【第2話】“神の手”で旦那様を寝落ちさせたら、軟禁されました②
(……あ)
自然とこぼれたその言葉に、シエラは懐かしさを覚えた。
(口癖って、そう簡単には変わらないのね)
前世でも、何度となく口にしていた言葉だった。
日本で暮らしていた頃、シエラはドライヘッドスパを専門とする店で働いていた。
不眠や慢性的な疲労に悩む人たちの頭へ触れ、その日の状態に合わせて凝りを探し、一つずつ丁寧にほぐしていく。
施術を始めれば、やがて相手の呼吸は深くなり、最後には誰もが眠りに落ちていった。
寝落ちさせることだけは、誰にも負けない自信があった。
『こんなに眠れたの、久しぶりです』
『あなた、本当に“神の手”ですね』
いつしか客からそう呼ばれるようになり、念願だった自分の店まで持つことができた。
けれどシエラが何より好きだったのは、疲れ切って訪れた人が、自分の手の下で安心して眠り、少しだけ明るい顔で帰っていく瞬間だった。
(そうそう。『何をしても眠れない』なんて言われるほど、燃えたのよね)
懐かしさに頬が緩む。
けれど、さらに記憶を辿ろうとした瞬間、胸の内へ冷たいものが差し込んだ。
店のことも、客たちのことも覚えている。
施術をしていた時の指先の感覚だって、今も鮮明に残っているのに。
(私……どうして死んだんだっけ)
そこだけは、濃い霧に覆われたように思い出せない。
ざわりと嫌な感覚が広がり、シエラはわずかに眉を寄せる。
それでも、今は思い出せないものを無理に追いかけても仕方がない。
目の前には、眠れずに苦しんでいる人がいるのだから。
(世界が変わっても、やることは同じよね)
改めてテオドアへ向き直ると、黒髪の上へそっと両手を伸ばした。
「では、失礼しますね」
そして指先が頭皮へ触れた、その瞬間――シエラは思わず目を見開いた。
(――かたっ……!)
硬い、などという言葉では足りない。
頭皮はほとんど動かず、こめかみから首筋までひどく強張っている。
まるで、石にでも触れているようだった。
(こんなの……前世でも触ったことない)
これまで不眠や慢性的な疲労に悩む客を、それこそ何人も担当してきた。
頭皮が硬い人も、首や肩がひどく凝り固まっている人も珍しくなかった。
それでも、ここまでの状態は記憶にない。
(間違いなく、過去一だわ……!)
それでも、触れているうちに前世の感覚が鮮やかに蘇ってくる。
(つまり……腕が鳴る!)
気づけば、シエラの口元には小さな笑みが浮かんでいた。
この硬さを、力任せにほぐしてはいけない。
シエラは呼吸や身体の反応を確かめながら、こめかみから耳の上、後頭部へと、硬く張った場所をひとつずつ丁寧に緩めていく。
最初のうち、テオドアの身体にはまだ強い緊張が残っていた。
横になっているというのに肩はわずかに持ち上がり、眉間にも薄く皺が寄っている。
(ずっと、こんなふうに力が抜けなかったのかな)
しかし続けていくうちに、持ち上がっていたテオドアの肩が少しずつ沈み、浅かった呼吸もゆっくりと深くなっていった。
「……どうして、君は……」
掠れた声に、シエラはそっと顔を覗き込んだ。
紫色の瞳はぼんやりとこちらを映している。いつもの鋭さはすっかり薄れ、その代わりに、戸惑うような色が浮かんでいた。
(……もしかして)
シエラはようやく気づいた。
テオドアは、眠気そのものに戸惑っているのだ。
ずっとまともに眠れずにいたのなら、意識がゆっくり遠のいていくこの感覚さえ、彼にとっては知らないものなのかもしれない。
「大丈夫ですよ」
シエラは手を止めず、安心させるように微笑んだ。
「ちゃんと、眠くなっているだけです」
「……これ、が……?」
「はい」
信じられないというように、テオドアの瞳が僅かに揺れる。
「怖くありません。何も考えず、そのまま目を閉じてください」
しばらく、テオドアはシエラを見つめていた。
けれどやがて、抗うように何度か瞬いた瞼が、ゆっくりと閉じていく。
シエラはそのまま、変わらないリズムで手を動かし続けた。
深くなった呼吸に合わせて指を移した、その時。
指先の奥で、ふっと何かがほどけるような感覚があった。
(……今の、何?)
