第5話 優しい顔は、近づいてくる
朝の光って、悪意ある。
昨日のこと全部なかったことにしてくる顔して、普通に差してくる。
私はコハク。狐の獣人。女。
尻尾は今日もピンクで封印。恥でしか自分を止められない。便利。終わり。
スマホが震える。
鳴ってないのに鳴ってる気がする。これが“慣れ”ってやつ。慣れたくない。
通知。
『おはよ。昨日はありがとう。無理させないからね。』
誰だよ。優しい彼氏かよ。
ユメカネの営業だよ。最悪。
私は即ブロックした。
……しただけ。
ブロックって、現実には効かない。知ってる。
1
昼。配送のバイト。
私は台車を押して、狭い通路を走る。段ボールの角が脛に当たる。痛い。痛いと生きてる感じする。嫌。
同僚が言う。
「コハクちゃん、今日機嫌わるくね?」
「いつも悪い」
「今日“特に”じゃね?」
「お前の顔が特にムカつく」
言ってから、ちょっと笑いそうになる。
笑うと負けるから笑わない。私は負けるけど、笑うのは嫌。
荷物を持って外に出た瞬間、視界の端に“見覚えのある優しい顔”が入る。
駅前のカフェの男。ユメカネ。
……は?
私の心臓が一回だけ変な音を出す。
パチ屋のコトンじゃない。もっと嫌なやつ。現実の音。
男はスマホをいじってるふりで、こっちを見てないふりをしてる。
その“見てない”が、いちばん見てる。
私は即、台車を方向転換する。
「は? 無理無理無理」
口が勝手に喋る。
私は逃げながら、怒ってる。怒ってると動ける。便利な感情。
角を曲がったところで、ハルに電話した。
コール一回で出る。こいつもこいつで怖い。
「はい」
「ハル。今。いる。来い」
「どこっすか」
「駅前。あの優しい顔。いる」
一秒の沈黙。
「……ユメカネ?」
「そう。いる。キモい。殺す」
「殺さないでください。困ります。そこ動かないで」
「動いてる。今めっちゃ動いてる」
「じゃあ人の多い方へ。コンビニとか」
「分かった」
私は駅前のコンビニに入る。
入った瞬間、冷房が冷たい。冷たいのに落ち着くの、腹立つ。
雑誌棚の前で、私は息を整える。
尻尾がピンクで良かった。揺れてるのが見える。最悪。個人情報が外部出力。
スマホが震える。
知らない番号。
出ない。
出ないけど、通知のプレビューだけ出る。
『今、見えた。がんばってるね。』
がんばってるね、じゃねぇよ。
見える距離にいるな。
“がんばってるね”って言葉、首輪の音がする。
私は舌打ちして、スマホを握りつぶしそうになる。
握りつぶしても借金は消えない。ムカつく。
2
五分後。
ハルがコンビニに入ってくる。フード。小柄。目が働きすぎ。
「狐さん」
私は即言う。
「いた。あいつ、いた。駅前。やばい。マジでやばい」
「落ち着いて」
「落ち着いたら死ぬ」
「死なない。……でも放置したら食われるっす」
食われる。
その言い方、分かりやすすぎてムカつく。
でも分かる。だからもっとムカつく。
ハルが言う。
「今日、何が一番怖いっすか」
私は即答。
「“優しい顔”で近づいてくること」
「うん」
「私がキレたら、私が悪者になること」
「うん」
「で、結局、私が謝る流れになること。死ぬほど嫌」
ハルがうなずく。
「じゃあ今日の作戦。狐さん、キレない」
「無理」
「無理でもやる。キレたら向こうの思う壺っす」
「ムカつく。お前の正論ムカつく」
「ムカつくのは分かる。でも今は、“勝ち方”の話っす」
勝ち方。
パチの勝ちじゃないやつ。現実の勝ち。苦い勝ち。
ハルはレシートの裏を出す。今日もそれ。小学生の持ち物チェック。
連絡は出ない(記録残す)
会う場所は選ぶ(人の多い場所)
口約束しない
「紹介」は二度としない
今日パチ屋に行かない(余計な弱りを作らない)
私は言う。
「最後だけ無理」
「最後が一番大事っす」
「パチ屋、私の安全地帯なんだけど」
「安全地帯に見えて、狩場っすよ」
「うるさい。分かってる。……分かってるけど、やめたくない」
ハルが私のピンク尻尾を見る。
「揺れてます」
「実況すんなって言った」
「確認っす」
「確認って言い方ムカつく」
ハルが軽く息を吐く。
「狐さん、今日一回だけ、ちゃんと“借金の人間”と向き合いましょう」
「向き合ったら、私が折れる」
「折れないように、俺がいるっす」
「友達じゃない」
「今それ言うの、やめてもらっていいっすか」
「ムカつく。はいはい、友達。今日だけ」
3
夕方。
私たちは駅前の交番の近くのベンチに座った。
交番の近くって、弱い自分の免罪符みたいで嫌。
でも嫌なことほど必要。人生、そういう仕様。
スマホがまた震える。
また知らない番号。
今度は、メッセージじゃなくて“写真”が送られてくる。
開きたくない。
でも開く。クズ。私はクズ。
写真。
私が今日働いてた倉庫の入口。
そして、私の背中。台車押してるところ。
私の喉が鳴る。
息が浅くなる。
浅い息は、負けの息。私は今、負けてる。
ハルが言う。
「……来たっすね」
「見たの?」
「狐さんの顔で分かる」
「ムカつく。人相占いめ」
ハルが低い声で言う。
「これ、脅しっすよ。“見てる”って」
私は言う。
「警察行く」
「行けるなら行きましょう。でも――」
「でも何」
「狐さん、“紹介”やったこと、向こうが握ってます。そこ掘られたら、狐さん、耐えられます?」
私は言う。
「耐えられない。だからキレてる」
ハルが頷く。
「じゃあキレる前に、選びましょう。狐さんが守りたいもの」
守りたいもの。
私の中に、そんなもの、まだ残ってる?
