【第5話】ただのヘッドスパでは、ないようです②
エリザの笑みが止まる。
「……何ですって?」
「私のことは、私が決めたいの」
その言葉は、不思議なくらい迷いなく口から出た。
「お姉様の分際で……!」
エリザの顔が怒りに歪む。
けれど、周囲の人々がこちらを見ていることに気づいた途端、その表情は一変した。
「……ごめんなさい」
「え?」
悲しげに眉を下げ、怯えるように一歩後ろへ下がる。
「また、お姉様の気に障ったのね」
シエラが呆気に取られる間にも、エリザの目にはみるみる涙が滲んでいく。
「私……昔からこうやってお姉様を怒らせては、折檻されていたの」
「な……っ」
エリザのそばにいた令嬢たちが、一斉に息を呑んだ。
「まあ……!」
「だから今でも、お姉様が怒っている顔を見ると怖くて……」
エリザは震えるように自分の腕を抱く。
その姿だけを見れば、姉に怯える健気な妹にしか見えない。
「なんて酷い……」
「違うわ。私はあなたにそんなこと――」
「ただ、お姉様が……」
エリザは言葉を遮り、シエラのドレスへ視線を落とした。
「そんな綺麗なドレスを着て、何もなかったように笑っている姿を見ると……少し、悲しくなってしまって」
令嬢たちが顔を見合わせる。
「エリザ様をあれだけ苦しめておいて……」
「随分とお幸せそうですこと」
責めるような声が重なった。
その中のひとりが、手にしていたグラスへ視線を落とす。次いでシエラのドレスを見つめた唇に、意地の悪い笑みが浮かんだ。
「……そんな方に、本当にそのドレスがお似合いかしら?」
「――え?」
意味を理解するより早く、令嬢がわざとらしく足をもつれさせた。
「きゃっ」
傾いたグラスから、色の濃い飲み物が勢いよく飛び出す。あまりに突然のことで、シエラには避ける暇もなかった。
その瞬間――。
パァンッ!
乾いた音とともに、シエラの目前へ透き通った魔術障壁が現れた。
飲み物はその表面へ激しくぶつかったものの、一滴たりともシエラには届かない。
それだけではなかった。
透明な障壁が水面のようにしなやかに歪み、弾かれた液体の軌道をそのまま反転させる。
「きゃああっ!」
次の瞬間、飲み物は令嬢本人へ勢いよく降りかかった。
髪も顔もドレスも濡れ、甲高い悲鳴が大広間に響き渡る。
何が起きたのか分からず、シエラが目の前の障壁を見つめていると、不意に肩へ腕が回った。
「……っ!」
そのまま強く引き寄せられ、背中が硬い胸元へ触れる。驚いて顔を上げたシエラは、すぐそばにある見慣れた顔に目を見開いた。
「だ、旦那様……!」
いつの間に戻ってきたのか、テオドアがシエラを庇うように腕の中へ抱き寄せていた。
そのまま濡れた令嬢へ、冷ややかな視線を向ける。
「……随分と悪質な“事故”だな」
「ち、違います! 私はただ足を滑らせて……!」
「俺の目には、妻を狙ったように見えたが?」
「ひっ……」
声を荒らげたわけではない。
それでも、低く冷えきった声音には有無を言わせぬ圧があり、令嬢の顔からみるみる血の気が引いていく。
傍らでは、エリザも息を呑んでいた。
「次に妻へ手を出せば――」
その言葉とともに、テオドアの周囲の空気がぴり、と震えた。
目には見えなくとも、それが魔力の揺らぎなのだとシエラにも分かる。
やがてテオドアの視線が、ゆっくりとエリザへ移った。
「この程度では済まさない」
エリザたちの顔が、さっと青ざめた。
静まり返っていた周囲には、今度は別のざわめきが広がっていく。
「……今の障壁、見たか?」
「ああ。無詠唱で瞬時に展開した」
少し離れたところにいた男たちが、驚きを隠せない様子で声を潜めていた。
「それだけじゃない。発動したあとで形状まで変えたぞ」
「だが、ミューゼル公爵は初歩的な魔術しか扱えないはずでは?」
「俺もそう聞いていたが……」
困惑を含んだ声が次々と重なっていく。
けれど、テオドアはそんな周囲の反応には目もくれなかった。
腕の中にいるシエラへ顔を向ける。
「怪我は?」
「……だ、大丈夫です」
「そうか」
それを聞いた途端、それまで険しかった表情から力が抜けた。
間近で見上げた深紫の瞳には、先ほどまでの冷たさなどもう残っていない。
ただ、シエラが無事だったことへの安堵だけが、はっきりと滲んでいた。
その瞬間、どくん、と胸が跳ねた。
(……ん?)
聞き間違えようのないほど、大きな鼓動だった。
理由も分からないまま戸惑っているうちに、テオドアの腕がゆっくりと離れていく。
途端に、さっきまで触れていた温もりがなくなったことを、妙に意識してしまった。
(……どうしたんだろう、私)
シエラは小さく首を傾げる。胸の奥には、先ほどの鼓動の余韻が残り続けていた。




