第29話 職場の外は、島じゃない
朝の光って、いつも正しい顔をする。
正しい顔は信用できない。パチ屋で学んだ。
私はコハク。獣人の狐。女。尻尾は今日もピンクで封印。恥じゃない。警報。ムカつくけど。
スマホは、通知が鳴ってないのに鳴ってる気がする。
幻聴。
パチ屋だけじゃなく、現実でも幻聴が出るようになった。最悪。
でも今日は、最悪の種類が違う。最悪が「戻れ」じゃなくて「残せ」って言ってくる。
昨日の夜、ミツが私のスマホを預かったまま言った。
「朝になっても来てたら、もう“匂わせ”じゃなくて“行動”だ」
匂わせ。
行動。
その単語が喉の奥に引っかかって、今日の私は水を飲んでも取れない。
私は配送のバイトに向かう。
台車。段ボール。狭い通路。番号。
番号は嫌い。番号は現実。現実は痛い。
でも番号を見ないと、私は棚を間違える。棚を間違えるとクビになる。クビになるとパチ屋に住む。最悪。
だから今日も番号を見る。
ピッ、って音が鳴る。
その音が、脳のどこかでコトンに変換されかける。
変換される前に私は歯を食いしばる。
「ここ、島じゃない」
口に出した。
口に出すと、少しだけ止まる。言葉はたまに外力になる。無料だけど。
1
午前中は、何とか終わった。
何とか、って言葉は便利。便利な言葉ほど信用できない。
でも今日の何とかは、ちゃんと汗の匂いがする。汗は嘘つかない。ヤニと同じくらい正直。
休憩時間、倉庫の外の風がうまい。
うまい空気は泣きたくなるから嫌い。
私は泣かない。泣かないまま、うまい空気を吸う。吸えるってだけで勝ち扱いになる人生、ムカつくけど。
そのとき、視界の端に“優しい顔”が入る。
駅前のカフェの男。ユメカネ。
……は?
心臓が変な音を出す。
パチ屋のコトンじゃない。もっと嫌な現実の音。
私は反射で台車を握り直す。握り直す動きが、ハンドルに似てて吐きそうになる。
男はこっちを見てないふりをしてる。
でも“見てない”が、一番見てる。
そして、今日は仕事先だ。私の生活の中だ。島じゃない。逃げ場じゃない。
私は一歩下がりかけて、止める。
下がると負ける。
でも、止まるのは負けじゃない。止まって見るのは勝ちだ。今は。
男の手にはスマホ。
指が軽く動く。
すぐに私のポケットの中のスマホが震え……ない。今日は持ってない。ミツのところだ。
その代わり、ポケットの中の“体”が震える。
身体が通知になる。最悪。
私は、休憩所の陰に入って、ハルにメッセを送ろうとして気づく。
送れない。スマホがない。
ミツに預けたんだった。
外力に預けたのに、今だけ「返して」って思う。
返してって思うのは、私が弱いから。弱いから、首輪に戻る。
私は歯を食いしばって、代わりに紙に書く。
「ユメカネがいる。職場。見てる。」
書いた字が汚い。
汚い字は信用できる。取り繕えないから。
近くにいた同僚が、私の顔を見て言った。
「コハクちゃん、顔色やばいけど大丈夫?」
大丈夫。便利な嘘。
でも今日は嘘を薄くする日。
「大丈夫じゃない。でも作業はする」
言った瞬間、同僚の目が一回だけ止まる。
止まるの、嫌。
でも止まるのは私のせいじゃない。私の生活の匂いが出ただけ。
同僚は小さく頷いて言った。
「無理すんなよ」
無理するな。
優しい言葉。
ユメカネの優しさは首輪だけど、この人の優しさはただの空気みたいだ。
同じ「優しい」でも違う。違いが分かるの、悔しいくらい成長だ。
2
午後、私は作業を続ける。
番号。棚。箱。ピッ。ピッ。
ピッがコトンに変わりそうになるたびに、私は心の中で言う。
「ここは島じゃない」
繰り返し。
繰り返しは宗教になる。
パチ屋の繰り返しは私を溶かしたけど、この繰り返しは私を固める。固まるのは痛い。痛いけど必要。
それでも視線は刺さる。
刺さる視線は、羨望じゃない。監視。
監視は首輪の音がする。音がするから、私は音を欲しがる。最悪の循環。
休憩の終わり、私は倉庫の入口のガラス越しに外を見る。
ユメカネは、まだいる。
しかも、少しだけ近い。
近いのが嫌。
近いと、私の声が出る。声が出ると、私はキレる。キレると私が悪者になる。
悪者になると、謝る導線ができる。導線は首輪。
私は今日は、導線を切る。
私は責任者に言いに行く。
