【第1話】“屍人公爵”と呼ばれる旦那様。私が、あなたを寝落ちさせてみせます②
婚礼の日。大聖堂には、多くの貴族たちが集まっていた。
シエラは祭壇の前で、初めて夫となる男――テオドア・ミューゼルをまともに目にした。
(……噂通りの姿……)
黒い礼装の上からでも分かるほど身体は痩せ、肌は青白い。
長い黒髪の隙間から覗く頬もげっそりとこけていた。
それ以上見つめることができず、シエラはすぐに目を伏せた。
けれど、俯いたところで、周囲から注がれる視線が消えるわけではない。
これほど大勢の前に立つことなど、シエラにはほとんどなかった。
誰かと目が合えば、醜いと笑われる。そんな気がして、顔を上げることができない。
そんなシエラの耳に、参列者たちの囁きが届いた。
「……カーティス家が妹君ではなく、魔力調律のない姉君を出したということは」
「そちらなら惜しくない、とでも考えたのかしら」
くすり、と小さな笑い声が混じった。
(王家が期待していたのは、きっとエリザだった)
けれどエリザが嫌がったから、代わりにシエラが差し出された。
隣に立つテオドアは、シエラをほとんど見ようとしない。
(やっぱり……私が醜いから)
「それでは、誓いの言葉を」
神官の声に、シエラははっとする。
「……誓います」
「誓う」
二人の声が、静かな大聖堂に響いた。
その瞬間、シエラはカーティス家の娘ではなく、ミューゼル公爵夫人となった。
*
婚礼を終えた、その夜。
シエラは与えられた自室の寝台に腰掛けていた。
今日は婚礼の夜だ。夫婦になった以上、このあとテオドアが訪れることくらい、シエラにも分かっている。
これまで散々、醜いと言われてきた。
そんな自分を妻として迎えなければならなかった彼に、せめて不快な思いだけはさせたくない。
シエラは長い前髪へ触れ、顔が隠れていることを確かめた。
やがて、扉が控えめに叩かれる。
「入るぞ」
低い声のあと、静かに扉が開いた。
そこに立っていたのは、数時間前に夫となったばかりのテオドアだった。
「旦那様……」
シエラは慌てて立ち上がるものの、まともに顔を見ることはできない。
テオドアは少し離れたところで足を止めた。
沈黙が落ちた。何か言わなければと思うのに、緊張で喉がうまく動かない。
それでも、胸のどこかには小さな期待があった。
カーティス家を出て、今日からここで暮らしていく。
もしかすると今度こそ、自分にも居場所ができるのかもしれない。
そんな淡い思いを抱いた、その時だった。
「君に夫婦らしい関係を求めるつもりはない」
シエラは顔を上げかけて、止まった。
「……え?」
「形式上は夫婦だが、無理にそのように振る舞う必要はない」
テオドアは少し間を置き、淡々と続ける。
「互いに干渉せず暮らすのが、一番だろう」
胸にあった小さな期待が、静かにしぼんでいく。
「……承知しました」
どうにか、それだけを答えた。
カーティス家を出れば、何かが変わるのではないかと期待していた。
けれど場所が変わっても、結局同じなのだ。
(ここでも私は、望まれていないんだ)
シエラは長い前髪の向こうで、そっと唇を噛んだ。
それから、半年近くが過ぎた。
ミューゼル公爵邸での暮らしは、拍子抜けするほど穏やかだった。
食事を奪われることも、使用人に罵られることもない。
与えられた部屋はいつも綺麗に整えられ、シエラ付きの侍女となったマリーも、ごく当たり前のように彼女を「奥様」と呼んでくれる。
それでも、十年かけて染みついた恐怖は簡単には消えなかった。
人とすれ違えば俯き、視線を感じれば前髪がずれていないか不安になる。
結局シエラは、一日の大半を自室で過ごしていた。
仕事で屋敷を留守にすることの多いテオドアとも、ほとんど顔を合わせない。
夫婦というより、同じ屋敷に暮らす他人。
初夜に言われた通りだった。
*
その日、夕食を終えたシエラが自室で本を眺めていると、扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたマリーが頭を下げる。
「奥様。旦那様がお戻りになりました」
「……分かりました」
半年経っても、夫を前にすると何を話せばいいのか分からない。
それでも公爵夫人である以上、帰宅した夫を出迎えるくらいはしなければ。
シエラは鏡の前で前髪を整え、マリーとともに玄関ホールへ向かった。
