第55話 増え始めた影
ここは、アクアリス達が暮らしている。
オープン前の第三アクアリス水族館、今日も今日とて平和です。
アビス撃退用大水槽。
暗い水の中で、異形が蠢いていた。
黒い霧のような身体。
輪郭は曖昧で、魚とも獣ともつかない。
アビスが低く唸る。
「ァァァァ......!」
次の瞬間、霧のような触手が何本も伸びた。
水を裂きながら襲いかかる。
だが。
小さな影がくるりと身を翻した。
黄土色の髪が水中でふわりと揺れる。
ヒメタツだった。
「ひめごとバブル!」
彼女の周囲に大量の泡が生まれる。
その泡はただの泡ではない。
月光力を帯びた特殊な泡。
ふわりと浮かびながら、触手へぶつかる。
ぱんっ、と小さく弾けた。
次の瞬間。
アビスの触手が煙のように崩れる。
「ァ゛ァァッ!?」
ヒメタツは水中で身体を回転させた。
まるで海藻の間を泳ぐ小魚のように軽やかだった。
「まだですわ!」
再び泡が放たれる。
無数の泡は水流に乗り、アビスを包み込んだ。
ぱち、ぱちぱちっ――!
光を帯びた泡が次々に弾ける。
アビスは悲鳴を上げながら後退した。
「ァァァ......」
やがてその身体は黒い霧となって消えていく。
静かになった水槽の中で、ヒメタツは小さく息を吐いた。
「ふぅ……」
以前なら、ここまで落ち着いて戦えなかった。
けれど今は違う。
守りたい場所がある。
守りたい仲間がいる。
だから戦える。
ヒメタツは薙刀を持ち直す。
だがその表情には、少しだけ疲れが見えていた。
シーンは変わり、第三アクアリス水族館 通路。
ヒメタツは静かな廊下を歩いていた。
館内はまだオープン前。
水槽の光だけが通路を淡く照らしている。
「はぁ、最近、アビスが増えてきましたわね……」
ぽつりと呟く。
以前はここまで頻繁ではなかった。
ここ数日、明らかに出現数が増えている。
しかも以前より凶暴化している気さえした。
「他のアクアリスの皆さんも、つかれているときいていますが、いったい何が……」
考え込んでいると。
「あら、ヒメタツちゃん、ちょっといいかしら?」
聞き慣れた声だった。
振り向くと、館長が立っていた。
優しそうな笑みを浮かべている。
ヒメタツはぺこりと頭を下げた。
「はい?」
館長は少しだけヒメタツの顔を覗き込む。
「最近、調子どう?」
「はい!バッチリですわ!」
ヒメタツはすぐに笑顔を作った。
館長はじっと彼女を見る。
「そう、それはよかったわ」
だがその声音は、少しだけ心配そうだった。
ヒメタツは首を傾げる。
「どうかされました?」
「ううん。ただ、最近みんな無理してるから」
「……」
「ヒメタツちゃんも頑張りすぎてないかなって」
ヒメタツは少しだけ目を伏せた。
図星だった。
アビス対応。
館内の見回り。
後輩アクアリスたちの相談。
古参アクアリスとして頼られることも増えていた。
けれど。
「わたくしは大丈夫ですわ」
「本当に?」
「はい!」
ヒメタツは笑う。
館長はその笑顔をしばらく見つめていた。
そして、小さく息をつく。
「ヒメタツちゃんって、昔からそうよね」
「え?」
「自分より周りを優先しちゃう」
「そ、そんなこと……」
「あるわよ」
館長は柔らかく笑った。
「優しい子だから」
ヒメタツは少し照れたように視線を逸らす。
「……でも、皆さんも頑張っていますもの」
「えぇ」
「なら、わたくしも頑張りませんと」
館長は少しだけ困ったように笑った。
「頑張るのはいいの。でもね」
彼女はヒメタツの頭をそっと撫でる。
「頼ることも大事なのよ」
「……頼る」
「そう。ヒメタツちゃんは、もう一人じゃないでしょう?」
その言葉に、ヒメタツは静かに目を見開いた。
水俣で孤独だった頃。
誰も信じられなかった頃。
あの時の自分なら、きっと今の景色は想像できなかった。
だが今は違う。
仲間がいる。
友達がいる。
居場所がある。
ヒメタツは小さく微笑んだ。
「……はい」
館長も優しく笑い返す。
その時だった。
館内スピーカーがぴこん、と鳴る。
『監視エリアより連絡、監視エリアより連絡。水層管付近に小規模アビス反応を確認』
ヒメタツの表情が引き締まった。
館長も真剣な顔になる。
『現在、デンキウナギちゃんが向かっています』
少しの沈黙。
ヒメタツは館長を見る。
館長は苦笑した。
「……休ませてくれないわねぇ」
「ですわね」
だがヒメタツは小さく笑っていた。
不思議と、さっきより身体が軽かった。
館長の言葉のおかげかもしれない。
「館長」
「ん?」
「少しだけ、気が楽になりましたわ」
館長は優しく目を細める。
「それならよかった」
ヒメタツはぺこりと頭を下げた。
そして通路の先を見る。
水槽の青い光が、静かに揺れていた。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




