第14話 返せる金は、返せない顔をする
朝
勝った翌日の朝って、胃が軽い。
軽い胃は嘘だ。
軽いのはただ、昨日の音がまだ残ってるだけ。
私はコハク。狐の獣人。女。
尻尾は今日もピンクで封印。恥でしか自分を止められない。終わってる。
枕元の封筒。
昨日の勝ちの残骸。
重い。
重いのに、触った瞬間、脳が笑う。
笑うな。
勝ちが笑うな。
勝った金って、触るだけで「もう一回」を連れてくる。
勝ちって、味方の顔で敵を連れてくる。
私は封筒を開ける。
札が見える。
見えるだけで、胸が温かくなる。
温かいのが怖い。
温かいと、人は判断を間違える。
私は言う。
「……返せる」
返せる。
口に出した瞬間、返せない未来が走ってくる。
「返せるなら、もっと返せる」
あの優しい顔の声。
ユメカネ。
私はスマホを見る。
通知。
もちろん来てる。
『おはよ。昨日すごかったね。えらい。今日、少し話せる?』
話せる?
話す=首輪。
首輪は無料の言葉で締まる。
私は返信しない。
しない。
しないって決めた。
でも、勝った手は強い。
勝った手は「できる顔」をする。
できる顔は、相手に見せたくなる。
見せた瞬間、買われるのに。
私は指を動かしてしまう。
『忙しい』
送信。
送った瞬間、背中が冷える。
何してんの私。
“忙しい”って返した時点で、会話のレールが敷かれる。
レールは楽だ。
楽は危ない。
すぐ返ってくる。
『大丈夫。5分でいい。駅前のカフェ。人多いところ。怖くないよ』
怖くないよ、が一番怖い。
怖くないよって言えるやつは、怖さの構造を知ってる。
私は息を吸う。
吸った息が浅い。
浅い息は負けの息。
でも今日は勝ってる。
勝ってるのに負けの息。
矛盾は、依存の中だと普通になる。
私は封筒を握って、立ち上がった。
「……返しに行く」
言った。
偉いこと言った。
偉い言葉は、次の地獄の扉を開ける。
1
駅前のカフェ。
明るい。清潔。人が多い。
明るい場所で壊れると、壊れ方が綺麗に見えるから嫌い。
私は端の席に座る。
尻尾がピンクで、椅子からはみ出す。
最悪。
最悪なのに、今日はそれが「自分を止める札」にならない。
昨日、勝ちの熱で尻尾が揺れた。
恥が負けた。
恥が負けた記憶が残ってる。
残ってるものは次を呼ぶ。
私は手を膝に置いて、封筒をバッグの奥に押し込む。
押し込んだ。
隠した。
隠した時点で、もう負けてる。
返す気があるなら、堂々と出せるはずなのに。
堂々と出せない。
私は返す金を持ってるのに、返す顔ができない。
入口のベルが鳴る。
来た。
黒いジャケット。
細い指。
優しい口。
目だけ笑ってない。
ユメカネの男。
男は笑って座る。
座り方が丁寧。
丁寧なものほど怖い。
「来てくれてありがとう。えらい」
えらい。
その言葉、昨日から私を追いかけてくる。
私の中で、えらいが勝ちの音と結びついてしまってる。
えらい=当たる
えらい=許される
えらい=まだやれる
最悪の等式。
私は言う。
「返す」
男は頷く。
「うん。すごいね。じゃあ、いくら返せる?」
質問が綺麗すぎる。
数字にすると、現実になる。
現実は利息で育つ。
私はバッグの奥の封筒を触る。
触った瞬間、昨日の音が蘇る。
——ジャラジャラ。
——コトン。
胸が温かくなる。
温かいと、口が弱くなる。
私は言う。
「……全部じゃない」
男は優しく笑う。
「全部じゃなくていいよ。君が壊れない形がいい」
壊れない形。
それを決めるのは、私じゃなくてお前だろ。
私は言い返したい。
でも昨日の勝ちが、喉を塞ぐ。
勝った人間は、強いはずなのに。
勝った人間は、なぜか従順になる。
