第30話 手続きは、音より正しい
朝の通知って、鳴る前から喉を締める。
私はコハク。獣人の狐。女。
尻尾は今日もピンクで封印。恥じゃない。警報。取っ手。ムカつくけど。
スマホは、机の上に置いてある。
置いてあるだけで、手が軽くなる。軽い手は危ない。軽いと回す。軽いと返信する。軽いと戻る
だから、今日は“軽くしない”で置く。置いたままにする。置くのも手順。手順って、今日の私の勝ち方
ミツが朝からうちにいる。缶コーヒーの音がする。ヤニ臭い。最悪。
レンは床に座ってゲーム機をいじってる。猫は座り方が自由でムカつく。
ハルはいつものフードで、カーテンの隙間から外を見てる。見張りみたいで嫌。嫌だけど助かる。
「今日、来ると思う?」
私が言うと、ミツが鼻で笑う。
「来るか来ないかは知らん。でも“来れない形”にするんだろ」
来れない形。
それが、私が昨日から作ってる勝ち。
レンが言う。
「昨日ので“職場まで来た”ってログ増えた。今日ここで“家まで来る”になると重い。だから、今日で止める」
重い
重いって言葉、私は嫌いだった。
重いって言うと、自分が重いみたいで。重いと持てないみたいで。私は軽いほうが好きだった。
でも軽いって、パチ屋に連れていかれる軽さだった。
今日は、重い方で生きる。重い方が現実の足。
ハルが言った。
「狐さん。今日は“会わない”で終わらせます。会うと、相手の言葉が音になる。音になると、狐さんが負ける」
音。
ほんとにそう。あの優しい顔の声は、パチ屋の音と同じ作りをしてる。
優しく撫でて、気づいたら首輪を締める。
「じゃあどうする」
私が言うと、ハルはスマホを指で示した。
「短文だけ。しかも、最後。今日で終わりの文章」
終わりの文章。
書くだけで怖い。終わりって言葉は、空白を連れてくる。
空白が来ると、私は音を欲しがる。音が欲しくなると、戻る。
でも今日は、その空白の怖さごと、残す。
ミツが言った。
「言葉は無料だけど、今日の言葉は有料にしろ。送ったら、そのぶん行動で払え。返信しない。会わない。動く」
有料。
ムカつくのに分かりやすい。
私は頷いて、スマホを開く。
ユメカネの名前が画面にいるだけで、胃が冷える。
冷えると熱を欲しがる。熱は当たりで作れる気がする。
この導線、もう飽きるほど知ってる。
知ってるのに、体がまだ反応するのが最悪。
新着がある。
『昨日の、冗談だから。落ち着いて』
冗談。
冗談って言えば脅迫が薄まると思ってる。
薄めた言葉で、人を薄めて買うやつ。最悪。
『話そ。5分だけ。人多いとこでいい』
また5分。
また人多いとこ。
安全の型を逆手に取る。安全を“会話のレール”にする。
レールは楽。楽は危ない。
私はここで、いつもの私なら返信してる。
「無理」って返す。返した瞬間に会話が始まる。始まったら終わる。最悪。
でも今日は、返さない代わりに、終わらせる文だけ送る。
言葉を増やさない。会話にしない。主語を削る。余白を与えない。
私は打つ。
『今後、連絡も接触もやめてください。これ以上続くなら、対応を続けます。』
送信。
送った瞬間、背中が冷える。
冷えると熱が欲しくなる。
でも今日は、その冷えを“冷えのまま”持つ。逃げない。逃げないのが勝ち。
ミツが私の顔を覗き込む。
「顔、白い」
「白いのはいつも」
「いつもの白さじゃない。生きてる白さ」
生きてる白さ。
ムカつくけど、ちょっとだけ好きな言い方。
レンが言う。
「次来たらスクショ。来なかったら勝ち。どっちでも勝ち」
勝ち。
勝ちって言葉が、今日はパチ屋じゃなくて手順に繋がってる。
苦い勝ち。
でも苦いのが本物って、もう知ってる。ムカつくけど。
