11.父親
「10年前までは本当に家族の関係は良好だったわ。私に魔術を教えてくれたのもお父さんだったの。」
アイリスが自分の過去について語り始める。その声には、懐かしさと同時に、何か深い悲しみが混じっているように感じられた。俺は黙って聞き続けた。
家族の仲が良さそうだったのは、あのクルドの机の上の写真を見て分かる。本当に幸せそうな写真だった。三人とも笑顔で、まるで光に包まれているかのようだった。その写真を思い出すと、今のアイリスの姿とのギャップに胸が痛む。
「父は私に魔術の基礎を教えてくれたの。毎晩寝る前に、父の膝の上に座って、マナの流れを感じる練習をしたわ。父の手は大きくて温かくて、安心感があったの。」
アイリスの目に、一瞬だけ懐かしさの色が浮かんだ。しかし、すぐにその色は消え、代わりに苦い表情が浮かぶ。
「それが、10年前に父が仕事を辞めてから急におかしくなったわ!お父さんは結構重要な研究を任されていたみたいだけど、途中で解任されちゃったの。」
そこまではロックさんの話と一緒だ。そして、そこからギャンブルを始めるんだよな。俺は黙って頷きながら、アイリスの話に耳を傾けた。
「仕事を辞めてギャンブルを始めてからの父は、もう毎日ギャンブルに打ち込んでいたわ。今までだったら休日は私と遊んでくれていたのに、まったく私たちなんて相手にしなくなった。」
アイリスの声が少し震える。それは怒りなのか、それとも悲しみなのか、俺には判断がつかなかった。
「それに、ギャンブルに勝っている日はいいけど、たまに負けている日なんてお母さんや私たちへの八つ当たりが酷かったの。暴力や罵倒の嵐よ!お母さんなんか顔にあざをつくることもあったの。それでも、お母さんは笑顔で許してあげていたわ!!」
アイリスの口調がどんどん激しくなる。やはり、未だに父親を許せない気持ちがあるのだろう。その怒りは、長年胸の奥に押し込められていたものが、一気に噴出しているようだった。
「最終的には、お父さんは浮気に走ったわ!!それを知ってお母さんが傷ついているのを見て見ぬふりして!もう家族のことなんてどうでもよくなったのよ!」
朝8時半の住宅街に悲しい叫びが響き渡る。近くを通りかかる住人は、痴話喧嘩でも見てるかのような視線をこっちに向け、歩いていく。俺は、その視線を感じながらも、アイリスの話に集中し続けた。
「それでも、お母さんは最後まで優しかったわ。私と二人きりになると、絶対にお父さんを恨んじゃダメ、私たちが恨んだら彼は本当に一人ぼっちになっちゃうって、そう笑顔で言っていたわ。そして、お父さんがどんなにカッコよかったか、結婚する前のこともよく聞かされたわね。」
お母さんの話をするとき、アイリスはとても優しい表情になる。お母さんのことが本当に好きだったんだろうな。その表情を見ていると、俺の心の中にも何か温かいものが広がっていくのを感じた。
「でも、そんな生活も限界だった。お父さんの横暴に耐えきれなくなったお母さんはストレスのせいで病気になってしまったわ。そして、病気を発症してから半月であっという間に亡くなってしまった。最期まで、ずっとお父さんの心配をしていたわ。それなのに…!」
アイリスはまた思い出したかのように怒りの表情を浮かべる。その怒りは、単なる憎しみではなく、深い悲しみと失望が混ざったものだった。
「お父さんは、お母さんが死んだとたん、もうそれは過去のことだと割り切っていたわ。私がお母さんの遺影の前で泣いていると、『いつまで死んだ人間のことなんか考えているんだ!』って怒られたわ。お母さんが、私が、どれだけお父さんのこと思っていたか知らないんだわ!!」
