夜明け
——それは、どこから入り込んだのか。
人の頭蓋を噛み砕く音が鮮明に聞こえて来るような、鋭さよりもその分厚さが目に付く、人類には致命たりうる牙。
—— こうならない為にと、冒険者ギルドの重鎮は連日対策を議論していた筈なのに。
その隙間から漏れて来た、湿度を帯びる生温い吐息が、頬をぬるりと撫ぜる。
鉄屑のような血の匂いと共に、刺激の強いつんとした酸味が、鼻腔を焼く。
——つまりは、失敗したのだろうか。この街の英雄と謳われたその人は……。
怪物の瞳は、確かに此方を向いていた。
音もなく絡みつくように、獲物を見付けた猛獣の目線が、真っ直ぐに。
捕食者の貌が、眼前に迫っているのだ。
死。
初めに連想した行く末は、なんとも残酷で、耐え難い。
数泊遅れて、身の毛のよだつ程の恐怖が足先からせり上がって、全身を支配した。
心臓が、壊れそうな速度で鐘を打つ。
上手く息が吸えない。身体の欲求に従って大きく吸っている筈なのに、それでも崩れ落ちてしまいそうになる程に肺が痛い。
鼓動の音が、耳の奥で暴れ狂う。世界にその音しかなくなってしまったのかと錯覚しそうだ。
膝に力が入らない。それどころか、平衡感覚がおかしい。
今、自分は立っているのか、それとももう倒れた後なのか。
果たして、今足元にあるそれが本当に地面なのか。それすらも分からない。
怖い。
目前に迫る絶望的な死の気配を前に、考えられるのは、それだけだった。
濃密な暴虐と、残虐な未来を幻視して、全てが真っ白に凍り付いてしまったのだ。
怖い。
圧倒的な暴力の気配が、ゆるりと、静かに迫って来ていた。
怖い。
逃げ出す頭など、恐怖に支配された思考に挟み込む余地は無かった。
ましてや……抵抗する発想は、微塵もなく。
のそり。
化け物が、その前脚を一歩前へ踏み出した。
素早さはなく、非常に緩慢な動きだが、酷く冷静に、逃げ道を塞ぐように動き出した。
飛び跳ねるように肩が上がる。その動きに理由はなく、ただ反射的に、身体を縮こませただけだった。
しかし、化け物の動きに合わせたかのように、左足が一歩下がる。
それを防ぐように、捕食者は右の前脚を僅かに広げた。
逃がすものかと、極めて冷静に追い詰めようとする意図が、ありありと理解出来た。
その絶望的な結末は、ものの数秒後に現実になる。
連想ではなく、確実に起こる未来として、死を覚悟した。
その後方から。
「ばか……カイ……逃げろ」
くぐもったうめき声のような、酷く頼りない声を聞いた。
聞いたことのない声だった。
いつもの、嬲るような、優越感と嗜虐を孕んだあの勝ち気な声が。
弱々しく、霞んで、空気に溶けてしまう位、薄い。
それが……どうしようもなく歯痒くて。
——いつの間にか、内側から全身を蹂躙していた筈の恐怖は消えていて。
深く、息を吸った。
視界が開けたように前が見える。
頼りなく笑っていたはずの膝が、任せろと気勢を吐いた。
力強く大地を踏み締められた。
拳を目一杯握る。
——ありふれんばかりの勇気が、胸を満たした。
逃げ出すつもりはなく。ましてや、とって食われるつもりも微塵もない。
カイと呼ばれた少年は、左足を一歩踏み出す。
守る為の、戦う為の、何よりも勇敢な、その勇ましい一歩を。
毎晩膝を抱えて震えていた、泣き虫の少年はもうどこにも居ない。
いつも足元を窺うように俯きながら歩いていた少年は、前を向いて捕食者と相対する。
守るのだ。
その為ならば、街を蹂躙せし化け物と戦うことを厭わない。
歯を食い縛りながら、腹の奥に力を込めて、立ち上がるのだ。
かくして英雄は立ち上がる。
幾たびも涙を流し、耐え忍び、嘲られ、傷つこうとも。
長く、永い、夜明けの時が。
目の前に、迫っていた。
——————
————
——
っかぁ!主人公!
っはぁ!主人公!
やってんねぇやっちゃってんねぇ。
超が付く程の主人公的展開を。
やっちゃってるねぇ少年。
確かに、主人公じゃーんて何度か思いましたがしかし、こんなにしっかり少年漫画チックな主人公をしてくるだなんて思いもしませんでしたわ。
上がるなぁ。
これだから、人間って面白くて大好きだ。
本当に、予想をしっかり超えて来てくれちゃうんだから。
まさか、こんなことになるとは、出会った時は想像すらしてなかった。
その出会いは、俺がこの街に来て5日目のこと。
そうそう、新人向けのパーティー研修。
その研修で、泣き虫の少年が居た訳なんだけどね。