「できる」って思われたいから。
私は嫌だ。
でも私は、思われたい。
この矛盾が一番壊れる。
男がスマホを出す。
画面は見せない。
見せないのも技術。
「今日ね、提案がある」
提案。
脅しの言い換え。
「君、昨日勝ったでしょ。…あれ、才能だよ」
才能。
才能って言うな。
才能って言葉は、私の逃げ道を正当化する。
男は続ける。
「勝てる君なら、返済が早い。返済が早いなら…君、もっと楽になれる」
楽。
楽って言葉は、首輪の音。
「その代わり、君の“勝ち方”を、僕らにも共有してほしい」
共有。
その単語で、背中が冷える。
勝てる島。
手順。
ハルのアプリ。
全部が繋がる匂いがする。
私が勝ったのは偶然じゃない。
偶然じゃないとしたら、誰かが選んだ勝ちだ。
選ばれた勝ちは、回収のための勝ちだ。
私は言う。
「……意味わかんない」
男は笑う。
「分かんなくていい。君は“勝てる”だけでいい」
それが一番怖い。
人間を“機能”にするやつの言い方。
2
外に出た瞬間、私は息を吐く。
吐いた息が自分のものじゃない感じがする。
現実が薄い。
薄い現実は危ない。
薄いと、音が欲しくなる。
私は駅前を歩く。
足が勝手に、いつもの方向へ向く。
パチ屋の方向。
向くな。
向くなって思うほど向く。
私はスマホを握る。
誰かに連絡しないと。
ハル。
ミツ。
レン。
アオイ。
誰でもいい。
外力が欲しい。
でも勝った私は、妙にプライドがある。
“勝てる私”は、助けを求めたくない。
助けを求めた瞬間、勝ちが嘘になる気がする。
勝ちが嘘でもいいのに。
私は嘘を守るために死にたくないのに。
でも私は、嘘を守りたがる。
私はハルにだけメッセを送る。
『今、ユメカネと会った。提案された。共有とか言ってる』
送信。
既読がつかない。
既読がつかないだけで、世界が沈む。
沈むと、私は音に逃げる。
逃げるな。
でも足がもう、パチ屋の自動ドアの前に立ってる。
開くときだけ優しい。
今日も開いた。
3
店内。
音が、私の頭を撫でる。
撫でられると、私は考えなくて済む。
考えなくて済む場所に、私は戻ってきた。
戻ってきた時点で負け。
でも昨日、私は勝った。
勝った経験があると、負けの自覚が薄くなる。
「今日は昨日より上手くやれる」
その言い訳が、勝ちから生まれる。
最悪。
私は海の島に座る。
昨日と同じ台じゃない。
でも同じ匂いの台。
匂いって何。
匂いって言える時点で終わってる。
私は財布を開く。
昨日の勝ちの札。
重い。
重いのに軽い。
軽いから、入れられる。
私は千円を入れる。
——コトン。
昨日の音が、今日の音に繋がる。
繋がった瞬間、私は気づく。
これ、もう止まらないやつだ。
止まらないのに、止めない。
止めないってことは、私は止まりたくない。
「返す」って言ってた口が、ここでは黙る。
黙ると、音が喋る。
音が喋ると、私は従う。
私は回す。
回る。
外れる。
回る。
外れる。
昨日の奇跡がない。
ないのに、私は焦らない。
焦らない理由は一個。
“昨日勝ったから、今日もどこかで当たる”
勝った経験が、希望になる。
希望は嘘。
でも嘘が、財布を開く。
二千円。
三千円。
外れる。
静かな海の演出が、今日はやけに腹立つ。
腹立つのに、やめられない。
腹立つときほど、当たりが欲しい。
欲しいって思うと、負けが確定する。
私は知ってる。
知ってるのに、知識は止めにならない。
勝った知識は、ただの燃料。
4
スマホが震える。
見ない。
見ないって決めた。
でも勝った手は、見る。
通知。
ユメカネ。
『今、いる?』
いる?