アイリスが思いっきり叫ぶ。その叫びには、長年抑え込んできた感情のすべてが込められているようだった。そして、一度深呼吸をした。自分の思いを吐き出して、少しスッキリしたのか、そこからは落ち着いて語ってくれた。
「そして、一週間前に突如失踪したわ。最初はどうして失踪したのかすら分からなかった。お父さんが借金をしていることを知ったのは、借金取りの話を聞いてからよ。借金の際に書いた住所には、通い詰めてた浮気相手の住所を書いたみたい。だからかしら、まだ私の家は特定されていないの。」
アイリスが努めて冷静に話す。まだ一週間前の出来事だ、きっとアイリス自身受け止めきれていないのだろう。その声の震えを聞いていると、俺の中にも何か切ないものが込み上げてきた。
「以上が私の知っている全てよ!私にとってのお父さんは裏切り者で、私たちを傷つける最低の男だったってこと!お母さんが話してくれた、お母さんを大好きなお父さんなんてどこかに消えてしまったみたい。男って簡単に心変わりするみたいね。そういうところが大嫌いなの。」
なるほどね、身近な男がそんな奴じゃ男嫌いにもなるわな。俺は黙って頷きながら、アイリスの言葉を受け止めた。
「だからね、ディックなんてわたし大嫌いよ!女を下心丸出しの目で見て最低の男だって思ってる。でもね、ディックがいなきゃ私何にも出来ないって分かっているの。だから、ディックを利用する。そんな私こそ本当は最低だって分かってるんだ。」
その気持ちは分からないでもない。嫌いなものに頼らなきゃいけない屈辱、自己嫌悪に陥る感覚、俺にも経験があった。だから、せめて少しでも慰めたい、そう思ってしまった。女なんか嫌いなはずなのにな。
朝の陽光が街路樹の葉を透かし、アイリスの髪を柔らかく照らしている。俺は思わず目を細めた。女なんて大嫌いなはずなのに、今のアイリスは何故か眩しく見えた。
「別にそんなことねーさ」俺は少し咳払いをして、視線をそらしながら言った。「人間一人じゃ何にも出来ないときもある。そういう時は嫌いな奴でも頼らなきゃいけない。でも、自分の大嫌いなディックを頼ることが出来たのはお前の強さなんじゃねーの?」
アイリスの瞳が大きく見開かれる。その瞳に朝日が反射して、まるで宝石のように輝いていた。
「え?強さ?」彼女の声には、明らかな困惑が混じっていた。
「ああ!」俺は少し声を荒げて言った。自分の気持ちを誤魔化すようにな。「自分の目的を果たそうとする意志の強さだよ!」
アイリスの表情が複雑に変化する。困惑、驚き、そして何か言いようのない感情。それらが交錯して、彼女の顔に浮かんでは消えていく。
「私の目的ね…」アイリスがタハハと自嘲気味に笑う。その笑い声には、苦さが混じっていた。まるで、自分の過去の行動を冷ややかに見つめているかのようだ。
「最初はさ、絶対にお父さん殺してやるって思ってたんだけどさ」アイリスは空を見上げながら言った。その目には、複雑な感情が宿っている。「ロックさんの話を聞いて分からなくなっちゃった。お父さんは私たちのためにギャンブルやってたんだよね」
彼女の声が震える。それは怒りなのか、悲しみなのか、俺には判断がつかなかった。
「そんなプレッシャーをお父さんにだけ抱えさせて、私は呑気に何やってたんだろって思ってさ。きっと、色々嫌なことが重なってお父さんに対して逆恨みしてただけなんだって気付いちゃった」
朝の鳥の鳴き声が、アイリスの言葉の間を縫うように聞こえてくる。その鳴き声が、どこか悲しげに感じられた。まるでアイリスの心情を代弁しているかのように。
「リクトもさ、私がお父さんを殺すの止めに来たんでしょ?」アイリスが俺をじっと見つめる。その目には、何か諦めたような色が浮かんでいた。「女嫌いのあなたからしたら、私なんて旅にいない方がいいもんね?いいわ、私旅に出るのやめる。下らない復讐なんかやめて、自分らしく生きることにするわ」
