【第4話】噂の公爵夫妻、夜会へ②
東屋でアルバと話してから、数日。
シエラはテオドアに呼ばれ、執務室を訪れていた。
扉を開けると、テオドアはいつものように机へ向かっていた。以前とは違い、その横顔に疲労の色は薄い。
「旦那様、何かご用ですか?」
「ああ。これを」
そう言って差し出されたのは、一通の封筒だった。
「君宛ての手紙だ」
「私に?」
受け取って、差出人の名を確認する。
その瞬間、シエラの指先が止まった。
「……エリザ」
見慣れた名前だった。
封を切ると、中から夜会の招待状と、どこか気取った美しい文字で綴られた手紙が現れる。
『親愛なるお姉様へ』
『ご結婚以来、一度もお会いできておりませんもの』
『せっかくの機会ですから、今度の夜会にはぜひ旦那様とご一緒にいらしてくださいね』
文字を追うほど、シエラの眉間に皺が寄っていく。
そして、最後の一文を読んだところで、その表情は完全に曇った。
『噂の“屍人公爵”様にお会いできることも、楽しみにしておりますわ』
(……相変わらずね)
親しげな言葉を並べていても、その裏に何があるのかくらい分かる。
エリザは昔からそうだった。
花開くように美しく笑いながら、シエラを傷つける言葉を選ぶことにかけては、誰よりも長けていた。
「何と?」
テオドアの声に、シエラは顔を上げた。
「今度の夜会に、旦那様と一緒に来てほしい、と」
「……そうか」
それだけ答えたあと、テオドアはすぐには何も言わなかった。
代わりに、手紙を握るシエラの顔をじっと見つめている。
「君が嫌なら、行かなくていい」
「え?」
思いがけない言葉に、シエラは目を瞬かせた。
「無理に付き合う必要はないだろう」
口調はいつも通りぶっきらぼうだった。
けれど、その紫色の瞳は、シエラの反応を確かめるように静かにこちらを見ている。
シエラは手元の招待状へ視線を落とした。
華やかな夜会の片隅。長い前髪で顔を隠し、誰とも目を合わせられずに俯いていた過去の自分。
遠くから聞こえてくるエリザたちの笑い声に、ただ耐えることしかできなかった。
シエラは招待状を持つ手へ、そっと力を込めた。
「……私、行きます」
「いいのか?」
「はい」
顔を上げる。今度は、逃げることなく真っ直ぐにテオドアを見つめた。
「もう、隠れないって決めたので」
テオドアは何も言わなかった。
ただ、しばらくシエラの目を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そうか」
そして、手元の招待状へ視線を落とす。
「なら、俺も行く」
「え?」
「夫婦で招かれているんだろう」
シエラの顔がぱっと明るくなる。
「はい!」
その笑顔に、テオドアの目が一瞬だけ留まった。
けれど、何も言わずに視線を逸らす。
シエラはそんな彼の変化には気づかないまま、手の中の招待状を見つめた。
今度こそ、顔を上げてあの場所へ行くのだ。
*
夜会の会場となる大広間は、すでに多くの貴族たちで賑わっていた。
華やかな衣装に身を包んだ人々が行き交い、あちこちで楽しげな笑い声が弾んでいる。
その中でも、ひときわ人目を引いていたのがエリザだった。
淡い薔薇色のドレスには、胸元から裾へ流れるように繊細な金糸の刺繍が施されている。
丁寧に整えられた亜麻色の髪と相まって、華やかな顔立ちをいっそう際立たせていた。
そんなエリザの周囲には、いつものように数人の令嬢たちが集まっている。
彼女たちはエリザを中心に輪を作り、楽しげに言葉を交わしていた。
「そういえばエリザ様。今夜はお姉様もいらっしゃるんでしょう?」
令嬢の一人に尋ねられ、エリザは満足げに微笑んだ。
「ええ。旦那様とご一緒に」
「旦那様って……あの“屍人公爵”?」
別の令嬢が、声を潜めながら身を乗り出す。
「一度見たら眠れなくなるほど恐ろしいお顔だとか」
「まあ、どうかしら」
エリザは扇子を広げ、口元を隠しながらくすりと笑った。
「お姉様も、相変わらず?」
「ええ、きっとね」
何気ない調子で答えながら、エリザの脳裏には昔のシエラの姿が浮かんでいた。
長い前髪で顔を隠し、誰とも目を合わせられずに俯くシエラ。
その隣には、以前遠目に見た“屍人公爵”の姿が重なる。
(どんな惨めな夫婦が現れるのかしら)
今夜もきっとシエラは、華やかな人々の中で居心地悪そうに小さくなっているはずだ。
そこに“屍人公爵”が並び立ち、周囲からどんな目を向けられるのか。
想像するだけで、愉快な気分になった。
その時――。
大広間の入口が、にわかにざわめいた。
談笑していた人々が次々と口を閉ざし、一斉に扉の方へ顔を向ける。
「ミューゼル公爵夫妻、ご到着――」
従者の声が響いた。
エリザは待ってましたとばかりに口元を吊り上げる。
大扉が、ゆっくりと開かれていく。
そこに現れた姿を見て、エリザは目を見開いた。
黒を基調とした正装に包まれた長身が、ゆっくりと広間へ姿を現す。
艶やかな黒髪の下、長い睫毛に縁取られた深紫の瞳は、灯りを映して澄んだ光を宿していた。
すっと通った鼻梁に、研ぎ澄まされたような端正な輪郭。
華やかな貴族たちの中にあってなお、ひと目で視線を奪われる。
(……誰?)
一瞬、本気でそう思った。
けれど、その男がミューゼル公爵家の紋章を身につけていることに気づき、エリザの表情が強張る。
(まさか……)
かつて“屍人公爵”と呼ばれていた男の面影など、どこにもない。
そして、その隣に立っていた女性を見た瞬間――今度こそ、エリザは言葉を失った。
淡いミントグリーンのドレスは、ふんわりと広がるスカートに繊細なレースを重ねた可憐なデザインだった。
胸元や袖には小粒の真珠が散りばめられ、控えめながらも、一目で上質な仕立てだと分かる。
丁寧に結い上げられた亜麻色の髪が、愛らしい顔立ちをいっそう引き立てていた。もう、その顔を覆い隠す長い前髪はない。
背筋を伸ばし、顔を上げて。
シエラは堂々と微笑んでいた。
先ほどまで満ちていたざわめきが、いつの間にか消えている。
誰もが入口に立つ二人を見つめたまま、言葉を失っていた。
エリザの唇から、かすれた声が漏れる。
「……は?」
そんな周囲の反応など意に介さず、テオドアは隣のシエラへ顔を向けた。
「行くぞ」
「はい」
シエラは頷き、差し出された腕へそっと手を添える。
二人は並んで、大広間へ足を踏み入れた。
息を呑むほど端正なテオドアと、その隣で凛と前を向くシエラ。
並んだ二人は、誰の目にも美しく釣り合いの取れた夫婦にしか見えなかった。
エリザは目を見開いたまま、その姿を凝視していた。
(嘘……)
信じられない。
目の前にいる二人と、自分の記憶の中にいる姉夫婦が、どうしても結びつかない。
(あれが――)
扇子を握る指に、思わず力がこもる。
(お姉様と、“屍人公爵”……!?)




