第97話 開館前日
第三アクアリス水族館。
その夜は、いつもより静かだった。
明日。
ついに開館日。
館内の照明は最低限だけが灯され、巨大水槽の青い光だけがゆっくりと揺れている。
まるで海そのものが息をしているようだった。
中央エリアでは、館長が最終チェックの書類を見ていた。
「……これで全部、問題なし」
飼育員が頷く。
「設備も展示も完璧です」
「うん、ありがとう」
館長はペンを置き、少しだけ目を閉じた。
長い準備だった。
そして、ようやくここまで来た。
◇
その頃。
アクアリスたちはそれぞれの場所で過ごしていた。
ヒメタツは海藻エリアのベンチに座っていた。
リーフィーシードラゴンと並んでいる。
「いよいよ明日ですわね」
「うん」
リーフィーシードラゴンはいつも通り落ち着いている。
しかしその目は、どこか柔らかかった。
「不思議な感じ」
「何がですの?」
「ずっとここにいたのに、明日からは“見られる側”になるんだよね」
ヒメタツは少しだけ考えて、笑った。
「それもまた、悪くないですわ」
二人は海藻の揺れる水槽を見上げた。
光がゆっくり流れていく。
まるで時間そのものが水の中に溶けているようだった。
◇
深海エリア。
ニシオンデンザメは巨大な岩の上で横になっていた。
メガマウスザメが隣にいる。
ジンベエザメは少し離れた場所で水槽のガラスを見ていた。
「明日かのう」
ニシオンデンザメがぽつりと言う。
「そうですね」
メガマウスザメは静かに答える。
ジンベエザメはゆっくりと泳ぎながら言った。
「たくさんの人が来ますね」
「来るじゃろうな」
「……少し緊張します」
メガマウスザメのその言葉に、ニシオンデンザメは笑った。
「緊張するのも悪くないぞい」
「そうですか」
「うむ。ワシも若い頃はガチガチじゃった」
ジンベエザメが少し驚く。
「想像できません」
「今でもじゃ」
その言葉にメガマウスザメが小さく笑った。
静かな深海エリアに、穏やかな空気が流れる。
◇
珊瑚エリア。
ミズクラゲがくるくると回っていた。
「明日だってー!」
「落ち着いてください」
ウデフリツノザヤウミウシが優しく声をかける。
ハダカカメガイも静かに揺れている。
カブトガニはゆっくり歩いていた。
「明日は多くの来館者が来るでしょう」
「楽しみだね!」
ミズクラゲは止まらない。
「絶対楽しいよ!」
「ふふ」
ウデフリツノザヤウミウシが微笑む。
「みんなに見てもらえるのは嬉しいですね」
カブトガニは少し考えてから言った。
「我々の存在が、誰かの記憶になるのなら、それは良いことです」
ミズクラゲはその言葉を聞いて一瞬止まり、そして大きく頷いた。
「うん!」
◇
アマゾンエリア。
デンキウナギは照明を調整していた。
ミナミメダカが隣でチェックリストを見ている。
「ここOKです!」
「問題ありません」
デンキウナギは淡々と答える。
しかしその表情はどこか柔らかい。
ミナミメダカは笑った。
「明日、楽しみですね!」
「……えぇ」
短い返事。
だが確かにそこには感情があった。
デンキウナギは少しだけ手を動かし、微弱な電流を流した。
壁の装置が静かに光る。
「異常なし」
「すごい!」
ミナミメダカは拍手した。
デンキウナギはほんの少しだけ目を細めた。
◇
夜。
中央エリア。
アクアリスたちが自然と集まっていた。
ヒメタツ。
リーフィーシードラゴン。
ニシオンデンザメ。
メガマウスザメ。
ジンベエザメ。
ミズクラゲ。
ハダカカメガイ。
ウデフリツノザヤウミウシ。
カブトガニ。
デンキウナギ。
ミナミメダカ。
そしてフウセンウオ。
館長もそこに立っていた。
誰も大きな声を出さない。
ただ、静かに明日を待っている。
館長がゆっくり言った。
「明日、この水族館は開館します」
その言葉に、空気が引き締まる。
「みんなの力で、ここまで来ました」
ヒメタツが小さく頷く。
「えぇ」
ミナミメダカも笑う。
「がんばりました!」
ジンベエザメは優しく言う。
「きっと素敵な日になります」
ミズクラゲは跳ねるように動く。
「絶対楽しい!」
ニシオンデンザメは大きく笑った。
「祭りじゃのう!」
メガマウスザメは静かに空を見上げた。
「……始まる」
その時だった。
館長が一瞬だけ、言葉を止める。
窓の外。
海の向こう。
夜の水平線。
何も見えないはずのそこに。
ほんの一瞬だけ。
黒い影のようなものが揺れた。
しかしすぐに消える。
館長は気付いていた。
だが何も言わない。
ただ静かに目を閉じる。
そして再び開いた時。
そこにはいつもの穏やかな表情があった。
「明日に備えて、今日は解散しましょう」
アクアリスたちは頷く。
少しずつ散っていく。
だが誰もが同じ気持ちだった。
明日。
すべてが始まる。
第三アクアリス水族館。
その扉が開く日が、すぐそこまで来ていた。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