アイリスがサッパリとした声でそう言う。だが、その声の裏に隠された感情を、俺は見逃さなかった。彼女は必死に自分を納得させようとしているのだ。
俺は一瞬躊躇した。本来なら、ここでアイリスとの関係を断ち切れるはずだ。女性と一緒に旅なんて、気疲れするだけじゃないか。そう、頭ではわかっている。
だが、胸の奥で何かが疼いた。アイリスの姿が、どこか過去の自分と重なって見えた。孤独で、傷ついて、それでも必死に前を向こうとしている。
「一緒に旅に行こう」思わず、そんな言葉が口をついて出た。「そして、クルドさんを見つけ出そう」
「え!?」アイリスの驚きの声が、朝の静寂を破る。
俺自身、自分の言葉に驚いていた。こんなことを言うつもりはなかったはずなのに。だが、今更引き下がるわけにもいかない。
「仮にだぞ、仮に俺がお前だったら、まだクルドさんへの殺意は消えねーぜ」俺は言葉を続けた。「だって、あまりに自分勝手じゃねーか。勝手に家庭を背負って、勝手に暴れて。それに、家庭を背負っていることは浮気や暴力をしていい理由にはならねーよ。そんなんで浮気していいなら、世の中みんな浮気してるぜ!」
アイリスの表情が、驚きと困惑、そして何か希望のようなものが交錯する。
「そっか、確かにそうなのかもしれないわ」彼女は小さく呟いた。「でも、私どうしてもお父さんを恨みきれてない」
アイリスの声には、迷いと葛藤が混じっていた。その声を聞いていると、俺の中にも何か切ないものが込み上げてきた。
「まあ、お前はそれでいいのかもしれない。それがお前だ」俺は、できるだけ冷静を装って言った。「だが、殺さないにしても父親から話を聞いてみるっていうのは必要なことだ。本当に家庭を背負って戦っていたのか、その本音を聞いてみようぜ」
「でも、会うのが怖い」アイリスの声が震える。「もし、また暴力振るわれたりしたらどうしよう…」
アイリスの体が小刻みに震えているのが見えた。その姿を見ていると、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「大丈夫」俺は、自分でも驚くほど優しい声で言った。「そん時は…ディックが守ってくれるさ!」
「フフフ…、ハハハハ!」突然、アイリスが笑い出した。「あなたっておかしな人ね!」
アイリスの笑顔を見て、俺の中にも何か温かいものが広がっていった。
「おいおい、何がおかしいんだよ!」俺は少し照れ隠しに声を荒げた。「こっちは真面目に話しているんだぞ!」
「だって」アイリスは、まだ笑いを抑えきれない様子で言った。「普通こういう時男の人って、俺が守ってやるとか言うものじゃない!それをディックが守ってくれるって、完全に他人任せね!」
「馬鹿野郎!」俺は思わず声を上げた。「俺は喧嘩が弱いんだ!クルドさんに逆らったら土下座コースだぞ。それに、俺はディックと違って女のために身体なんか張らないんだよ!嫌いだからな!」
「女なんか嫌いだから、カッコつける気なんかさらさらないってことね!」アイリスの目が、楽しそうに輝いていた。
「そういうこった!」
「私も男なんか大嫌いだし、多分あんたのことも嫌いだわ」アイリスが真剣な顔で言う。「でも、あんたのそういうとこだけは嫌いじゃないわよ」
「そりゃあどーも!」
俺たちの会話が、朝の街に響く。周りを歩く人々が、少し奇異な目で俺たちを見ている。だが、そんなことは気にならなかった。
アイリスは笑顔から一転、いつもの凛とした表情に戻り訊ねてきた。
「それで、お父さんと会う方法と言うのは見当がついてるの?」
