第44話 声にならない歌
立ち入り禁止エリア。
一般のアクアリス達がほとんど訪れることのない、静かな通路。壁には淡い青色の照明が埋め込まれ、水面のような揺らぎを天井へ映している。遠くでは循環装置の低い音だけが響き、まるで深海の底にいるような空気が漂っていた。
その中心。
大きな円柱水槽の前に、群青色の髪を揺らす少女が立っている。
少女は静かに目を閉じ、両手を胸元で重ねながら歌っていた。
言葉にはならない。
けれど確かに“想い”だけは伝わってくる歌。
どこか寂しく、どこか温かい、不思議な旋律。
館長はその歌をしばらく黙って聞いていた。
やがて少女が小さく振り返る。
群青色の瞳。
深い海のような色。
少女は手に持っていたカード束をぺらりとめくり、一枚を館長へ向けた。
『きてくれて ありがとう』
館長はふふっと笑う。
「こちらこそ。今日も綺麗な歌だったわ」
少女は少し照れたように視線を逸らし、また別のカードを見せる。
『うまく きこえてる?』
「えぇ、ちゃんと聞こえてるわよ」
館長がそう答えると、少女――五二はほんの少しだけ安心したように肩を落とした。
五二「鯨偶蹄目 ナガスクジラ科 ナガスクジラ属 ???」
別名「52Hzのクジラ」と呼ばれていた個体のアクアリスです、アクアリス化したことによりしゃべれますがしゃべろうとせず思考を重ねた結果、イラストカードで会話させるように練習をして今にいたる、歌うことが好きだがうまく聞き取れない。
「緊張してる?」
館長の問いに、五二はしばらく考え込む。
それからカードを数枚めくった。
『ちょっとだけ』
『みんなと なかよく できるかな』
館長は優しく目を細める。
「大丈夫よ。あの子達、優しいもの」
五二はまたカードを変える。
『でも』
『わたしの こえ』
『へんな おと だから』
館長はゆっくり首を横に振った。
「変じゃないわ」
「少なくとも私は、あなたの歌を綺麗だと思ってる」
五二はぱちりと瞬きをする。
その表情は、少し驚いたようでもあり、信じられないようでもあった。
館長は続ける。
「たしかに、普通のクジラ達とは違う声かもしれない。でもね、違うから駄目なんてことはないの」
「この水族館には、いろんな子がいるでしょう?」
「飛べるペンギンもいれば、電気で会話する子もいる」
「みんな少しずつ違って、でもみんな大切なアクアリスよ」
五二はカードを胸元へぎゅっと抱きしめる。
その時。
コンコン、と扉が軽く叩かれた。
館長が振り返る。
「どうぞ」
扉がゆっくり開く。
そこから顔を覗かせたのは、若い飼育員だった。
「あ、館長。交流会の準備、ほとんど終わりました」
「ありがとう。みんな集まり始めてる?」
「はい。ミズクラゲちゃん達も気になってるみたいでしたよ。“歌の子って誰?”って」
館長は苦笑する。
「耳がいいわね、あの子達」
五二はその言葉を聞いて、少しだけ肩をびくりと震わせた。
飼育員もそれに気づいたらしい。
「あっ……すみません、怖がらせるつもりじゃ……」
五二は慌てて首を横に振る。
それからカードを取り出した。
『だいじょうぶ』
『こわくない』
「……そっか」
飼育員は安心したように笑った。
「みんな楽しみにしてますよ」
五二はその言葉を聞き、少し考え込む。
それから新しいカードを見せた。
『ほんとう?』
「本当です」
「この水族館、新しい子が来るとみんな気になるんです」
「友達になりたいって思ってるから」
静かな沈黙。
循環水の音だけが響く。
やがて五二は小さく口を開いた。
「……ぁ……」
かすかな声。
息のように小さい。
それでも確かに、声だった。
館長と飼育員が驚いて目を見開く。
五二自身も驚いたように、自分の喉へ手を当てる。
「……ぁ……ぁ……」
けれどそれ以上は続かない。
五二は恥ずかしそうに俯き、慌ててカードを出した。
『しっぱい』
館長は優しく笑う。
「失敗じゃないわ」
「ちゃんと声、出てたもの」
五二は目を丸くする。
飼育員も大きく頷いた。
「はい。すごく小さかったですけど、聞こえました」
『……ほんと?』
「えぇ」
すると五二は、少しだけ嬉しそうに笑った。
本当にほんの少しだけ。
けれど確かに、表情が柔らかくなっていた。
館長は時計を見る。
「そろそろ時間ね」
五二の肩がまた少し緊張する。
館長はそんな彼女の頭をそっと撫でた。
「大丈夫」
「無理に喋らなくていいの」
「あなたはあなたのままでいい」
五二は静かに目を閉じる。
そしてカードを一枚。
『……うん』
その瞬間だった。
遠くの通路から、元気な声が響いてくる。
「あーっ!!絶対こっちだって!」
「ミズクラゲちゃん、走ると転びますよ」
「えへへ〜!」
「だから言ったじゃないですか……」
館長は苦笑した。
「……もう来ちゃったみたいね」
五二はびくっと肩を震わせる。
だが逃げようとはしなかった。
代わりに、カードを胸へ抱きしめる。
その瞳には、不安と同じくらい。
ほんの少しだけ。
期待の色も混ざっていた。
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