1
午前中。
私はバイトに行かない。今日は休みを取った。
休みって言葉、いつもなら罪悪感を呼ぶ。罪悪感は“取り返す”を呼ぶ。取り返すはパチ屋を呼ぶ。
だから休みは怖い。
でも今日は休みじゃない。
“手続きの日”だ。
私は昨日と同じ場所に行く。
交番の近く。相談の窓口みたいな場所。名前は出さなくていい。
大事なのは、ここが島じゃないってこと。
ここには爆音がない。光がない。可能性の顔がない。
代わりに、淡々とした椅子と、淡々とした目がある。信用できる種類の淡々。
担当の人が、同じ声で言う。
「その後、相手から連絡はありましたか」
私はスマホを出して、見せる。
昨日の“職場に行く”の匂わせ。
今日の“冗談だから”の取り繕い。
さっき送った“やめてください”。
全部、並べる。並べると、私の人生が私の外に出る。
外に出るのが怖い。
でも外に出さないと、相手の中で勝手に育つ。利息みたいに。
育つ前に、外に出して冷やす。冷やすのが手順。
担当の人が頷く。
「相手に直接会うのは避けてください。連絡は残して、返信は最小限。状況によっては――」
状況によっては。
可能性。
可能性って言葉、ここでは守りの可能性だ。
私は一回だけ、ちゃんと聞く。
「これ、止められますか」
止められる。
止められないのが人生だって思ってた。
パチ屋も借金も優しい顔も、止められないと思ってた。
止められないって思った瞬間に、私は回してた。
担当の人は、淡々と答える。
「止められる可能性はあります。あなたが“残して、続ける”なら」
残して、続ける。
続ける。
続けるって言葉、パチ屋の続けると同じ形をしてるのに、意味が逆だ。
パチ屋は続けるほど沈む。
こっちは続けるほど浮く。変な世界。
私は頷く。
頷きながら、尻尾が揺れる。ピンクの中で揺れる。警報。
揺れてもいい。揺れても戻らない。今日はそれをする。
2
外に出る。空気がうまい。うまい空気は泣きたくなるから嫌い。
私は泣かない。でも喉の奥が痛い。痛いと生きてる感じがする。嫌いだけど便利。
ミツが缶コーヒーを振って言う。
「どうだった」
「止められる“可能性”」
「可能性って単語、嫌いそう」
「嫌い。でも今日は嫌いを使う」
レンが言う。
「嫌いな道具を使えるの、成長」
成長って言葉も嫌いだ。
成長って言葉は“また頑張れ”って顔をするから。
でも今日は、頑張れじゃない。守れ、の成長。
ハルが、スマホを見て言う。
「来ました」
来た。
来たって言われただけで、体温が落ちる。
落ちる体温が、パチ屋の空気を思い出させる。
“深呼吸するな”って脳内の看板が出る。
でもここは外。深呼吸していい。
私は息を吸って、画面を見る。
『お前、マジでやる気?』
短い。丁寧語がない。優しい顔がない。
仮面が削れてる。削れてるほど、言葉が雑で怖い。
でも怖いほど、証拠として強い。最悪が、武器になる。変な話。
続けて来る。
『調子乗んな』
『誰に吹き込まれた?』
『昨日、あの場で俺のこと録ってたよな?』
録ってたよな。
自分で言う。
見てる。追ってる。録音を気にしてる。
全部、向こうの口から出てくる。
出てきた瞬間、首輪じゃなくなる。証拠になる。
“残す”って、こういうこと。
ミツが言う。
「返信すんなよ」
「分かってる」
「分かってない顔」
「分かってる顔って、どんな顔」
「ムカつく顔だよ。今みたいな」
ムカつく顔。
ムカつくってことは効いてる。
効いてるってことは、私がまだここにいる。溶けてない。
ムカつくほど、今日は正しい。
レンが言う。
「スクショ、追加。連投は“焦り”だから、ログとして美味しい」