足が重い。重い足は現実の足。
パチ屋の足は軽くて曲がる。今日は重い方で歩く。重い方が勝ち。
責任者は前に私をクビにした人とは別の人だった。
でも“責任者の目”は同じ匂いがする。淡々としていて、仕事の目。優しさじゃない目。
私は言う。
「外に、知り合いじゃない人がずっといます。私を見てます」
言った瞬間、喉が冷える。
冷えると私は音を欲しがる。
でもここで欲しがっても音は出ない。だから現実に留まる。
責任者は眉をひそめる。
「誰?」
私は言う。
「分かりません。……でも、私に関係する人です」
関係。
関係って言葉は首輪みたいに重い。
でも今日は重い言葉を使う。重い言葉で守る日。
責任者は短く言った。
「分かった。いったん中入ってもらう。外に出ないで。休憩も中で」
中。
中は島じゃない。中は現実。
現実の中に避難するの、変な話だ。昔の私はパチ屋の中に避難してたのに。
責任者は続ける。
「必要なら、こっちで対応する。警察呼ぶかは状況」
警察。
その単語が出た瞬間、私の胸が少しだけ落ち着く。
落ち着くのが怖い。落ち着くと油断する。でも今日は落ち着いていい。落ち着くために動いたんだから。
私は小さく言った。
「……ありがとうございます」
礼を言えるの、珍しい。
ムカつく。私、人間やってる。
3
夕方。
仕事が終わって、私は倉庫の裏口から出た。
裏口の空気は少しだけ冷たい。冷たいと現実が戻る。現実は痛い。
でも痛い現実は、パチ屋の麻酔よりずっとマシだ。
私は周りを見る。
ユメカネがいるか確認してしまう。
確認してしまう自分が嫌。
でも確認は現実の行動だ。現実の行動なら勝ちに使える。
いた。
道路の向こうに。
もう隠してない。見てないふりもしない。
あの優しい顔の仮面を、仕事終わりの光の下で堂々と被ってる。
男が手を上げる。
軽い挨拶。軽い手。
軽い手ほど重いことをしてくる。最悪。
私は立ち止まる。
止まると、尻尾が揺れる。
ピンクの中で揺れる。警報が鳴る。
鳴ってるなら、鳴ってるって認めればいい。私はピンクを掴む。掴むと、揺れが少しだけ収まる。
男が近づく。距離が詰まる。
距離が詰まると、私は音を欲しがる。
でも今日は音じゃなく、言葉で止める。
「近づくな」
言えた。
言った瞬間、男の顔が一ミリだけ歪む。
優しい顔が、薄くなる。中身が見える。やっと人間っぽい。キモい。
「コハクさん、落ち着いて。怖がらせたくない」
出た。テンプレ。
怖がらせたくない。って言うやつは怖がらせる。
私はもう知ってる。
私は言う。
「ここ、私の職場。島じゃない」
男は一瞬黙って、それから笑う。
「島?なにそれ」
知らないふり。
知らないふりは知ってるふりより怖い。
でも今日は、知らないふりもログにする日。
私は深呼吸して言う。
「あなたがここにいること、残す」
男の眉が動く。
「残す?またそれ?誰かに言わされてる?」
孤立させる。
いつもの手癖。
でも今日は私は一人じゃない。今日は“外力”を持ってる。
背後から、ミツが来た。
タバコの匂いがする。正直な匂い。
ミツは笑わないで言う。
「お兄さん、仕事先まで来んの、普通にキモいよ」
ユメカネの顔が、さらに一ミリ歪む。
レンも来た。ゲーム機を首から下げたまま。目がでかい。
「これさ、デイリーじゃないよ。アウト判定」
アウト判定。
ムカつくけど、分かりやすい。猫の言葉は刃が太い。
ハルが最後に、影から出てくる。
「狐さん。スマホ」
ミツがスマホを返す。
手が震える。
震える手は、ハンドルを握る手じゃない。今日はスクショを押す手。
ユメカネは、まだ優しい声を作ろうとする。
「誤解だよ。心配で来ただけ」
心配。
心配って言うやつは支配する。
私は、もうその語彙を信用しない。
私は言った。
「心配なら、帰れ」
言えた。二回目。
ユメカネの“優しい顔”が、ここで切れる。
顔の筋肉が落ちる。
声が低くなる。
丁寧語が死ぬ。
「お前さ……」
お前。
来た。豹変の入口。
「俺がここまで来てやってんのに、何それ?」
来てやってる。
恩着せ。
優しさの仮面の裏にある本音。
やっと出た。出たなら、終わらせられる。出たら負けるのは向こうだ。
レンが小声で言う。
「録音」
ミツが言う。
「スクショじゃなく音も残せ」
