【第4話】噂の公爵夫妻、夜会へ
「――ただいま」
穏やかな声を聞きながら、シエラは改めて目の前のテオドアを見上げた。
(……本当に変わったなあ)
二か月前は、眠ることも食べることもままならなかった。
それが今では毎晩きちんと眠り、食卓につけば少しずつ食事も取れるようになっている。
(ちゃんと元気になってきてる)
そう思うだけで、自然と頬が緩んだ。
すると、テオドアがなぜかこちらをじっと見つめていることに気づいた。
「旦那様?」
首を傾げると、テオドアは一拍遅れて視線を逸らした。
「……何でもない」
「?」
よく分からないまま、シエラは改めてテオドアの顔をじっと見つめた。
(でも……)
「何だ」
じっと見すぎたらしい。怪訝そうな紫色の瞳がこちらを向いた。
(前の方が、寝落とし甲斐はあったかも)
さすがにそれを口にするのは憚られ、シエラはにっこり笑って首を振った。
「いえ、なんでもありません!」
「……?」
テオドアはますます訝しげに眉を寄せた。
*
翌朝、シエラが廊下を歩いていると、向こうからやってきた使用人たちがこちらに気づいて顔をほころばせた。
「奥様、おはようございます!」
「おはよう」
入れ替わるように、今度は年若い侍女が声をかけてきた。
「奥様、昨日も旦那様はよくお休みになられましたか?」
「ええ。昨日もぐっすりでしたよ」
「まあ! それはよかったです」
心から安堵したように笑って、その侍女も仕事へ戻っていく。
その背中を見送りながら、シエラは不思議そうに首を傾げた。
(なんだか最近、みんなすごく話しかけてくれるようになったわ)
「皆、奥様に感謝しているんですよ」
聞き慣れた声に振り返る。
そこには、いつもの穏やかな笑みを浮かべたアルバが立っていた。
「アルバ」
「今、少しお時間よろしいでしょうか」
そう尋ねられ、シエラは素直に頷いた。
連れて来られたのは、花の咲き誇る庭園の一角にある東屋だった。
柔らかな朝の光が降り注ぐ中、シエラが椅子へ腰を下ろすと、アルバは慣れた手つきで紅茶を淹れていく。
「どうぞ、奥様」
「ありがとう」
差し出されたカップへ口をつけてから、シエラは先ほどから気になっていたことを尋ねた。
「さっき、みんなが私に感謝してるって言ってたけど……どうして?」
アルバはティーポットを置き、庭園の向こうへ視線を向けた。
「この屋敷の者は皆、旦那様を慕っていますから」
「旦那様を?」
「ええ」
その視線の先では、何人もの使用人がそれぞれの仕事に励んでいる。
庭木の手入れをする者。洗濯物を運ぶ侍女。年配の使用人から仕事を教わる若者の姿もあった。
「ここには、他では働くことが難しかった者も少なくないんです。身寄りをなくした者や、身体に事情がある者。それに、以前の勤め先で居場所を失った者もいます」
その時、少し離れた庭園の端を、剪定ばさみを手にした老年の庭師が横切った。
片足を少し引きずっている。それでも、抱えた枝葉はきれいに切り揃えられていて、その仕事ぶりは丁寧だった。
シエラはその後ろ姿を見送り、ようやくアルバの言葉の意味を理解する。
「旦那様は、そういう事情だけで人を切り捨てたりしません。働く意思があるのなら、それぞれが働ける場所をきちんと用意してくださる方です」
その言葉を聞いて、シエラは先ほど廊下で出会った使用人たちの笑顔を思い出した。
(やっぱり旦那様って、優しい人なんだ)
「だから皆、旦那様には恩を感じています」
そこで、アルバの表情にふっと翳りが差した。
「けれど、不眠に苦しむ旦那様のことだけは、誰にもどうすることができませんでした」
シエラの脳裏に、以前のテオドアの姿が蘇った。
屋敷で顔を合わせるたび、いつもひどく疲れていた。ろくに眠れず、食事にもほとんど手をつけられない――そんな姿ばかりを見てきた。
「長い間、皆それを歯痒く思っていたんです。だから、奥様のおかげで旦那様が眠れるようになって……本当に喜んでいるんですよ」
「……そうだったの」
自分がここにいることで、喜んでくれる人がいる。
その事実が、シエラにはなんだかくすぐったかった。
そこでふと、ひとつの疑問が浮かぶ。
「そういえば……旦那様って、いつから眠れないの?」
問いかけた瞬間、アルバの表情が引き締まった。
「幼い頃からです」
「え……?」
「旦那様はこれまで、まともに眠れたことがほとんどありません」
シエラは思わず目を見開いた。
「ほとんど……?」
「ええ。身体が限界まで疲れ切って、ほんの短い間、意識を失う。それがあの方にとっての睡眠でした」
シエラは言葉を失った。
(そんな状態が、子どもの頃からずっと……?)
魔力の多い者ほど、不眠や頭痛といった不調に悩まされることがある。それ自体は、シエラも知っていた。
(でも旦那様は、初歩的な魔術しか使えないって……)
多くの場合、魔術の力量と、魔術量は比例する。
それなのに、どうしてここまで症状が重いのだろう。
「それって、やっぱり普通じゃないわよね」
シエラはカップを置き、アルバを見上げた。
「何か、原因があるの?」
アルバはすぐには答えなかった。
いつもの柔らかな笑みが、静かに消える。
「……旦那様には、少し事情が――」
「何をしている」
不意に背後から低い声が落ちてきた。
「わっ!」
振り返ると、庭園の向こうにテオドアが立っていた。
シエラを見たあと、その目が傍らのアルバへ移る。
「旦那様」
アルバが涼しい顔で一礼した。
テオドアは二人を交互に眺め、眉を寄せる。
「……随分、楽しそうだな」
「ええ。奥様とは、色々と積もる話がありまして」
「……何?」
低くなった声にも、アルバはまるで動じない。
何事もなかったかのように新しいカップを取り出し、紅茶を注いだ。
「ですが、僕はそろそろ戻らなくては」
淹れたばかりの紅茶をテーブルへ置く。
「旦那様、奥様。どうぞごゆっくり」
「え、アルバ?」
シエラが呼び止める間もなく、アルバはにこやかに一礼して立ち去ってしまった。
(行っちゃった)
テオドアはその背中をしばらく無言で見送っていた。
妙な沈黙が落ち、シエラは空いた椅子を手で示す。
「えーっと……よかったら、座ります?」
テオドアは一瞬迷ったあと、無言で向かいの席へ腰を下ろした。
けれど紅茶には手をつけず、ぶっきらぼうに尋ねる。
「……アルバと、何を話していたんだ」
「旦那様のことですよ?」
「……俺?」
意外だったのか、紫色の瞳が見開かれる。
「はい」
シエラが何の気なしに頷くと、テオドアはしばらく黙り込んだ。やがて、どこか落ち着かない様子で目を逸らす。
その反応の意味など分からないまま、シエラは楽しげに微笑んだ。
「そういえば、旦那様とこうしてお茶するの、初めてですね」
「……そうだな」