美味しいって言うな。
でも、確かに。焦りはミスを呼ぶ。ミスは自爆を呼ぶ。
この男の“優しい顔”は、ミスしない顔だった。
ミスしないから怖かった。
でも今は焦ってる。焦ってるなら、勝てる。手順で。
ハルが言った。
「狐さん。最後に一回だけ送れます。会話じゃないやつ。返さないと、向こうは“繋がってる”って思い続ける」
繋がってる。
繋がってるって感覚が一番危ない。
繋がってると、私は“戻ってもいい”って思う。
戻る理由ができる。理由は無料。無料ほど強い。最悪。
私はスマホを握る。
震える。震える手はハンドルを握る手に似てる。
でも今日は違う。震える手で、終わらせる文を打つ。
『これ以上は記録になります。以後、連絡しないでください。』
送信。
これで終わり。これ以上は返さない。
返さないって、無料の言葉を有料にする。行動で払う。
3
夕方。
帰り道、駅前を避ける。導線を切る。
駅前は看板がある。看板は優しい顔で近づいてくる。
優しいものほど距離を詰める。ユメカネも同じ。
だから、今日は遠回りを選ぶ。遠回りが勝ちになる日。
路地。
光が減る。音が減る。減ると現実が増える。現実は苦い。
でも苦いのに、今日は噛める。
スマホが震える。
私は見ない。見ないで歩く。
見ないのが怖い。怖いと確認したくなる。確認は戻る導線。
でも今日は確認しない。代わりに、ミツに言う。
「見て」
ミツが見て、鼻で笑う。
「捨て台詞だ」
捨て台詞。
悪役の断末魔。
聞きたい。聞きたいけど、読むと心が動く。動くと尻尾が揺れる。揺れると戻る。
でも今日は、読む。読むのは戻るためじゃない。残すため。
画面。
『いいよ。勝手にしろ』
ここで終わればまだ“強がり”で済むのに、こいつは終わらない。
『でもさ』
でもさ、は刃物の前置き。
『お前、結局またパチ屋戻るだろ。そういう顔してんだよ』
ムカつく。
当たってるからムカつく。
当たってるってことは、見てる。見てるってことは、支配してる。
支配してるやつの言葉は、音みたいに頭に残る。
残るのが嫌。
でも今日は、残るのを“私の武器”にする。
さらに来る。
『そのとき、俺が先に迎えに行くから』
迎え。
また迎え。
優しい顔の言葉で首輪を投げるやつ。
最後に、もう一発。
『泣いても知らねぇからな。お前が選んだんだぞ』
責任転嫁。
最後までそれ。
自分は“優しい顔”のまま、相手に罪悪感を渡して終わらせる。
それがいつもの勝ち方。
でも今日は、その勝ち方が通じない。ログが残る。手続きが残る。私は返信しない。
レンが言う。
「“泣いても知らねぇ”は、勝ってるやつの言葉じゃない。負けるやつの逃げ言葉」
ミツが言う。
「ダサ。安物の優しさ、最後まで安物」
ハルが言った。
「狐さん。これで、終われます」
終われる。
終わるのが怖い。
終わったら空白が来る。空白は音を呼ぶ。音は看板を呼ぶ。看板はドアを開ける。
でも今日は、空白の怖さごと勝つ。怖いまま歩く。揺れながらでも戻らない。
4
夜。
部屋に戻る。静か。静かって怖い。
静かだと心臓の音がうるさい。うるさい心臓は「戻れ」って言う。
でも今日は心臓に言い返す。
「戻らない」
言った。
言葉は無料。
でも今日は有料。言ったら、歩く。歩いて水を飲む。窓を開ける。呼吸をする。
行動で払う。
スマホは机の上で、静かだ。
静かなスマホが、勝ちの形に見える。
ミツが玄関で靴を履きながら言う。
「明日も来るかもしれん。でも来ても、お前は返信しない。それだけ」
レンが言う。
「返信しない=HP守る。パチ屋に行かない=MP守る。手順=バフ」
ハルが言った。
「狐さん。勝ち方、できました。あとは反復」
