【第3話】私の旦那様
翌朝、シエラは鏡の前に座り、久しぶりに自分の顔を真正面から見つめていた。
昨夜、勢いに任せて切り落とした前髪は、見事なくらい不揃いだった。短いところもあれば、まだ目元にかかるほど長く残っているところもある。
けれど、不思議と嫌な気分にはならなかった。
『醜い顔』
『顔を上げないで』
これまで何度となく浴びせられてきた言葉が、頭の奥に蘇る。
そのたびに前髪を伸ばした。
俯いて、誰とも目を合わせないようにして、自分の顔を隠してきた。
けれど今、鏡の中にいる自分を改めて見てみれば――。
(……なんだ)
シエラはぱちぱちと目を瞬かせた。
明るい緑色の瞳に、まだ少し幼さの残る柔らかな頬。亜麻色の髪は寝起きで乱れているし、前髪に至っては目も当てられない有様だ。
それでも。
(結構可愛いじゃない、私)
そんなことを考えたのは、生まれて初めてかもしれない。
おそるおそる口元を緩めてみると、鏡の中の少女も同じように笑った。
以前なら、それだけで恥ずかしくなって俯いていただろう。
けれど今日は、その顔から目を逸らさなかった。
(もう、隠れない)
シエラは自分の両手へ視線を落とす。
(この手で、今度こそ自分の未来を変えてみせる)
そう思ったところで、鏡に映った前髪が目に入り、シエラは少しだけ真顔になった。
「……その前に、これはどうにかしないとね」
裁ちばさみを手に取り、慎重に毛先を摘まむ。
右を少し切れば、今度は左が気になる。
左を揃えれば、中央だけ妙に長く見えてくる。
(あれ……?)
首を傾げながら、もう一度鋏を入れようとしたところで、背後の扉が開いた。
「奥様、朝のお支度を――」
声が途中で止まる。
振り向くと、朝の支度を手伝いに来たマリーが、目を見開いて固まっていた。
「あ」
「お、奥様!?」
マリーの視線が、シエラの手にある大きな裁ちばさみと、不揃いになった前髪のあいだを忙しく行き来する。
「あのね、マリー。これを少し整えてほしくて――」
そこまで言いかけて、シエラは口を止めた。
改めてマリーの顔を見る。
この屋敷へ嫁いできてから半年。
ずっと身の回りの世話をしてくれていたのに、自分はまともに彼女の顔を見ることさえなかった。
何より先に、伝えなければならないことがある。
シエラは裁ちばさみを置き、椅子から立ち上がった。
「今まで、ごめんなさい」
「えっ?」
突然頭を下げられ、マリーが慌てた声を上げる。
「ろくに顔も見ないで、ちゃんと話すこともしなくて」
「お、奥様!? 頭を上げてください!」
促され、シエラはゆっくりと顔を上げた。
マリーはまだ戸惑ったようにこちらを見つめている。
「私、変わることにしたの」
「変わる……?」
「うん」
昨日までの自分なら、こうして誰かの目をまっすぐ見ることすらできなかった。
それでも今は、不思議と逃げたいとは思わない。
「だから……これから改めて、よろしくね」
マリーはしばらく目を丸くしていた。
けれど、やがてその表情がふっとやわらぐ。
「……はい、奥様」
嬉しそうな笑顔を向けられ、シエラの胸まで温かくなった。
「それで、早速なんだけど……」
「はい」
シエラは自分の前髪を指差す。
「これ、整えてもらえる? ちょっと失敗しちゃったみたい」
マリーは一瞬きょとんとしたあと、ふっと表情を和らげた。
「もちろんです、奥様」
シエラが椅子へ座り直すと、マリーは櫛で髪を整えながら、慎重に前髪へ鋏を入れていく。
気になって途中で目を開けると、マリーが慌てて手を止めた。
「わっ、奥様。目を開けたら危ないですよ」
「ご、ごめんなさい!」
慌てて目を閉じたシエラに、マリーがくすっと笑う。
つられるようにシエラも笑って、二人は顔を見合わせた。
こんなふうに誰かと笑い合ったのは、いつ以来だろう。
鏡の中には、昨日までとは少し違う自分が映っていた。
前髪が短くなったからだけではない。
誰かと目を合わせて笑えるだけで、世界まで少し明るく見えた。
――ところが。
せっかく前を向こうと決めたシエラの生活は、その日から思いがけない形で停滞することになった。
*
「もう五日……」
窓辺で頬杖をつき、シエラは盛大なため息をついた。
マリーと話せるようになったのは嬉しい。
食事も運ばれてくるし、本も刺繍道具もある。退屈しないようにと、マリーなりに気遣ってくれていることも分かっていた。
けれど。
本当に、部屋から一歩も出してもらえない。
『申し訳ございません。旦那様より、奥様にはお部屋にいていただくようにと……』
初日に申し訳なさそうに告げてきたマリーの顔を思い出し、シエラはますます頬を膨らませた。
(まさか、本当に五日間も閉じ込めるなんて)
ヘッドスパをしただけなのに。
しかも、あれだけ気持ちよさそうに眠っていたのに。
「さすがに限界だわ」
シエラは勢いよく椅子から立ち上がって、扉を睨む。
(こうなったら、直接話すしかない)
見張りらしい見張りがいるわけではない。
マリーからも、くれぐれも出ないようにと言われているだけだ。
(少しくらいなら……)
シエラはそっと扉を開けた。
廊下へ顔を覗かせ、右を見る。
誰もいない。
左も見る。
やはり誰もいない。
そろりと一歩を踏み出す。
そのまま足音を忍ばせながら廊下を進んでいると、曲がり角から現れた若い使用人と鉢合わせた。
「お、奥様……!?」
「しー……っ」
シエラは慌てて人差し指を唇へ当てる。
何が起きているのか分からないまま、使用人も反射的に何度も頷いた。
「お願い。見なかったことにして」
「は、はい……」
「ありがとう!」
小声で礼を言い、また足早に先へ進む。
残された使用人は、遠ざかっていくシエラの背中を呆然と見送っていた。
「……奥様って、あんなに可愛らしい方だったのか……」
もちろん、その呟きはシエラの耳には届かなかった。
やがて辿り着いたのは、テオドアの執務室だった。
扉がわずかに開いている。
(いる……)
隙間からそっと中を覗くと、テオドアは机の向こうで腕を組み、目を閉じていた。
机の上には大量の書類が積まれているが、手は止まっている。
(……寝てる?)
