【第3話】私の旦那様②
その日の夕食時、シエラは落ち着かない気持ちで長い食卓についていた。
向かい側には、テオドアがいる。
(旦那様と夕食なんて……初めてだわ)
結婚して半年になるというのに、こうして二人で食卓を囲むのはこれが初めてだった。
これまでシエラは人目を避けるように、ほとんどの食事を自室で済ませていたのだ。
何か話した方がいいのだろうか。
けれど、いざとなると何を話せばいいのか分からない。
迷っているあいだにも、テオドアは黙々と料理を口へ運んでいる。
とはいえ、その量は驚くほど少なかった。
「あの……お加減はいかがですか?」
思い切って声をかけると、テオドアの手が止まった。
「……アルバによれば、あれから数時間眠っていたらしい」
まだ納得しきれていないのか、眉間には薄く皺が寄っている。
それでも五日前より顔色がよく見えて、シエラはほっとした。
「よかったです!」
思わず笑うと、テオドアはなぜか視線を逸らした。
「……それと」
「はい?」
「先日は、悪かった」
シエラは目を瞬く。
「話も聞かず、君を閉じ込めた」
まさか謝られるとは思っていなかった。
傍らに控えていたアルバまで、ほんの少し眉を上げている。
シエラはしばらく呆気に取られていたが、やがて小さく笑った。
「これから信じてもらえれば、それでいいです」
テオドアの紫色の瞳が、僅かに見開かれる。
「……そうか」
それだけだった。
けれど、以前なら交わされることさえなかった言葉が、今はちゃんと自分へ返ってくる。
そのことが、シエラには少しだけ嬉しかった。
しばらくして、テオドアは食器を置いた。
シエラは思わず彼の皿へ目をやる。
まだ料理の大半が残ったままだ。
「もう召し上がらないんですか?」
「ああ」
それがいつものことだと言わんばかりの返事だった。
すると、傍らに控えていたアルバが慣れた様子で小さな容器を差し出す。
「それは?」
「お食事があまり進まない時に、こちらで栄養を補っていただいているんです」
テオドアは受け取ると、味わう様子もなく中身を飲み干した。
「旦那様は以前から、あまり量を召し上がれませんので」
シエラは残された料理と、向かいに座るテオドアを見比べる。
不眠は、食欲にまで影響しているらしい。
「君はゆっくりしていけ」
テオドアはそれだけ言うと、席を立った。
遠ざかっていく細い背中を見つめながら、シエラは膝の上で自分の両手を握る。
(まずは、ちゃんと眠れるようにしてあげなくちゃ)
ひと晩眠れただけでは、きっと足りない。
これまで眠れなかった時間を少しずつ取り戻すように。
何度だって、この手で。
*
それから、シエラは毎晩テオドアの部屋を訪れるようになった。
数日も経つ頃には、最初こそ渋っていたテオドアも、シエラが来ること自体にはすっかり慣れた様子だった。
「……本当に、今夜もやるのか」
そう言いながらも、テオドアはすでに寝台へ横になり、半ば諦めたようにシエラを見上げる。
「もちろんです」
「もう疑ってはいない」
「それとこれとは別です」
シエラは当然のように頭側へ座ると、施術の邪魔にならないよう袖を少しまくった。
「眠れずに苦しんでいる人を前にして、何もしないなんて、私のポリシーに反しますから!」
「……ぽりしー?」
「あ」
思わず前世の言葉が出てしまい、シエラは一瞬だけ固まった。
「ええと……信条、みたいなものです」
テオドアが小さく息を吐く。
「変な女だな」
「なんとでも言ってください」
シエラは気にした様子もなく笑い、黒髪へ両手を伸ばした。
「今夜も、極上の眠りをお届けしますね」
その夜から、シエラがテオドアを眠らせることは、少しずつ二人の日常になっていった。
仕事を終えて戻った夜には、当たり前のようにシエラが彼の頭へ手を伸ばした。
「今日はここ、ずいぶん凝ってますね」
「……仕事が立て込んだ」
「では、いつもより念入りにしましょう」
そんな夜を重ねるうちに、テオドアの側にも小さな変化が現れた。
以前ならされるがままに受けていたはずなのに、ある夜、シエラが手を伸ばすと――
「……頼む」
初めてそう言われて、シエラは思わず手を止めた。
「何だ」
「いえ。なんでもありません」
慌てて首を振ったものの、頬が緩むのは止められなかった。
ほんの少し前まで、触れることさえ警戒されていたのに。
今では、こうして当たり前のように自分へ身を預けてくれる。
その変化が、シエラには素直に嬉しかった。
そして、変わり始めたのは眠りだけではなかった。
*
「おはようございます、旦那様」
朝食の席についていたシエラが声をかけると、食堂の前を通りかかったテオドアが足を止めた。