凝りが緩んだ時とは少し違う気がした。
けれど、それはあまりにも一瞬で、すぐに分からなくなる。
ほどなくして、静かな寝室に規則正しい寝息が響き始めた。
「……旦那様?」
返事はない。
シエラはようやく手を止め、眠る横顔を見つめる。
「……寝た」
胸の奥から、じわじわと喜びが込み上げてくる。
薬も治療も効かなかった人を、自分の手で眠らせることができた。
(私にも、できることがある)
何の役にも立たないと思っていた自分の中にも、ちゃんと積み重ねてきたものが残っていた。
「今夜は、どうかいい夢を」
起こさないよう、そっと毛布をかける。
眠っているテオドアは、起きている時よりずっと穏やかだった。
険しさの消えた目元も、力の抜けた口元も、どこか幼く見える。
(案外、寝顔はあどけないのね)
そう思った途端、シエラにも大きな欠伸が出た。
安心したせいか、今度は自分の瞼まで急に重くなってくる。
(少しだけ……)
途中で目を覚ましたら、またほぐしてあげればいい。
そう思って寝台の端へ腕を預けたシエラの意識も、ほどなく静かに眠りへ沈んでいった。
*
カーテンの隙間から朝日が差し込み、テオドアは眩しさにゆっくりと目を開けた。
見慣れない天井をぼんやりと見上げながら、しばらくのあいだ、自分がどこにいるのか分からなかった。
けれど、窓辺を満たす白い光に気づいた瞬間、意識が急速に覚醒する。
(……朝?)
勢いよく身体を起こした。
昨夜、シエラの“ヘッドスパ”を受けたところまでは覚えている。
けれど、その先の記憶がない。気づけば朝だった。
(まさか……俺は、眠っていたのか?)
しかも、一度も目を覚まさずに。
こんなことは、一度だってなかった。
愕然としていると、身体の片側に妙な重みがかかっていることに気づく。
視線を落とし、テオドアは眉を寄せた。
シエラは寝台へ上半身を乗り上げたまま、テオドアの脇腹に半ばもたれかかるように眠っていた。
片腕まで無防備に彼の身体へ投げ出され、亜麻色の髪もすっかり乱れている。
どう見ても快適な寝姿とは言い難い。
「……何なんだ、これは」
呆れた声を漏らしながらも、なぜかすぐには視線を外せなかった。
昨夜、自ら切った前髪のおかげで、これまで隠されていたシエラの顔がよく見えた。
長い睫毛に柔らかな頬。眠っているせいか、どこか幼さの残る顔立ちだ。
(なぜ、これを隠していたんだ)
「ん……」
シエラが身じろぎし、テオドアははっと視線を逸らした。
(……何をしているんだ、俺は)
すると今度は、昨夜から今朝にかけて起きたことの異常さが、改めて意識に浮かび上がった。
自分は眠った。あれほど深く、何時間も。
薬でも、魔力調律でも叶わなかったことが、頭を揉まれただけで起きたというのか。
到底、納得できない。
テオドアは自分にかけられていた毛布を掴むと、そのまま強く引いた。
「きゃっ!?」
支えを失ったシエラが、寝台の縁からずるりと滑り落ちる。
「起きろ」
「はえ……?」
床へ座り込んだまま、シエラがぼんやりと顔を上げた。
髪は乱れ、まだ夢の中に片足を残しているような顔で何度か瞬きを繰り返す。
「え……朝……?」
やがて昨夜のことを思い出したのか、その表情がぱっと明るくなった。
「あ! 昨晩はよく眠れましたか?」
嬉しそうに尋ねてくるシエラへ、テオドアは無言のまま鋭い視線を向けた。
「……あれ?」
「俺に何をした」
笑顔がぴたりと固まる。
「何って……ヘッドスパです。頭を中心にほぐしました」
床に座ったまま、シエラは慌てて姿勢を正した。
「……魔力調律を使ったのか?」
「え? 使ってませんよ。そもそも私にはできません」
それはテオドアも分かっていた。
シエラの魔力量はごく僅かで、魔力調律の素質もない。昨夜も、彼女が魔術を使った気配など感じなかった。
「とにかく、俺に何をしたのか、すべて話せ」
「ですから、ヘッドスパです! ヘ・ッ・ド・ス・パ!」
「その程度で、俺があれほど深く眠れるわけがない」
まるで話が噛み合わない。
テオドアは額へ手を当て、深く息を吐いた。
「……話にならない」
これ以上ここで問答を続けても埒が明かないと判断し、扉へ顔を向ける。
「アルバ」
「はい、旦那様」
呼び終えるのとほとんど同時に返事があり、扉が開いた。
まるで待ち構えていたかのような早さに、床へ座ったままのシエラが目を丸くしている。
テオドアはそんな彼女を一瞥してから、アルバへ告げた。
「今から、この女を部屋から一歩も出すな」
「ええっ!?」
「俺に何をしたのか白状するまでだ」
「だから何もしてませんってば!」
背後から抗議の声が飛んできたが、テオドアは取り合わなかった。
そのまま部屋を出ようとしたところで、さらに大きな声が追いかけてくる。
「あんなに可愛くスヤスヤ寝ていたじゃないですか!」
足が止まった。
隣にいたアルバまで、ほんの僅かに目を見開く。
テオドアはゆっくりと振り返った。
その表情を見た瞬間、先ほどまで勢いよく反論していたシエラの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「……いいか」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「俺に何をしたのか話すまで、ここから出られると思うな」
「え、ちょっと待ってくださ――」
最後まで聞かず、テオドアは扉を閉めた。
しばらくのあいだ、向こう側はしんと静まり返る。
だが、数秒もしないうちに。
「旦那様のためにやったのに……どうしてこうなるのよー!」
シエラの嘆き声が、閉ざされた扉を突き抜けるように廊下まで響き渡った。




