【第2話】“神の手”で旦那様を寝落ちさせたら、軟禁されました
「私が、あなたを寝落ちさせてみせます」
静まり返った玄関ホールに、シエラの声だけがはっきりと響いた。
テオドアはしばらく何も言わなかった。
深い紫の瞳が、理解できないものを見るようにシエラへ向けられている。
「……一体、何を言っている?」
ようやく返ってきた言葉に、シエラはすっと背筋を伸ばした。
「今宵、旦那様を寝落ちさせてみせます、と」
「寝落ち……?」
「はい!」
テオドアの眉間に、ますます深い皺が刻まれる。
けれど、今のシエラにはその反応を気にする余裕などなかった。
十八年間、自分には何もないと思っていた。その手の中へ、失っていたものがようやく戻ってきたのだ。
「ですので今夜、必ず私の部屋へ来てくださいね!」
一方的に言い切ったところで、シエラはようやく、自分がまだ彼の腕の中にいたことに気づいた。
慌てて身体を離し、乱れたドレスの裾を整える。
「それと――助けてくださって、ありがとうございました!」
深く頭を下げると、そのまま踵を返した。
先ほどまで人目に怯えていたことなど忘れたように、亜麻色の髪を揺らしながら足早に立ち去っていった。
*
テオドアは、その背中が廊下の向こうへ消えてからもしばらく動かなかった。
「……あれは、誰だ?」
「奥様ですよ、旦那様」
すぐ後ろから返ってきた声に、テオドアがわずかに眉を寄せる。
振り返れば、いつの間に来たのか、側近のアルバが立っていた。淡い茶色の髪に、いつも細められた目。口元には、柔らかな笑みが浮かんでいる。
「分かっている」
テオドアは短く返すと、シエラが消えていった廊下の先へもう一度目を向けた。
「ただ――あんな女では、なかったはずだ」
「ええ。随分と雰囲気が変わられましたね」
アルバも同じ方角を見る。
「これまでは、ほとんど顔を上げることもありませんでしたから」
テオドアは何も答えず、そのまま自室へ向かって歩き出した。
アルバも慣れた様子で、その半歩後ろをついていく。
「それで、今夜は行かれるんですか?」
「行くわけがない」
「でも、今夜も眠れないでしょう?」
テオドアの足が止まった。
「奥様は随分と自信がおありでしたから。騙されたと思って、一度くらい試されては?」
『私が、あなたを寝落ちさせてみせます』
あれほど迷いのない目を向けられたのは、いつ以来だっただろう。
(……どうせ、何をしても無駄だ)
テオドアは答えず、しばらく廊下の先を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……一度だけだ」
アルバが目を瞬く。
「今夜、部屋へ行く」
すると、細められた目のまま、アルバの口元だけがわずかに緩んだ。
「承知しました」
その声音が妙に楽しげだったことには、気づかないふりをした。
*
その日の夜、シエラは何度も扉の方を気にしながら、自室でテオドアを待っていた。
本当に来てくれるのだろうか。そう思い始めた頃、控えめなノックの音が響く。
「失礼する」
聞き覚えのある低い声に、シエラはぱっと顔を上げた。
ほどなくして扉が開き、テオドアが姿を現す。
「お待ちしていました、旦那様!」
勢いよく迎えると、テオドアは一瞬だけ面食らったように足を止めた。
「さあ、こちらへどうぞ!」
せっかく来てくれたのだから、逃すわけにはいかない。
シエラは返事を待つより先に彼の背後へ回り込み、そのまま両手で背中を押した。
「お、おい。押すな」
「まあまあ、こちらへどうぞ」
「だから押すなと言って――」
抗議の途中で、テオドアの足が寝台の脚に引っかかった。
「……っ」
「きゃっ!」
押していたシエラまで巻き込まれ、二人揃って寝台へ倒れ込む。
柔らかな敷布が大きく沈み、思いがけず近い距離で顔を見合わせることになった。
青白い肌に、こけた頬。目の下には、昼間と変わらず濃い隈が落ちている。
前世の記憶を取り戻した今では、その姿はただ不気味なのではなく、長く眠れず疲れ切った人にしか見えなかった。
(それにしても……初歩的な魔術しか使えないのに、どうしてここまで?)
