【第1話】“屍人公爵”と呼ばれる旦那様。私が、あなたを寝落ちさせてみせます
夜の寝室には、窓から差し込む月明かりが淡く落ちていた。
寝台の縁に、一人の男が腰掛けている。
その向かいで、シエラは寝台の上に膝をつき、彼よりわずかに高い位置から両手を構えた。
「さあ、旦那様。寝落ちの準備はよろしいですか?」
その男――テオドアは、差し出された手へ静かに視線を落とした。
いつものようにその黒髪へ手を伸ばすも、指先が届くより先に手首を掴まれた。
「きゃっ……!」
ぐい、と引かれ、膝立ちだった身体が簡単にバランスを崩す。
そのまま背中から寝台へ倒れ込み、柔らかな敷布が身体を受け止めた。
目を開けば、すぐそこにテオドアの顔がある。
月明かりに照らされた端正な顔が、すぐ目の前にある。
深い紫の瞳に見つめられ、シエラの喉が小さく鳴った。
「だ、旦那様……?」
「今日は俺の番だ」
「え……?」
テオドアはシエラを見下ろしたまま、ほんの僅かに唇の端を上げた。
「今夜は――眠れなくていい」
「……っ!」
――あの頃の私は、こんな未来を想像すらしていなかった。
*
朝の食堂には、焼きたてのパンの香ばしい匂いが満ちていた。卵料理に肉、色鮮やかな果物まで並び、白い皿の上には惜しみなく料理が盛られている。
食卓を囲んでいるのは、カーティス家当主・アルベルトと、その妻ベアトリス。そして娘のエリザだった。
一方、同じくカーティス家の娘であるシエラは、少し離れた場所に立っていた。
彼女の前には皿もなければ椅子もない。まるで初めから、そこにシエラの席など存在しなかったかのように。
身にまとっているのは、何年も着古した色褪せたドレス。
長く伸びた亜麻色の前髪は俯いた顔へ落ち、そのほとんどを覆い隠していた。
昨夜から何も口にしていない。
温かな料理の匂いを吸い込むたび、空っぽの胃がきゅう、と縮む。
その時、くう、と小さな音が鳴った。
「あら」
楽しげな声に、シエラの肩が揺れる。
顔を上げなくても分かる。エリザだ。
「お腹が空いたの?」
シエラは答えなかった。
何を言っても、ろくなことにはならない。
やがて、小さなパンがひとつ床へ落とされた。
絨毯の上を転がり、シエラのつま先で止まる。
「ほら、恵んであげる。今日の食事よ」
シエラは何も言わず、ゆっくりと膝を折った。
「……いただきます」
指先がパンへ触れようとした、その時。
ざばりと、頭から冷たい水が降ってきた。
「……っ」
水が髪から頬、首筋を伝い、ドレスへ染み込んでいく。
思わず前髪を払おうとすると、エリザの声が一転して冷えた。
「ちょっと、やめてよ」
シエラの手が止まる。
「そんな醜い顔を見ながらじゃ、せっかくの食事が喉を通らないじゃない」
身体が小さく縮こまった。
「ああ、本当に忌々しい」
ベアトリスも露骨な嫌悪を浮かべる。
「あなたの顔を見ると、あの女を思い出すわ」
恐る恐る目を上げると、アルベルトと目が合った。
けれど父は何も言わず、何事もなかったかのように食事を続ける。
仕方がない。自分は醜く、何の取り柄もないのだから。
*
シエラが八歳の頃、病弱だった母が亡くなった。
母は身体が弱くても、シエラにはいつも優しかった。
体調のいい日には窓辺で亜麻色の髪を梳き、何度同じ本をせがんでも笑って読んでくれた。
「シエラの髪は、本当に綺麗ね」
そう言ってくれる母が、シエラは大好きだった。
母の胸元には、小さな花をかたどったブローチがいつも留められていた。
「これ、綺麗」
「じゃあいつか、シエラにあげるわ」
そんな穏やかな日々は、母の死とともに終わった。
喪が明けて間もなく、父は新しい妻を屋敷へ迎えた。
母との結婚以前から関係を持っていたベアトリスと、父との間に生まれた一歳下の娘・エリザだった。
エリザが欲しがれば、「代わりのものを買えばいいだろう」と、シエラの物は何でも譲らされた。
父はいつも、エリザの望みを優先した。
そして八歳で受けた魔力検査が、姉妹の扱いを決定的に分けた。
この国では、魔力の量や適性が人の評価を大きく左右する。
けれどシエラの魔力量は少なく、特別な適性も見つからなかった。
一方、エリザには《魔力調律》という希少な力があることが判明した。
乱れた魔力を一時的に整え、魔力過多に苦しむ者を楽にできる能力だという。
「素晴らしい。まさか我が家から魔力調律の使い手が出るとは」
父は、これまでシエラには一度も向けたことのない誇らしげな笑みを浮かべた。
「エリザ。お前はカーティス家の誇りだ」
嬉しそうに笑うエリザの頭を、アルベルトが撫でる。
その日を境に、父の中で姉妹の価値ははっきりと分かれた。
新しいものは、すべてエリザへ。
エリザがシエラのものを奪っていっても、代わりを与えられることさえなくなった。
それでも、一つだけ。どうしても手放したくないものがあった。
亡き母のブローチだった。
「返して……!」
ある日、エリザが勝手にそれを持ち出していた。
「それだけは……お母様の形見なの……!」
「でも、気に入ったんだもの」
必死で取り返そうとしていたところへ、アルベルトが通りかかる。
「お父様……!」
シエラは助けを求めた。
これまで何を奪われても我慢してきた。
けれど、これだけは母の形見だ。父だってそれを知っている。きっと分かってくれると思っていた。