使用人たちはすでに主人を迎えるため、玄関前に並んでいる。
シエラが二階から姿を現すと、何人かがこちらを見上げた。
ただ、それだけのこと。
それなのに、身体が強張る。
『醜い顔』
『私たちの前で顔を上げないで』
『暗くて気味が悪いわ』
かつて浴びせられた言葉が蘇った。
(お願い。私を見ないで)
その時、玄関扉が開く。
「おかえりなさいませ」
使用人たちが一斉に頭を下げた。
外から入ってきたのは、テオドアだった。
黒い外套を羽織っていても、その身体の細さは隠しきれず、足取りにも疲労が滲んでいる。
公爵夫人として、せめてきちんと迎えなければ。
そう思ったシエラは、慌てて階段を下り始めた。
けれど、その焦りが災いした。
靴先がドレスの裾を踏む。
「……っ」
身体が大きく傾き、踏み外した足が宙を切った。
(落ちる)
視界いっぱいに階段が迫る。
けれど、恐怖より先に浮かんだのは諦めだった。
(私、こんなにあっけなく死ぬんだ)
何もできなかった。
妻になって半年も経つのに、夫のために何ひとつできないまま。
結局、自分は最後まで――。
「――浮かべ」
低い声が、耳を打った。
次の瞬間、落ちていたはずの身体がぴたりと止まる。
「……え?」
足は階段にも床にも触れていない。
シエラの身体は宙に浮いたまま滑るように移動し、気づけばテオドアの腕の中へ抱き留められていた。
「……何をやっているんだ」
呆れたような声が、すぐ近くから落ちてくる。
シエラは答えることも忘れ、思わず顔を上げた。
結婚して半年。
こんなにも間近で、夫の顔を正面から見るのは初めてだった。
長い黒髪の隙間から、深い紫色の瞳がこちらを見下ろしている。
頬はこけ、肌も青白い。
けれどシエラの目を何より引きつけたのは、その目元だった。
(……ひどいクマ)
目の下には、まるで眠ることを忘れてしまったかのような濃い隈が広がっている。
それを見た瞬間、シエラの中で何かがざわめいた。
(これ……ただの寝不足じゃない)
長い間、まともに眠れていない人の顔。
こめかみから耳の上、首筋へ。気づけば視線が勝手に動いていた。
どこを見ても、ひどく強張っているように思える。
(ここを……ほぐしたい)
なぜそんなことを思うのか、自分でも分からない。
その瞬間。
頭の奥を、白い閃光が貫いた。
「……っ!」
見覚えのないはずの光景が、奔流のように押し寄せてくる。
知らない街。見たことのない服。
柔らかな明かりに包まれた、静かな部屋。
誰かの頭へ両手を添え、こめかみを押し、硬くなった頭皮をゆっくりとほぐしていく。
百会、風池、天柱、側頭筋――。
聞いたこともないはずの名前と、指先の感覚が次々と蘇った。
やがて相手の呼吸が深くなり、穏やかな寝息へ変わる。
『こんなに眠れたの、久しぶりです』
『あなた、本当に神の手ですね』
「……あ」
その言葉を向けられているのは――かつての自分だった。
ばらばらだった記憶が、ひとつにつながる。
日本という国で生きていたこと。
疲れ切った人たちの頭をほぐし、心と身体を癒す仕事をしていたこと。
前世の自分は――ヘッドスパニストだった。
シエラは、自分を抱き留めているテオドアを見上げた。
人々から畏れられる屍人公爵。
けれど今のシエラには、ただひどく疲れ、癒しを必要としている人にしか見えなかった。
魔力は少なく、魔力調律も使えない。
何の才能もなく、何の役にも立たないのだと、ずっと思っていた。
(でも……私にも、できることがある)
そう気づいた途端、考えるより先に身体が動いた。
シエラは両手を伸ばし、テオドアの頭へ触れる。
「な……っ」
突然のことに、テオドアが目を見開いた。
周囲の使用人たちからも、小さなどよめきが漏れる。
けれど、今のシエラには気にしている余裕などなかった。
黒髪へ指を差し入れ、こめかみへ触れる。
その瞬間、忘れていた感覚が鮮明に戻ってきた。
(できる)
十八年間失っていた自信が、指先から蘇る。
(私なら、この人を眠らせてあげられる)
「おい、一体何を……」
「旦那様」
「……なんだ」
シエラは顔を上げた。
長い前髪の隙間から覗く緑の瞳には、これまでになかった確かな光が宿っている。
「今夜、私の部屋に来てください」
「……は?」
玄関ホールが静まり返った。
けれどシエラは構わず、テオドアだけをまっすぐに見つめた。
「私が、あなたを寝落ちさせてみせます」




