第十二話
哀れみ?
誰に対してだ?
俺にか?
冗談じゃない、俺は正常だ!
手が勝手に動き絵を描かせるだと?
それも頭の中の男が?
バカな、そんなことがあるものか。
それは、たわ言だ、た・わ・ご・と。
そして、これも…、絵が笑っているのも、ただのトリックだ。
そうだ、トリックなのだ!
俺は視界の闇を必死で払いのける。
どうやら、危うく意識を失いかけていたようだ。
手足の震えは治まっていたが、
とてつもなく長い時間、闇の中を徘徊していたような、
そんな脱力感に襲われる。
しかし、時間にしてはわずか数秒だったはずだ。
気付けば、額に汗がにじみ出ていることに気付く。
俺はズボンのポケットからハンカチを取り出すと、
それを、まるで飲み屋で出された御絞りであるかのようにして、
せわしなく動かし、拭う。
それを再びポケットにねじ込む頃には、
少しは心に余裕が出始めていた。
絵が。
その頃には、もう絵が、笑っていなかったからだ。
「は、ははは…」
逆に俺が笑っていた。
そうだ、やっぱり、トリックだ。
「いや、参りました、沢辺さん。
何かトリックがあるんでしょう?」
続けて『ははは』と笑ったが、
自分でもわかるぐらい引きつった笑いであった。
だが、それでもいい。
これは所詮トリックなのだ。
半ば自分に言い聞かせるようなそんな物言いから、
俺の虚勢を見抜いたのか、
今までずっと押し黙っていた沢辺氏は、
俺の『トリック』云々という発言は無視するように口を開く。
「…一週間に一度くらい、このような現象が起こるのです…」
俺の顔から、引きつった笑いがかき消える。
『トリックなどではありません』と返してきたのなら、
まだこちらとしても答えようがあったものだが、
こうも具体的に切り返されると、ぐうの音も出ない。
俺は返す言葉も見当たらず、代わりにごくりと唾を飲み込んだ。
思いのほか大きな音になったそれは、
おそらく沢辺氏にも聞こえたであろう。
沢辺氏は、その音に促されるように続ける。
「今から、約二ヶ月ほど前…、
とある露店で、ある『絵』を手に入れましてね…」
沢辺氏はそう言うと、薄っすらと笑みを浮かべた。
まるで、その絵を頭の中に思い浮かべて、
改めて鑑賞しているかのような、そんな感じだった。
よほど、その絵が気に入っているとみえる。
「それから、十日あまり経った頃でしょうか…。
それは、起こりました…」
そう言うと、沢辺氏は体をかがめ、
床に落ちた万年筆を拾い上げ、右手に持った。
それだけで充分だった。
要するに、その絵を手に入れた十日後から、
手が独りでに動き、絵を描かせ始めた、
ということなのだろう。
俺は沢辺氏に、軽く頷くような素振りを見せ、
理解したことを示す。
それを見た沢辺氏は、
俺と同じく一度頷いてから、こう続ける。
「それからは一週間置きです…。
そう、大体、今ぐらいの時間に…」
そう言って、万年筆を持った右手をプルプルと震わせる。
まだ描き足らない、というように。
「そして、二週間前からです、それが、動き始めたのは…。
具体的には、笑い始めた、と言えば良いでしょうか」
沢辺氏は、あなたも先ほど見ましたよね、
と言うような視線を送ってくる。
ああ、確かに見た。
しかし、それは『トリック』だがな。
俺は真っ向から対決するように、沢辺氏を見返した。
「そうですか…、わかりました。
で、沢辺さん、一体私にどうして欲しい、
というのでしょうか?」
俺は半ば、ヤケになってそう切り出した。
もう俺の頭には、病院を勧めるだのなんだの、
沢辺氏が哀れだのなんだのという考えは、
この時にはきれいさっぱり無くなっていた。
今はただ、からかわれているのだ、という気持ちが、
また再びチカチカと心の中に現れ始めているだけである。
「露店です…」
「露店?」
「その、露店を探して欲しいのです…」
その『絵』を買った、その露店を探して欲しい―。
どうやらそれが、
沢辺氏がここを訪れた真の目的であるらしかった。