何で分かる。
分かるってことは、見てる。
見てるってことは、ここも彼の場所だ。
私の逃げ場じゃない。
私は急に寒くなる。
寒いと、熱を作りたくなる。
熱は当たりでしか作れない気がする。
私は追加で札を入れる。
入れた瞬間に、背後で声。
「……狐さん」
ハル。
フード。
小柄。
目が、今日は冷たすぎる。
冷たすぎる目は、怒ってる目だ。
私は言う。
「来るなって言った」
「言ってないっす」
「言った。心の中で」
ハルは箱のない台を見て、短く言う。
「昨日の勝ち、もう食われてるっすよ」
私は言う。
「食われてない。まだある」
「あるって言える時点で、もう食われてる」
その正論がムカつく。
ムカつくと、尻尾が揺れる。
ピンクが揺れる。
恥で止めるはずのピンクが、今日はただの旗になってる。
「負ける旗」
ハルの目がそう言ってる。
私はキレる。
「うるさい! 私だって…返すって言った!」
ハルが言う。
「返すなら、今席立って。外出て。封筒触って。現実に戻って」
現実。
現実って言うな。
現実は痛い。
痛いからここに来てるのに。
私は歯を食いしばって、言う。
「……今、当たるかもしれない」
口に出した瞬間、私は終わった。
これ、完全に依存のセリフ。
「当たるかもしれない」は、「やめない」の別名。
ハルが息を吐く。
「狐さん、昨日勝ったせいで、“戻り方”が上手くなった」
戻り方。
嫌な才能。
勝ちって、人を上達させる。
壊れる方向に。
私はハンドルを握る。
握ったまま、ハルを見ない。
見たら止まりそうだから。
止まったら現実に戻るから。
現実に戻ったら、私が弱いってバレるから。
私は弱いのに、バレたくない。
5
一万円が溶けた。
溶けたって言葉が、昨日までは怖かった。
今日は、怖くない。
怖くないのが一番怖い。
溶けたのに、心のどこかで計算してる。
“まだ勝ちの残りがある”
勝ちが、損失の免罪符になる。
昨日の勝ちが、今日の負けを許す。
許すな。
許したら終わる。
でも私は、許されたい。
許されたいから、許す。
最悪の循環。
ユメカネからまた通知。
『大丈夫。君は勝てる。』
勝てる。
その言葉が、脳に刺さる。
刺さるのに気持ちいい。
痛い快感が一番危ない。
私は返信する。
してはいけない。
してはいけないのに、する。
『当たらない』
送信。
送った瞬間、私は気づく。
これ、会話じゃない。
報告だ。
私は相手に、私の現在地を渡してる。
現在地は、首輪の座標になる。
ハルが言う。
「送ったっすね」
私は言う。
「送ってない」
「送った顔っす」
「顔で決めつけんな」
ハルが低い声で言う。
「狐さん、勝った日から、顔が嘘つけなくなってる」
嘘つけなくなってる。
勝ちって、人を正直にする。
正直って、相手にとって都合がいい。
私は都合よくなってる。
私はそれが一番嫌なのに、止められない。
6
そのとき。
隣の台で爆音。
知らない誰かが当たった。
当たった音が、私の胸を殴る。
私は反射で首が動きかける。
ハルが言う。
「見ないっす」
私は言う。
「見たい」
「見たら戻る」
「もう戻ってる!」
言った瞬間、自分で笑いそうになる。
笑えない。
笑ったら終わりが確定する。
でも私はもう終わってる。
終わってるって認めた瞬間、人はさらに終われる。
最悪。
私は立ち上がる。
「台変える」
ハルが腕を掴む。
「やめる」
私は振り払う。
「触るな!」
声が大きい。
周りの視線が刺さる。
刺さると恥ずかしい。
恥ずかしいと、もっと音に潜りたくなる。
私は台を移る。
新台。
光が偉そう。