反復。
反復って言葉、怖い。
反復は私をパチ屋に連れていった。
でも反復は私を守ることもできる。
反復の中身を変える。音じゃなくて手順にする。
それが今日の終わり方。
みんなが帰って、部屋が静かになる。
静かすぎて、幻聴が来る。
コトン。
あの音。
玉が落ちる音。
可能性が優しい顔をする音。
私は一瞬だけ、足が動きかける。
でも止める。止められる。
止められたのが、今日の勝ち。
私はピンク尻尾を握る。
相変わらず情けない色。百均。恥。警報。
でも今日は、その情けなさが私を守ってる。
勝ってる顔じゃない。生き延びた顔。
スマホは震えない。
震えない沈黙が、向こうの敗北の音に聞こえる。
パチ屋の爆音じゃない。
もっと鈍くて、現実っぽい音。
私は言った。
「最悪。――でも、今日は私の勝ち方だった」
コトン、って聞こえた気がした。
……でも私は振り返らなかった。
翌朝
朝の空気って、昨日の勝ちを忘れさせようとする。
勝ちって、パチ屋だと“たまたま”で消える。現実だと“反復”しないと消える。どっちもムカつく。
私はコハク。獣人の狐。女。
尻尾は今日もピンク。封印。警報。取っ手。ムカつくけど。
目が覚めて最初にやることは、スマホを見ることじゃない。
水を飲む。顔を洗う。窓を開ける。息を吸う。
息を吸うのが、ちゃんと痛い。痛いってことは、ここが現実だってこと。
机の上のスマホは、まだ静かだった。
静かすぎて怖い。怖いから確認したくなる。確認したくなるから、私は自分に言う。
「確認はあと。順番」
順番。手順。
手順って言葉を、私はずっとパチ屋に奪われてた。
釘を見る、最初の五分、千円縛り。全部、負けないための手順のつもりで、結局負けるための儀式だった。
でも今日の手順は違う。
負けないための手順じゃない。戻らないための手順。
私はノートを開く。レンが「数値化しろ」って言ってたやつ。
嫌い。数字。現実。
でも数字が嫌いだから、私は曖昧にしてきた。曖昧にしたら、向こうの言葉が入ってきた。利息みたいに育った。
だから今日は、数字で殺す。
借金:だいたい四万。→「だいたい」を消す。
紹介:一回。→「一回だけ」を消す。
連絡:何回。→「多い」を消す。
「多い」「たぶん」「少しだけ」——全部、私を殺す無料の言葉。
私は書く。
連絡:〇月〇日〜(スクショ番号)
脅迫文面:「バイト先、また行くわ」「迎えに行く」
会ってない:〇日連続
返信してない:〇日連続
近づかない場所:駅前(導線)
書いた瞬間、胸が苦くなる。
苦い。勝ちって苦い。
でも苦い勝ちは、本物だって言われた。ムカつくけど、昨日から私はそれを信じてる。
玄関の外で、ミツが咳をした。
昨日の夜、合鍵でも渡したっけ、ってくらい当たり前にいる。ヤニ臭い。最悪。
でもこのヤニ臭さは、ユメカネの優しい匂いより信用できる。
「起きた?」
「起きた」
「来てる?」
「まだ静か」
ミツが缶コーヒーを開けて言う。
「静かってのは、“終わった”じゃない。相手が息してるだけだ。だからお前も息しろ」
ムカつく。正しい。
正しい言葉って、だいたい痛い。
そのとき、スマホが震えた。
心臓が先に跳ねる。体が通知になる。最悪。
私は反射で掴みそうになって、止める。
「……順番」
ミツがスマホを指でスッと押さえる。外力。
レンの声がスピーカーみたいに頭に浮かぶ。
“返信しない=HP守る”。
ハルの声も浮かぶ。
“会話にしない”。
アオイの声も。
“返すと向こうのビートになる”。
私はスマホを見ないまま言った。
「読んで」
ミツが画面を覗いて、鼻で笑う。
「はいはい。来た」
来た。
