?」
沢辺氏は短くそう言うと、
その後の俺の問いには答えようとはせず、
バッグの口金を開けにかかった。
その動作を見つめながら、
俺は直感的にわかった気がした。
もちろん薄々そうではないかと感じてはいたが、
まさかという思いがあったのだ。
絵を持ってきた―。
確かに昨日の約束では、
今日の19時に例の絵を持ってくる、
ということにはなっていた。
だが、それは例の絵そのものではなく、
『写真』だけを持ってくる、という約束だったのだ。
そう写真だけ。
決して実物を持ってくるという約束ではなかったのだ。
しかし、今、俺の目の前でバッグを開け、
中から何かを取り出そうとしている沢辺氏の様子は、
たかが写真を取り出す動作にしては余りにも丁重すぎた。
それに何故、約束の時間ではなく、この時間なのか。
そう、やはり持ってきたものは、『写真』ではなく『実物』。
絵を持ってきた―。
自然と俺の鼓動は早くなり、握り締めたこぶしには汗が滲む。
頭の芯が針で刺されたかのように痛み始めた。
何とも酷な一日の始まりだ。
だが、風邪と二日酔いに対しては、
これほどまでに強烈な特効薬は無かっただろう。
俺の歪んでいた視界はいつの間にか補正され、
体に籠っていた熱も、流れ出る汗と体内を激しく循環する血液によって、
急激に体外へと放出され冷却されてゆく思いがしたのだった。