「旦那様は起きてますよ」
「わっ!」
耳元で声がして、シエラはびくっと肩を跳ねさせた。
振り返ると、いつの間に来たのか、アルバがすぐ後ろに立っている。
「しー」
アルバは口元へ人差し指を当てた。
「旦那様がお気づきになります」
シエラはまだ早鐘を打つ胸を押さえながら、こくこくと頷いた。
アルバはそんな彼女を見て、どこか楽しそうに目を細めると、扉の隙間から執務室の中へ視線を戻した。
「旦那様は眠れませんからね。ああして目を閉じて、少しでも身体を休ませていらっしゃるんです」
「……眠ってないの?」
「ええ」
シエラはもう一度、室内を見る。
目を閉じてはいるものの、眉間には薄く皺が寄っている。
確かに、眠っている時とは表情がまるで違った。
「奥様のお部屋を出られてからは、まともにお休みになれていませんから」
アルバが何でもないことのように続ける。
「もう五日になりますか」
「五日……?」
シエラは思わず息を呑んだ。
あの夜以来、一度も。
「そんな……」
胸がざわつく。
そんなシエラを、アルバは細めた目の奥からじっと観察するように見つめていた。
「ところで奥様」
「なに?」
「先日は、どうやって旦那様を眠らせたんです?」
「どうやってって……ヘッドスパをしただけよ」
「ヘッド……?」
アルバが首を傾げるのを見て、シエラは言い直した。
「ええと、頭をほぐすマッサージのこと。本当にそれだけなの」
「なるほど」
アルバはすぐには答えなかった。
いつものように笑っているのに、なぜかその視線だけは妙に鋭く感じられる。
シエラが思わず姿勢を正したところで、アルバはようやく小さく頷いた。
「……分かりました。では、こうしましょう」
*
「これは、どういう状況だ」
低い声が執務室に響いた。
長椅子へ座らされたテオドアの背後には、やる気満々で両手を構えるシエラ。
そしてその隣には、なぜか涼しい顔をしたアルバが立っている。
「奥様がおっしゃる“ヘッドスパ”という施術を、もう一度実演していただこうかと」
「……なんだと?」
ぎろりとテオドアに睨みつけられても、アルバは全く動じない。
シエラはそこで、待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「もう一度旦那様を寝落ちさせることができたら、私の無実は証明されるんですよね?」
「おい、勝手に話を――」
「お願いします、旦那様」
シエラはまっすぐテオドアを見つめた。
テオドアも黙ったまま、その視線を受け止めている。
やがて、根負けしたように小さく息を吐いた。
「……一度だけだ」
シエラの顔がぱっと明るくなる。
「はい!」
テオドアは諦めたように息を吐き、長椅子へ身体を横たえた。
シエラはその頭側へ回り、黒髪へそっと両手を伸ばす。
今度こそ、疑いようのない形で証明してみせる。
「それでは旦那様――極上の眠りをお届けします」
最初こそ警戒するように目を開けていたテオドアだったが、シエラがいつものように頭をほぐしていくうちに、その表情は少しずつ穏やかになっていった。
眉間に残っていた皺が薄れ、張っていた肩からも力が抜けていく。
やがて瞼がゆっくりと閉じられ、それから三十分も経たないうちに、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
テオドアが眠ったことを確認したシエラは、そっと手を離した。
隣で見守っていたアルバが、ぱちぱちと小さく拍手する。
「いやあ。本当に寝落としちゃいましたね」
シエラは胸の前で両手を握り、ほっと息をついた。
「……よかった」
「ええ。疑って申し訳ありませんでした」
アルバは眠るテオドアへ視線を移し、しばらく呼吸や顔色を確かめるように見つめていた。
シエラがしたことといえば、本当に頭や首をほぐしただけだ。薬も道具も、もちろん魔術だって使っていない。
やがてアルバは小さく頷く。
「どうやら、奥様のおっしゃっていたことは本当のようですね」
「じゃあ……」
シエラが期待を込めて見上げると、アルバはいつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「旦那様にも、僕からお話ししておきます」
「本当?」
「ええ。これで、奥様をお部屋に留めておく理由もありませんから」
その言葉に、シエラの表情がぱっと明るくなる。
「ありがとう、アルバ!」
心から礼を告げると、アルバは少しだけ目を細めた。
そして、眠っているテオドアへ視線を移した。
しばらくその寝顔を見つめたあと、ぽつりと呟く。
「……これは、思っていた以上かもしれませんね」
「え?」
「いえ。こちらの話です」
首を傾げるシエラに、アルバはにこりと笑うばかりだった。