「ああ、それはだな…」俺は言いかけてやめた。「っとその前に!」
「なあ、今って何時だ?」
「え?」アイリスが少し首を傾げる。「8時45分だけど。どうして?」
「いや、そろそろディックが来る時間だ」俺は周りを見回しながら言った。「この話はディックのいる場ですることになっている」
「そういえば、そうね」アイリスが少し驚いたように言う。「すっかり忘れていたわ」
アイリスがまた笑う。その笑顔を見ていると、彼女の本来の姿はこうなのかもしれないと思った。明るく、人を惹きつける笑顔。
そんなことを考えていると、噂をすれば何とやらで、ディックがやってきた。アイリスが外にいるのを確認し、慌てて走ってくる。
「アイリスちゃーん、待たせちゃってごめん!」
ゼエゼエ言いながら、手を合わせて謝るディック。その姿を見て、俺は少し呆れながらも、どこか愛おしさも感じた。
「別に気にしていませんよ」アイリスが優しく微笑む。「リクトと楽しいお話が出来ましたし、ねえリクト?」
「え、ああ!」俺は慌てて答える。「そうだったな」
アイリスがディックをからかっているのは明らかだった。俺も適当に合わせてみる。
「何!」ディックの声が裏返る。「二人きりで会話だと!!おいリクト、俺のアイリスちゃんに手を出してないだろうな!?」
「さあ?」アイリスが意地悪そうに言う。「それはどうかしら?リクト、色々と楽しかったね!」
「おい」俺は少し焦って言った。「誤解を招く表現はやめろよ」
アイリスが珍しく調子に乗っているので、俺は軽く否定する。だが、ディックが注目したのは、俺らの会話の中身ではなかった。
「あれーー!!」ディックが大声で叫ぶ。「二人タメ口で話してんじゃん!え!?マジで俺だけ置いて仲良くなってる?ちょっと、アイリスちゃん、それはないよーー!!」
ディックが子供のようにゴネる。こうなるとめんどくせー奴だな。俺はアイリスに目配りをする。アイリスは呆れ顔で頷いた。
「いやー」アイリスが取り繕うように言う。「別にそこまでリクトと親しくなったわけじゃないんです。ただ、同い年って分かったからタメ語にしただけで。もし、良ければディックさんともタメ語がいいなー、なんて」
アイリスが苦笑いしながら取り繕う。すると、ディックは急に元気を取り戻す。
「全然あり!!」ディックの目が輝く。「俺にもタメ語使って!」
「分かったわ」アイリスが少し戸惑いながら言う。「ディックさん、じゃなくてディック!」
まだディック相手にタメ口は慣れないのか、しどろもどろに言う。その姿を見て、俺は思わず笑みがこぼれそうになった。
「よーし」ディックが勢いよく言う。「その調子で俺のこと好きになってもいいんだぜ?」
「残念ながらそれはないです!」アイリスがきっぱりと言い切る。
敬語じゃなくなったことで、一気に遠慮がなくなったな、こいつ。俺はそんなことを考えながら、二人のやり取りを見ていた。
「そんなことより」アイリスが真剣な表情に戻る。「私のお父さんの居場所についてよ。リクト、説明して!」
「そんなことよりって酷いよー!」ディックが泣き言を言っているが、もう誰も気にしていない。
俺は深呼吸をして、二人に向き直った。これから話すことは、俺たちの旅の行方を決める重要な情報だ。朝日が高く昇り、街全体が明るさを増している。新しい一日の始まりと共に、俺たちの冒険も新たな段階に入ろうとしていた。
「よし」俺は静かに、しかし確かな声で言った。「じゃあ、説明するぜ」
二人の視線が、俺に集中する。その瞬間、俺は不思議な高揚感を覚えた。これから始まる冒険への期待と、未知の世界への不安。それらが入り混じった複雑な感情が、俺の心を満たしていた。