無意識に頬へ手を伸ばしかけた、その時だった。
ぱし、と乾いた音が響く。
「あ……」
触れる寸前で、テオドアに手を払われた。
彼はすぐに身体を起こすと、シエラから顔を背ける。
(いきなり触ろうとしたのは、失礼だったかしら……)
反省しかけたところへ、低い声が落ちた。
「……見るな」
「え?」
テオドアは顔を背けたまま、自嘲するように唇を歪める。
「一度見れば眠れなくなるほど、悍ましい顔らしいからな」
その言葉に、シエラの指が無意識に長い前髪へ触れた。
『醜い顔』
『私たちの前で顔を上げないでよ』
(……同じだ)
誰かに何度も否定され、いつしか自分までそれを信じてしまった。
シエラは寝台から降り、テオドアの正面へ回り込んだ。
再び逸らされそうになった顔を、今度は両手でそっと挟む。
「……っ」
長い黒髪の隙間で、紫色の瞳が驚いたように揺れた。
「“屍人公爵”なんて、誰かが勝手につけた呼び名でしょう?」
テオドアはわずかに目を見開く。
「だが、事実だ」
「違います」
シエラは迷わず言い切った。
改めて、正面から彼の顔を見る。
確かに痩せている。顔色も悪い。目の下の隈だって尋常ではない。
けれど、それだけだ。
「少し痩せすぎていて、顔色が悪くて、それから――ものすごーく寝不足なだけです!」
「……」
「だから、ちゃんと眠って元気になればいいんです」
にこりと笑うと、テオドアは一瞬だけ言葉を失ったようにシエラを見つめた。
「……随分、簡単に言ってくれるな」
やがて小さく息を吐き、シエラの手を顔から外す。
「そもそも、君も自分の顔を隠しているだろう」
「……え」
紫色の瞳が、シエラの長い前髪へ向けられた。
「人のことを言える立場か?」
胸の奥が、わずかに揺れた。
醜いから。見せるなと言われたから。
そうすることが当たり前になりすぎて、どうして自分が顔を隠しているのか、考えることさえなくなっていた。
けれど今のシエラには、もう一人分の人生の記憶がある。
人の目を恐れず、自分の腕に誇りを持って働いていた頃の自分。
(私……こんなふうに俯いてばかりじゃなかった)
視線を上げる。
寝台脇の棚に置かれた裁縫道具が目に入った。
シエラはその中から、大きな裁ちばさみを取り上げる。
「おい、何を――」
鈍く光る刃を開き、迷うことなく前髪へ差し入れる。
ざくり、と重い音を立てて、亜麻色の髪が床へ落ちた。
「な……」
額を覆い隠していた前髪が短くなり、長いあいだ隠してきた顔があらわになる。
胸は早鐘のように鳴っていた。
怖くないわけではない。今すぐ反射的に顔を隠したくなる。
それでもシエラは逃げなかった。
「これで、よく見えますか?」
ほんの少しの緊張を残しながら、笑ってみせる。
テオドアは何も言わなかった。
ただ、初めて見るもののようにシエラを見つめている。
「……一体、何が目的なんだ」
しばらくして返ってきたのは、警戒に満ちた問いだった。
「旦那様、ずっとまともに眠れていないんですよね」
テオドアは答えず、シエラをじっと見つめ返す。
「だから、私の得意なヘッドスパを受けてもらいます!」
「ヘッド……?」
「頭を中心にほぐすマッサージです」
(そっか。この世界じゃ、こういう施術はあまり馴染みがないんだ)
体調を整えるとなれば、薬や治癒魔術、それに魔力調律が頼りにされる世界だ。前世のような専門的なマッサージ技術は、ほとんど見かけない。
テオドアは胡乱げに目を細める。
「それで、“寝落ち”とやらができるというのか?」
「はい!」
「無駄だ」
間髪を入れずに返された。
「これまで、思いつく限りのことは試した。薬も、治療も……魔力調律さえ受けた」
テオドアは自嘲するように目を伏せる。
「それでも駄目だった。マッサージ程度でどうにかなるものじゃない」
その声音には、諦めとも確信ともつかない響きが滲んでいた。
けれど、シエラは怯まない。
「まあまあ、物は試しです」
寝台を手で示す。
「どうぞ」
「だが――」
「任せてください。どうぞ!」
「……」
「仰向けになってくださいね」
しばらく睨み合った末、先に折れたのはテオドアだった。
深いため息をつき、不本意そうに寝台へ横になる。
シエラはその頭側へ回り込み、両手をそっと構えた。
「極上の眠りをお届けしてみせますよ」




