第19話 引っ越す
引っ越しって、前向きな顔をしてる。
でも私の引っ越しは、たぶん“逃げ”だ。
逃げって言葉は嫌いなのに、私は逃げるときだけちゃんと生きてる気がする。最悪。
私はコハク。狐の獣人。女。
尻尾は今日もピンクで封印。恥でしか自分を止められない。終わってる。
1
部屋の中が、薄い。
狭いワンルーム。床の傷。壁の黄ばみ。シンクの水垢。
全部が「ここで溶けた日」を覚えてる。
パチ屋の音が聞こえないはずなのに、ここにいると聞こえる。
——コトン。
——ジャラジャラ。
——外れの沈黙。
幻聴ってやつは、音じゃなくて“記憶”なんだなって思う。ムカつく。
スマホが震える。
ユメカネじゃない。
ハルから。
『今、家いるっすか』
私は返す。
『いる』
返した瞬間、また首輪の音がする。
無料の言葉は、すぐ縄になる。
ピンポン。
玄関。
覗き穴。
ハルのフード。小柄。目が働きすぎ。
ドアを開けた瞬間、ハルが言った。
「狐さん、今日の顔、ヤバいっす」
私は即答。
「黙って。今、普通」
「普通の人は“普通”って言わないっす」
「うるさい」
ハルは部屋の中を見回した。
見回されるのが嫌。ここは私の溶けた場所で、見回されると証拠みたいになる。
ハルが言う。
「引っ越しましょう」
私は固まる。
「は?」
「ここ、向こうに把握されてる可能性高いっす」
“向こう”=ユメカネ。
優しい顔。目だけ笑ってない。
「見てる」って言葉で首輪を締めるやつ。
私は言った。
「引っ越しって、金かかる」
ハルが頷く。
「かかります。でも、“これ以上かかる”よりマシっす」
マシ。
マシって言葉、嫌いじゃない。
救いの顔をしてるから。ムカつくけど。
2
私は床に座って、封筒を出した。
日払いの残骸。勝った日の残骸。負けた日の残骸。
全部、軽いくせに重い。
ハルが言う。
「荷物、少ないっすね」
私は言う。
「生活が軽いから」
「軽いのは、今は武器っすよ」
武器。
武器って言葉、怖い。
武器を持った気になった瞬間、人はミスる。
私は言う。
「どこに引っ越すの」
ハルがスマホを見ながら言う。
「駅から二駅離れたとこ。パチ屋からも遠い」
パチ屋から遠い。
その条件が入るのが、もう終わってる。
私はパチ屋の距離で人生の安全を測ってる。
私は笑えない声で言った。
「パチ屋から遠いだけで、真人間になれるなら、誰も溶けない」
ハルは、軽い声で刺した。
「真人間じゃなくていいっす。“回収されない人”になりましょう」
回収。
その単語で胃が冷える。
私は言う。
「……私、逃げてるだけじゃない?」
ハルが即答する。
「逃げでいいっす。逃げないで食われるより、ずっといい」
正しい。
正しいのがムカつく。
でも、ムカつくってことは効いてる。
3
その日、私はミツにも連絡した。
喫煙所で会う。
ミツはタバコを吸いながら、私の話を聞いた。
「引っ越し? いいじゃん」
私は言う。
「いいのか分かんない。私、また逃げるだけ」
ミツが煙を吐く。
「逃げるって言葉、嫌い?」
「嫌い」
「じゃあ“移動”って言え」
「言い換えで人生変わる?」
「変わらない。でも、動ける」
動ける。
その言葉はちょっと好きだ。
私はいつも止まるか、曲がるかしかしてないから。
ミツは灰皿にタバコを押し付けて言った。
「で、向こうから来たらどうすんの」
私は息が浅くなる。
「……知らない」
ミツが即言う。
「知らないは危ない。猫の言う“HPバー見てない”のやつ」
私は言う。
「うるさい」
ミツは私のピンク尻尾を見て言う。
「揺れてる」
「実況すんな」
「実況じゃない。警報」
警報。
ムカつくけど、ありがたい。
ありがたいと思った瞬間、またムカつく。素直になると死ぬ気がする。
4
引っ越し当日。
段ボールが二つ。
ダンボール二つしかない人生って、軽すぎて笑えない。
でも軽いから、持てる。
駅前でレンも来た。ゲーム機を触りながら。
「引っ越しって、セーブポイント移動みたいなもん?」
私は言う。
「セーブできないんだよ、現実は」
レンが目を細める。
「セーブできないなら、ロードされない場所に行くのは正しい」
言い方がムカつくのに、分かりやすい。
アオイも来た。蛍光のウィンドブレーカーで、引っ越しに来る格好じゃない。
でもアオイは笑って言った。
「コハク、今日はビートが違う日だよ。音、変えよう」
音。
音を変える。
それができたら苦労しない。
でも“変える日”って言葉には、ちょっとだけ希望がある。嘘っぽい希望。ムカつく。
5
新しい部屋。
古いけど、知らない匂い。
知らない匂いは、記憶が少ない。
記憶が少ないと、幻聴が弱い。
私は窓を開けた。
外の空気がうまい。
うまい空気って泣きたくなるから嫌い。
でも今日は、泣きたくなるのを放置した。
放置できた。
ハルが言った。
「今日のルール、ひとつだけ」
「なに」
「住所、誰にも言わない。家の写真も送らない。位置情報も切る」
私は言う。
「ミツには言いたい」
ミツが即言う。
「言うな」
レンも言う。
「言ったら負け」
アオイが言う。
「言いたいときほど、音に逃げる前兆」
全員ムカつく。
でも全員、同じ方向を見てる。
それがちょっと怖くて、ちょっと助かる。
私は床に座って、段ボールを開ける。
一番上に出てきたのは、百均のピンク尻尾カバー。
私はそれを見て、思わず言った。
「……私さ、こんなの付けて、何やってんだろ」
ハルが言う。
「生きてるっす」
ミツが言う。
「生き延びてる」
レンが言う。
「次のステージ行っただけ」
アオイが言う。
「今日の勝ちは、これ」
勝ち。
苦い勝ち。
でも、今日は苦い勝ちがちゃんと舌に残る。
残るってことは、現実だ。
私はピンク尻尾を握って、いつもの言葉を言った。
「……最悪」
でも今日は、引っ越した。
逃げたんじゃなくて、移動した。
そういうことにする。
そういう言い訳で、今日は生きる。