「……おはよう」
返事が返ってくる。
ただそれだけのことなのに、シエラは思わず嬉しくなった。
(おはようって返してくれるようになった。大きな進歩だわ)
以前なら、こちらを一瞥して終わりだった。
そんなことを考えていると、アルバがいつもの栄養補助食品を持ってテオドアのそばへ寄る。
「旦那様」
「ああ」
テオドアは受け取りながら、シエラへ視線を向けた。
「俺は仕事へ行く。君は自由に過ごすといい」
そのまま立ち去ろうとする。
「……待ってください!」
シエラは慌てて椅子から立ち上がった。
「なんだ」
「今日は、一緒に朝食をとりましょう」
「必要ない」
「あります」
即答する。
「良質な睡眠はもちろんですけど、健康には食事だって大切なんですよ」
「食べられないものを無理に――」
「少しずつでいいんです」
シエラはずいと近づき、テオドアの顔を覗き込んだ。
こうして近くで見ると、頬はまだ細い。健康的とは到底言えなかった。
頬へぺたりと手を添える。
「お、おい……」
「顔色は前よりいいですけど、まだ痩せすぎです」
首筋へ指を添え、さらに身体の状態を確かめようと手を下ろしかける。
「それにこの辺りも――」
「……分かった!」
珍しく慌てた声が上がった。
テオドアはシエラから顔を背けるようにして、一歩だけ距離を取る。
「食べる。食べるから……離れろ」
その耳は、ほんのりと赤く染まっていた。
「本当ですか?」
「ああ」
「約束ですよ?」
「分かった」
念を押してから、シエラはようやく手を離した。
しばらくして、二人は向かい合って食卓についた。
テオドアの前には、胃に負担がかからないよう量を控えた朝食が並べられている。
彼はしばらく皿を見つめていたが、やがて諦めたように料理を口へ運んだ。
ひと口食べたところで、紫色の瞳が僅かに見開かれる。
それからもうひと口、今度は先ほどよりもためらいなく口へ運んだ。
「いかがですか?」
「……旨い」
たったひと言。
それでも、シエラには十分だった。
「よかった」
思わず笑みがこぼれる。
眠れるようになったことで、食欲も少しずつ戻ってきているのだろう。以前より顔色もいい。
(このまま、もっと元気になってくれたらいいな)
その願いは、思っていたよりも早く形になっていった。
*
そうして夜ごとテオドアを眠りへ導くうちに、二か月ほどが過ぎていた。
「す、すみません!」
執務室へ書類を運んできた使用人が、足をもつれさせて束を床へ落とした。
紙がばさばさと散らばり、使用人の顔からさっと血の気が引く。
「……気にするな」
「え……?」
恐る恐る顔を上げた使用人は、そこでぴたりと動きを止めた。
しばらく呆けたようにテオドアを見つめたあと、慌てて散らばった書類を拾い集める。
「し、失礼いたしました!」
一礼して執務室を出ると、扉を閉めたところで足を止めた。
「……本当に、旦那様なのか……?」
*
テオドアの帰りを待ちながら、シエラは玄関ホールに立っていた。
ほどなくして重い扉が開き、冷たい夜気とともに黒いローブを羽織ったテオドアが現れる。
一定の足取りで歩くその姿を見つめているうちに、シエラの脳裏に、初めて彼を目にした日のことが蘇った。
痩せ細った身体に、青白い顔。
目の下には濃い隈が落ち、瞳にもほとんど生気がなかった。
その異様な姿を畏れた人々は、彼をこう呼んだ。
――“屍人公爵”と。
「旦那様、お帰りなさい」
シエラが駆け寄ると、テオドアは足を止めた。
「……ああ」
そう返しながら、ローブの留め具へ手をかける。
重い布が肩から滑り落ちると、傍らに控えていたアルバがすぐさま受け取った。
シエラは、思わず息を呑んだ。
すらりと伸びた長身には、まだ細さが残っている。けれど、もう病的に痩せ細った印象はない。
頬や首元には少しずつ肉付きが戻り、まっすぐ伸びた背筋にも、以前にはなかった芯が感じられた。
艶を取り戻した黒髪が、動きに合わせてさらりと揺れる。
長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳は、澄んだ深紫を帯びていた。
すっと通った鼻梁に、端正な顔立ち。深い隈や青白さに隠されていた美貌が、今ははっきりと姿を現し始めている。
あの“屍人公爵”の面影は、もうほとんど残っていない。
長いあいだ疲労の影に覆い隠されていたものが、ようやく光の下へ姿を現したようだった。
テオドアがシエラへ視線を向ける。
その唇が、夜空に浮かぶ月のようなやわらかな弧を描いた。
「――ただいま」
テオドア・ミューゼル。
目の眩むような美しさを放つ――私の旦那様。