来たって言葉だけで、胃が冷える。冷えると熱を欲しがる。熱は音。音はドア。ドアは島。
最悪の導線が、脳内で勝手に点灯する。
でも今日は、点灯したまま歩く。
点灯したのを“なかったこと”にしない。
点灯したこと自体をログにする。
ミツが読む。わざと平坦に。
『おはよ。昨日のは言い過ぎた。誤解だ。』
誤解。逃げ道。
『話せば分かる。落ち着け。』
落ち着け。命令。
『俺を敵にすんな。お前が損するだけ。』
損。脅しの言い換え。
私は笑いそうになる。笑えないけど。
“優しい顔”がもうない。
取り繕ってるのに、語彙が荒い。
謝ってるふりで、まだ首輪を投げてる。
それが見えるのが、悔しいくらい気持ちいい。
私はノートに一行だけ足す。
今日:謝罪の体で支配(返信しない)
ミツが言う。
「返す?」
「返さない」
「偉い」
「偉いって言うな!」
声が大きくなる。大きい声は負けの合図。
でも今日は、大きい声が外に向く。店の中じゃない。
外で怒れるのは、まだ生きてる証拠。
ミツが肩をすくめる。
「はいはい。じゃあ、今日は何する」
「仕事」
「行ける?」
「行く。仕事は、私が守りたいもの」
言った瞬間、胸が少しだけ熱くなる。
熱は危ない。熱は戻る導線を作る。
でもこの熱は、当たりの熱じゃない。
生活の熱。しんどい熱。守るための熱。
私は靴を履く。
尻尾がピンクで邪魔。最悪。
でも今日のピンクは、私の“取っ手”だ。
揺れても掴める。掴めるなら歩ける。
玄関を出ると、駅前の方角が見える。
遠くに、パチ屋の看板の光がある。
優しい顔で「おかえり」って言ってくる。
私は一瞬だけ、その光を見る。
見た瞬間、胸が軽くなる。軽さが怖い。
でも今日は軽くなっても、曲がらない。
私は言う。
「見た。でも入らない」
言えた。
言えたら勝ち。
勝ちって、こういう小ささでいい。
小さい勝ちを積むのが、私の手順。
駅前を避けて歩く。
導線を切る。
導線を切った先の道は、ちょっとだけ暗い。暗いと怖い。
でも暗い怖さは、爆音の優しさよりずっと安全だ。
歩きながら、スマホがまた震えた。
私は見ない。
見ないで、息を吸う。吐く。
吸って吐ける。ここは島じゃない。現実だ。
背中で、コトン、って聞こえた気がした。
幻聴。最悪。
でも私は、もう振り返らない。
振り返らないのが、今日の勝ち方。
最悪。
――でも、今日は私の勝ち方だった。
夜。
一日が終わるって、怖い。
終わると、空白が来る。空白は音を呼ぶ。音は看板を呼ぶ。看板はドアを開ける。
私はその導線を、今日だけじゃなく“明日も”切れるかが怖い。
机の上のスマホは、また震えていた。
震え方が、もう私の脈に似てる。体が通知になる。最悪。
画面は見ない。見ないって決めた。
でも決めたことって、夜になると薄くなる。薄くなると、私は軽くなる。軽いと曲がる。曲がると戻る。
だから私は、決めたことを“言葉”じゃなく“物”にする。
私は輪ゴムを出す。
スマホに巻く。二重に巻く。
意味ないのに、意味がある。儀式は意味がないから効く。
パチ屋の儀式じゃなく、現実の儀式にする。
レンが笑いそうな声で言ったのを思い出す。
「物理バリア、強い」
ムカつく。でも強い。
ミツは玄関で鍵をいじりながら、振り返って言った。
「返信しないってさ、我慢じゃないぞ。仕事だ」
仕事。
仕事って言葉、嫌いだけど信用できる。
やった分だけ疲れる。疲れるってことは、現実だ。
ハルが静かに言う。
「狐さん。返信しない、は“何もしない”じゃない。やることがある」
「なに」
「寝る。食べる。働く。記録する。離れる。それだけ」
それだけ。
“それだけ”って言葉は嘘だ。人生でそれだけで済んだことない。