私は口が勝手に言った。
「……仕事」
ハルが言う。
「うん」
「仕事ないと、私、パチ屋に住む。マジで住む」
「うん」
「……それは、嫌」
“嫌”って言えた。
小さい。小さいけど、私にとっては革命。
そのとき、背後から声。
「コハクさん」
振り返る。
いた。優しい顔。ユメカネ。
距離感が近い。心の距離を無視する歩き方。
私は立ち上がりかけて、座り直す。
立つと負ける。今は立たない。ハルの作戦。ムカつくけど守る。
男が、にこっと笑う。
「今日はお仕事? えらいね」
私は歯を食いしばって言う。
「……用がないなら帰って」
男は帰らない。帰るわけない。
帰るって才能がいる。こいつには才能がある。悪い方向に。
「用、ありますよ。昨日言った“無理させない”の続き」
「無理させないなら、近づくな」
「近づかないと話せない」
「話したくない」
男は、困った顔をする。困った顔が上手い。
上手い顔は信用できない。
「コハクさん、怖がってる?」
私は即答する。
「怖いよ。お前が」
男が一瞬だけ目を細める。
優しさが薄くなる。中身が見える。やっと人間っぽい。キモい。
「そう言われると、悲しいな」
「悲しむな。勝手に」
ハルが横から、淡々と言う。
「要件、何ですか」
男はハルを見る。
「あなたは?」
「友達っす」
私は反射で言う。
「友達じゃない」
ハルが私を見る。
「……今それやめて」
「ムカつくけど、分かった」
男が笑う。
「仲いいね」
「仲良くない」
「仲良く見えるよ」
「見えるって言うな」
男はスマホを出す。今度は画面を見せてくる。
そこには私の送られた写真と、今日のメッセージのログ。
「ね。僕ら、乱暴なことしたくない。でも、コハクさんが黙ると困る人が出る」
「誰が困るの」
男は、優しい声で言う。
「……“次の人”がいないと、あなたの利息が上がる」
私は言う。
「それ、私が困るだけじゃん」
男が頷く。
「そう。だから僕は、コハクさんの味方だよ」
味方。
その言葉、地雷。
味方って言ってくるやつ、だいたい敵。経験上。
私は笑わないで言う。
「味方なら、私の仕事先まで来るな」
男は一瞬黙って、それから笑う。
「来てないよ。たまたま」
たまたま。
偶然を装うのが一番怖い。
偶然って言えば何でもできるから。
私は言う。
「……じゃあ今日、ハッキリ言う。紹介はしない」
男は優しく頷く。
「うん。分かった。じゃあ別の形で」
「別の形ってなに」
「返す形」
私は言う。
「金で返す」
男は、ちょっとだけ首をかしげる。残念そうに。
「金はもちろん。でも金だけだと、時間かかるよね」
「黙って。時間の話すんな」
「時間は優しいよ。ちゃんと利息で育つから」
私はキレそうになる。
でもキレたら負ける。私は、歯で止める。
ハルが、少し前に出て言う。
「脅しですね」
男は笑う。
「脅しじゃない。提案」
「提案って言う脅しですね」
男の笑顔が一瞬薄くなる。
よし。刺さってる。
男は私に戻って言う。
「コハクさん。今日、ひとつだけ決めよ。次の返済日」
返済日。
具体にされると、現実になる。現実は怖い。
でも現実にしないと、向こうの現実になる。
私は震える手でスマホを握って、言った。
「……今月末。必ず」
男は頷く。
「いいね。えらい」
「えらいって言うな」
「じゃあ、応援する。――また連絡するね」
そして男は、何でもないみたいに離れていく。
離れていく背中が、妙に軽い。
軽い背中ほど怖い。次も来るってことだから。
4
男が見えなくなってから、私は息を吐いた。
吐いた息が、やっと自分のものに戻る。
私は言う。
「……私、今、キレなかった」
ハルが言う。
「偉いっす」
「偉いって言うな!」
「すみません」
私は自分で笑いそうになって、やめた。
笑うと軽くなる。軽くなると戻る。戻ると溶ける。
……でも今日は。
私は駅前のパチ屋の看板を見る。
エヴァの爆音が聞こえる気がする。幻聴。最悪。
足が止まりかけて、止める。
「……行かない」
ハルが言う。
「勝ちっす」
私は言う。
「勝ちって、苦い」
「苦い勝ちが、本物っす」
私はピンク尻尾を引っ張って言った。
「……じゃあ今日の私は、本物のクズってこと?」
ハルが笑う。
「本物っす。でも、死なない方のクズ」
私は舌打ちして、歩き出した。
「……最悪」
最悪って言いながら歩けた日は、たぶんちょっとだけマシだ。