しかしアルベルトはブローチを見て、何でもないことのように告げた。
「エリザが欲しがっているだろう。渡しなさい」
「……え」
父は足を止めることすらなく、そのまま通り過ぎていった。
遠ざかる背中を、呆然と見送る。
やがて、くす、と笑い声がした。
次の瞬間、胸を押され、シエラの身体が床へ倒れ込む。
小さな靴底が、その背中を踏みつけた。
「これで分かったでしょ?」
エリザは母のブローチを手にしたまま、シエラを見下ろしている。
「もうこの家に、お姉様のものなんて何ひとつないの」
そして、満面の笑みを浮かべた。
「ぜーんぶ、私のものなの♡」
その瞬間、シエラの中に残っていた何かが砕けた。
もう、自分を守ってくれる人はどこにもいない。
それから、シエラへの扱いはさらに酷くなった。
成長するほど亡き母に似ていくシエラを、ベアトリスは「醜い」と罵り、エリザもそれを真似した。
最初は違うと思っていた。
母はいつも、可愛いと言ってくれていたから。
けれど、何度も否定されるうちに、その記憶さえ信じられなくなった。
(お母様だけが、優しい嘘をついてくれていたのかもしれない)
やがてシエラは長い前髪で顔を隠し、食卓からも、本邸からも遠ざけられていった。
そんな日々の中で、一つだけ不思議なことがあった。
眠れていない人。頭や首を押さえている人。ひどく疲れている人。
そんな姿を見ると、なぜか「ここをほぐせば楽になる」と分かることがあった。
どうしてか、自分なら何かしてあげられるような気がすることがあった。
(……魔力調律も、できないくせに)
それでも時折、胸の奥に奇妙な空白を感じた。
――私の中から、大切な何かだけが抜け落ちているような。
その正体を知らないまま、シエラは十八歳になった。
シエラがアルベルトの書斎へ呼ばれたのは、朝食を終えて間もなくのことだった。
扉を開けて中へ入ると、アルベルトだけでなく、ベアトリスとエリザも揃っていた。
「この度、我がカーティス家はミューゼル公爵家との婚姻を結ぶことになった」
執務机の向こうから、アルベルトが淡々と告げた。
「ミューゼルって……“あの”屍人公爵の!?」
真っ先に声を上げたのはエリザだった。
ミューゼル公爵家は、およそ百年前、王国を滅亡の危機から救った大魔術師を祖に持つ名門だった。
初代当主ギデオン・ミューゼルは、国中を覆う巨大な浄化結界――《清浄の天蓋》を築き、瘴気や魔物の脅威から人々を守ったと伝えられている。
その功績によって公爵位を与えられたミューゼル家は、以降も数多くの優秀な魔術師を輩出してきた。
けれど、その華々しい歴史とは裏腹に、歴代当主の多くは心身を病み、若くして命を落としている。
中には正気を失い、自ら死を選んだ者までいたという。
そのため、偉大な魔術師の血筋でありながら、いつしか“呪われた家系”とも囁かれるようになった。
そして現当主であるテオドア・ミューゼルもまた、その噂を裏づけるかのような姿をしているという。
二十四歳という若さでありながら病的に痩せ、肌は血の気を失ったように青白い。
魔術師として認められてはいるものの、扱うのは初級魔術ばかりで、偉大な血を引く公爵としてはあまりにも頼りないと陰で嘲る者もいた。
いつしか彼についた蔑称が――《屍人公爵》だった。
「私は絶対に嫌よ! いくら公爵家だって、あんな死人みたいな男に嫁ぐなんて! 私まで呪われたらどうするのよ!?」
エリザは青ざめた顔で首を振った。
「私は魔力調律を持っているのよ? もっと相応しい殿方を選べるわ!」
「そうですわ」
ベアトリスも当然のように頷いた。
「エリザほどの才能を持つ娘ですもの。もっと将来のあるお相手との縁談に恵まれるはずです」
アルベルトはすぐには答えなかった。
今やエリザの魔力調律は、カーティス家にとって大きな価値を持つ。
父がその価値を手放したくないと考えていることくらい、シエラにも分かった。
しばしの沈黙のあと、アルベルトが静かに口を開く。
「……王家が求めているのは、あくまで“カーティス伯爵家の令嬢”だ」
その視線が、シエラへ向いた。
嫌な予感が、はっきりと形を持つ。
「シエラ」
「……はい」
「お前がミューゼル公爵へ嫁げ」
シエラは目を見開いた。
「私、が……?」
「異論は認めん」
答えは、それだけだった。
「ようやく、あなたもこの家の役に立てるわね」
ベアトリスが当然のように言う。
エリザも、ほっとしたように笑った。
「よかったじゃない、お姉様。公爵夫人になれるのよ?」
その声には、自分が嫁がずに済んだ安堵が滲んでいた。
「エリザの代わりになれるだけでも、ありがたいと思え」
これでは、まるで生贄だ。
誰もに求められるエリザを守るために、シエラがその身代わりとして差し出される。
けれど、それは今に始まったことではなかった。
エリザが欲しがったものを譲り、エリザが嫌がるものを引き受ける。
ずっと、そうして生きてきた。だから今回も、何も変わらない。
それと同時に、ごく小さな感情が芽生えていることに気づいた。
(……この家を、出られる)
誰もが恐れる屍人公爵との結婚だ。
その先に幸せな未来があるとは思えない。
それでも、ここではない場所へ行ける。
それだけが、希望とも呼べないほど淡い期待になった。