でも今日は、それだけをやるのが一番難しいってことを知ってる。
難しいから、勝ち方になる。
ミツが出ていく前に、最後に言う。
「駅前、行くなよ」
「行かない」
「行かないって言葉、無料だぞ」
「……だから、今日は有料にする」
私がそう言うと、ミツは少しだけ笑った。
優しい顔じゃない笑い。疲れた笑い。信用できる笑い。
ドアが閉まる。
部屋が静かになる。
静かすぎて、コトンが聞こえそうになる。幻聴。最悪。
でも今日は、幻聴を“幻聴”って呼べる。
私はノートを開いて、最後に一行だけ書く。
今日:返信しない(達成)
今日:会わない(達成)
今日:駅前を避ける(達成)
今日:数字化(達成)
達成。
達成って言葉、ちょっとだけ嫌い。
達成って言うと、明日もやれって顔をするから。
でも今日は、明日もやるために書く。明日が怖いから書く。
スマホはもう一回だけ震えた。
輪ゴムのせいで、震えが少し鈍くなる。鈍い震え。現実っぽい震え。
私は見ない。見ないまま、息を吸う。吐く。
「最悪」
言って、布団に入る。
布団の中の闇は、パチ屋の光よりずっと怖い。
でも怖いほうが、私の味方だ。怖いほうが、現実だから。
最後に、頭の奥でコトンが鳴った気がした。
幻聴。最悪。
でも私はもう、その音に返事をしない。
返信しない。
会わない。
戻らない。
最悪。――でも、それが私の勝ち方だった。
ノートのページを指でなぞる。
紙のざらつきが、やけに現実っぽい。現実っぽいものは痛い。痛いのに、今日はそれがちょっとだけ安心になる。ムカつく。
書いた文字は汚い。
汚い字は信用できる。取り繕えないから。優しい顔みたいに滑らかじゃないから。
私は今日のページの端に、小さく書き足す。
「返信しない=勝ち」
「会わない=勝ち」
「残す=勝ち」
勝ちって言葉、軽い。軽い言葉は危ない。軽いと曲がる。曲がると戻る。戻ると溶ける。私はそれを知ってる。だから私は、軽い勝ちを“重く”するために、もう一つだけ書く。
「できた日だけ数える」
できない日まで数えたら、私は自分を殴る。殴ると痛い。痛いと逃げる。逃げたらパチ屋に行く。最悪の導線。
だから今日は、できた日だけ数える。ズルい。ズルいけど、今日はズルくていい。ズルいってことは、生き延びたいってことだから。
机の上のスマホは、輪ゴムの下で黙ってる。
黙ってるのに、私の手はまだ“掴みたい手”をしてる。掴んだら終わるって分かってるのに、掴んだら楽になる気がする。楽って言葉は首輪の音。ユメカネの声。パチ屋の両替機の音。全部つながってる。最悪。
私はスマホじゃなくて、コップを掴む。
水を飲む。水は昼飯。まだ死んでない確認。
確認できたら、今日はそれでいい。壮大な勝ちじゃなくていい。今日の勝ちは、呼吸と水と紙でできてる。地味。地味な勝ちが、一番強い。ムカつくけど。
布団に入って、部屋の暗さに目が慣れてくる。
暗いと、音が増える気がする。心臓の音。冷蔵庫の音。外の車の音。全部が「戻れ」じゃなくて「ここにいろ」って言ってるみたいで、ちょっとだけ怖い。怖いけど、怖いまま目を閉じる。
最悪。
でも、今日はここにいる。
それでも、たぶん明日も揺れる。
揺れるのは負けの証拠じゃない。生きてる証拠だ。
揺れたら、掴む。掴んだら、歩く。歩けたら、今日は勝ち。
勝ちって、そんな小ささで十分だ。ムカつくけど。
今日できたことは、派手じゃない。
でも派手じゃない勝ちだけが、明日も使える。
音じゃなく手順。手順は裏切らない。
たぶん、って言いそうになった。やめた。
私は、もう戻らない。
返事は、もうしない。
最高。