ハルが言った。
「狐さん。押して」
私は録音を開始する。
開始のボタンを押した瞬間、私は少しだけ楽になる。
楽は危ない。でもこれは向こうの“楽”じゃない。私の“楽”。守るための楽。
ユメカネは続ける。
「相談?警察?笑える。そんなことできるタイプじゃねぇだろ」
またそれ。
できるタイプじゃない。
でも私は今、できてる。悔しい?悔しいならもっと言え。もっと自爆しろ。
私は返さない。煽らない。
ただ、目を逸らさない。
ユメカネが、舌打ちする。
優しい顔の人が舌打ちするの、気持ちいい。仮面が割れる音がする。
「……じゃあさ」
来た。「じゃあさ」は刃物の前置き。
「バイト先、もう一回行くわ。今度は中までな」
中まで。
胃が冷える。
冷えると私は音を欲しがる。
でも今日は、音じゃなく、録音を続ける。冷えを冷えのまま残す。
ミツが一歩前に出る。
「お兄さん、それ言ったら終わりだよ」
ユメカネは笑う。笑い方が軽い。軽い笑いは信用できない。
でもこの笑いは信用できる。負ける側の笑いだ。
「終わり?終わりはコハクが決めることじゃねぇよ」
支配。
出た。支配の語彙。
優しい顔は、最後は必ずこれを出す。
レンが小さく言う。
「うわ、典型」
ハルが、氷みたいな声で言った。
「今の、残りました」
ユメカネの目が、一瞬だけ泳ぐ。
泳ぐ目。
怖がってる目。
優しい顔の人が、初めて怖がってる。
気持ちいい。気持ちいいのに、私は笑わない。笑ったら尻尾が揺れる。尻尾はもう十分揺れてる。
ユメカネが、取り繕おうとする。
「いや、違う。そういう意味じゃ……」
遅い。
“そういう意味じゃない”は、意味そのものだ。
私は、短く言う。
「迎えに来るな」
昨日言えたやつ。今日も言える。
言えるってことが、私の勝ち。
ユメカネの顔が、完全に崩れる。
声が荒くなる。
語彙が落ちる。
「調子乗んなよ、マジで」
来た。捨て台詞の準備。
「お前さ、結局また戻るから。パチ屋。そういう顔してんだよ。俺は分かる」
分かる。
見てる。
またその支配の言葉。
私は、初めて少しだけ笑いそうになる。
笑いそうになるのを、歯で止める。
笑いは軽くなる。軽いと戻る。戻ると溶ける。私は溶けない。
私は言った。
「分かるなら、分かって。私は戻らない」
言った瞬間、胸が痛い。
痛い。現実の痛い。
痛いってことは、今ここにいる。
ユメカネは鼻で笑って、最後の刃を投げる。
「戻るよ。戻って泣く。で、また俺に縋る。そういう作りだろ」
作り。
人を機械みたいに言う。
そういうやつに、私は今まで機械みたいに扱われてきた。
でも今日は違う。
私は機械じゃない。
尻尾が揺れる。心臓が鳴る。怖いって言える。残せる。歩ける。
ミツが言う。
「それ、もう負け確の喋りだよ」
レンが言う。
「捨て台詞、ダサい。勝ってるやつは言わない」
ハルが言った。
「狐さん。帰りましょう。次は手続き」
手続き。
手続きって言葉が、音みたいに正しく聞こえる。
パチ屋の音よりずっと正しい。ムカつくほど。
ユメカネは、最後にもう一発吐く。
「いいよ。勝手にしろ。……でもさ、俺を敵にしたの、お前だからな」
責任転嫁。
最後まで自分が被害者の顔。
私は、振り返らずに言う。
「敵にしたんじゃない。最初から敵だった」
言えた。
言えた瞬間、私は少しだけ軽くなる。軽さが怖い。でも今日は軽くても曲がらない。今日は仲間がいる。外力がある。導線を切ってる。
私たちは歩き出す。
背中でユメカネが何か言ってる。
聞き取れない。聞き取れない声は、敗北の音に聞こえる。
パチ屋の爆音よりずっと静かで、ずっと気持ちいい。
駅前の看板が遠くなる。
光が遠くなる。
音が遠くなる。
遠くなると現実が濃くなる。現実は苦い。
でも苦いのに、今日は噛める。
私はピンク尻尾を握って言った。
「最悪。……でも今日は、職場を守れた」
ミツが言う。
「それ、でかい勝ち」
レンが言う。
「HP残った。次、進める」
ハルが言った。
「次で終わらせましょう。狐さん」
終わらせる。
その言葉が怖い。
終わると、空白が来る。空白は音を呼ぶ。
でも今日は怖いまま終わらせる。怖いまま勝つ。
コトン、って聞こえた気がした。
……幻聴。最悪。
でも私は振り返らなかった。