見下してくる光。
ムカつくのに、私を呼ぶ。
呼ばれると、私は従う。
従うと、負ける。
負けると、また来る。
私はもう、戻り方をマスターしてる。
勝ったせいで。
7
閉店間際。
財布が軽い。
軽い財布は、昨日の第1話に戻る感覚。
でも違う。
昨日の私は「負ける」だけだった。
今日の私は「勝てた」ことを知ってる。
勝てたことを知ってる負けは、質が悪い。
負けが“途中”になる。
途中って言葉は、いつも次を呼ぶ。
私はふらふら店を出る。
自動ドアが閉まる。
閉まるときは冷たい。
今日の冷たさは、昨日より正しい。
正しい冷たさは、痛い。
痛いと、私は現実に戻る。
戻った現実は、数字が減ってる。
封筒の重さが、軽くなってる。
軽くなるのは楽じゃない。
軽くなるのは死だ。
スマホが震える。
ユメカネ。
『おつかれ。今日も頑張ったね。明日、話そ。』
頑張ったね。
頑張ってない。
溶けただけだ。
でも相手は「頑張り」に変換する。
溶けを努力に変換された瞬間、私は否定できない。
否定できないのが一番壊れる。
私は駅前のベンチに座る。
ピンクの尻尾がだらしなく垂れる。
封印が、ただの飾りになってる。
恥が、効かない。
恥が効かないと、私は止まれない。
私は言った。
「……私、勝ったはずなのに」
声が震える。
震える声は、弱い声。
弱い声を出した瞬間、私は気づく。
私が壊れていくのは、負けたからじゃない。
勝った日から、ずっと壊れてる。
勝ちが、私の壊れ方を上書きした。
「どうせ負ける」じゃなく、
「たまに勝てる」に変えた。
たまに勝てるは、希望の顔をした地獄だ。
そのとき、横に座る影。
ミツ。
タバコの匂い。
「……顔、終わってる」
私は言う。
「うるさい」
ミツは煙を吐かずに、タバコを指で転がす。
今日は火をつけない。
それが妙に怖い。
「勝ったんでしょ?」
私は言う。
「勝った。昨日」
ミツが言う。
「で、今日?」
私は答えられない。
答えられないのが答え。
ミツは短く言う。
「勝った次の日が一番死ぬ。分かる。ヤニもそう」
ヤニの例えで救われるのが嫌だ。
でも救われる。
救われるってことは、私はまだ生きてる。
生きてると、また壊せる。
最悪。
ミツが私のスマホを見て言う。
「それ、返すなよ」
私は言う。
「返した」
ミツが目を細める。
「……返した時点で、向こうの勝ち」
勝ち。
また勝ち。
勝ってるのは誰。
私じゃない。
店でもない。
ユメカネだ。
勝ちって言葉が、もう私のものじゃない。
私はピンク尻尾を握って、いつもの言葉を吐く。
「……最悪」
でも今日の最悪は、昨日より進んでる。
昨日は「勝てる」って知った。
今日は「勝てる私」が、相手の餌になってるって知った。
知ったのに、止められない。
知ったのに、また行く未来が見える。
未来が見えるってことは、もう逃げ道が細い。
細い逃げ道は、音の方へ繋がってる。
私は、ベンチの上で小さく言った。
「……明日、また行くと思う」
ミツが言う。
「知ってる。だから今夜は、家まで送る」
送る。
外力。
その言葉が、悔しいくらいありがたい。
ありがたいって思った瞬間、私は少しだけ泣きそうになる。
泣いたら弱いのがバレる。
バレたくないのに、涙は勝手に出る。
出る涙は、音みたいに正直だ。
私は泣かないふりをして、立ち上がった。
立ち上がれた。
それだけで今日は勝ち扱いになる人生。
勝ちの基準が低くなってる。
低い勝ちは、地面に近い。
地面に近いと、転びやすい。
私は転ぶ。
転ぶのに、明日も歩く。
歩く方向は、だいたい同じ。
最悪。




