第51話 「館長の1日」
オープン前の第三アクアリス水族館は、まだ静けさに満ちていた。照明は最低限に抑えられ、展示水槽の水音だけが館内をゆっくりと満たしている。観客のいないこの時間は、水族館という場所がもっとも“本来の顔”を見せる瞬間でもあった。
館長は通路の中央をゆっくりと歩いていた。手には点検用のタブレット端末。視線は各エリアの状態表示に向けられている。
「今日も異常なし、ね……」
小さく呟きながら、次のデータに目を移す。
その後ろを、若い飼育員が追いかけるように歩いていた。手にはチェックリストと小さなライト。
「館長、クラゲ館の循環ポンプ、昨日の数値より安定してます」
「そう。いい傾向ね」
館長の返事は短いが、確実に状況を把握している声だった。
通路の先には巨大なガラス水槽が並び、その向こう側でクラゲや魚たちがゆっくりと漂っている。まだ観客のいない時間帯は、彼らの動きもどこか落ち着いて見えた。
別の飼育員が駆け寄ってくる。
「館長、アマゾンエリアのデンキウナギ、巡回終了報告出てます。異常なしです」
「わかったわ。あの子、相変わらず真面目ね」
その言葉にはわずかな笑みが混ざっていた。
飼育員は少し苦笑する。
「真面目すぎて逆に心配になりますけどね……」
「それでいいのよ。この水族館は、そういう子たちで支えられてる」
館長はそう言いながら、次のエリアへと視線を向ける。
そこには海獣エリアのモニターが映っていた。シャチやイルカたちの行動ログが表示されている。
別の飼育員が端末を確認しながら報告する。
「ショープールは準備完了です。イロワケイルカもコガシラネズミイルカも、朝のコンディション良好」
「そう。あの子たちは今日も騒がしそうね」
館長は少しだけ目を細めた。
その時、背後から別の声が聞こえる。
「館長、クラゲ館の照明調整終わりました」
振り返ると、ベテランの飼育員が立っていた。手袋を外しながら、軽く首を回している。
「ありがとう。クラゲ館は光が命だから、いつも助かるわ」
「いえいえ。あの子たち、光の加減で機嫌が変わるんで気を使いますよ」
その言葉に館長は小さく頷く。
「生き物はみんなそうよ。気づかないだけで、ちゃんと反応してる」
通路の端では、清掃担当の飼育員が床の水滴を丁寧に拭き取っていた。水族館という場所は、常に湿気と隣り合わせだ。
「今日の来館準備は順調ですか?」
館長が問いかけると、清掃員は顔を上げて答える。
「問題ありません。ガラスも全部確認済みです。指紋ひとつ残ってませんよ」
「完璧ね」
館長は短くそう言って歩みを進める。
やがて中央監視室の前に到着した。ドアを開けると、複数のモニターが並び、館内すべての水槽が映し出されている。
そこにいた飼育員が立ち上がる。
「館長、おはようございます。夜間のログも確認済みです」
「ありがとう。何か気になる点は?」
「特には。ただ、クラゲ館の光反応が少し活発でした」
館長はその映像を見つめる。
「……あの子たちは、光に敏感だからね」
しばらく沈黙が続く。
しかしその沈黙は不安ではなく、確認のための静けさだった。
館長はゆっくりと端末を操作する。
「今日も予定通りオープンよ。いつも通りに」
飼育員たちは一斉に頷く。
「はい」
「了解です」
「問題なしです」
その声が重なると、館内の空気が少しだけ引き締まる。
館長は最後にもう一度モニターを見渡し、静かに言った。
「さあ、今日も始めましょう。あの子たちの一日を」
その言葉を合図に、第三アクアリス水族館の“朝”が本格的に動き出した。
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