第1話「始まりのお話」
朝の光が、まだ人の気配の少ない館内に静かに差し込んでいた。
ここはアクアリス水族館。世界に三つ存在するうちの一つ――とはいえ、まだ正式に開館したわけではない“準備段階”の施設だ。
広々とした通路には、通常の水族館のような巨大水槽はほとんどなく、代わりに見慣れない装置が各所に設置されている。円形の台座、淡く光るパネル、壁面に埋め込まれた導線。それらは一見すると装飾のようにも見えるが、本来の役割は別にあった。
館内を歩く者の足音は少ない。
だが、その静けさの中には確かに“生きた気配”があった。
「うーん……やっぱりちょっと殺風景じゃない?」
そんな館内を見回しながら、一人の少女が腕を組んだ。
長い髪をゆるく揺らし、水のように透き通る瞳をした少女――アクアリスの一人だ。足取りは軽く、しかしどこか水中を漂うような独特の動きがある。
彼女の視線は、まだ空白の多い展示区画へと向けられていた。
「これ、本当に水族館になるのかなぁ……」
独り言のようなその言葉は、しかし誰かに届いた。
「君は確か、」
背後からの声に、少女は振り返る。そこには館内スタッフの制服を着た飼育員の青年が立っていた。
彼は資料を手にしながら、少し困ったように目を細める。
「ミズクラゲのアクアリスだよ」
少女は何でもないように答えた。
ミズクラゲ。
その言葉と同時に、彼女の存在がこの館における意味を帯びる。
ミズクラゲ:「ミズクラゲ科 ミズクラゲ属 ミズクラゲ」半透明の傘の中央に4つの胃(四つ葉のクローバーに見える)を持つクラゲです。毒性は弱く刺されてもかゆい程度大量発生することもあり別名「ヨツメクラゲ」
説明のような言葉は、しかし誰かの声というより、この存在そのものに刻まれた情報のように響いていた。
「……あぁ、そうだったね、たしかにね、でも、これからさ、」
飼育員は苦笑しながら頷く。
「今の状態の景色を見たらきっとお客さんびっくりするよ。生き物全然いないんだもの、」
「だよね」
ミズクラゲの少女は、あっさりと同意した。
館内には確かに水槽らしきものは少ない。
しかしその代わりに、静かに稼働する装置群が存在している。それらはまるで何かを待ち受けているかのように、淡い光を周期的に点滅させていた。
「ははっ、そうだね、これから増えていく予定だよ。君も、館内を見ていったら、」
「うん!」
少女は軽い足取りで歩き出す。
その動きは水中の気泡のように軽やかで、どこか現実離れしていた。
飼育員はその背中を見送りながら、小さく息を吐く。
「ふぅ、この水族館ってアクアリス何人いるんだろう、アビスを引き寄せる装置があるって聞いたけど、水槽別にあるのに、どうやって移動するんだ?館内を進むのかな、」
疑問は独り言のまま宙に消えかけた。
「全ての水層は水層管でつながっていて、そこから移動するのよ」
背後から、落ち着いた声が割り込む。
振り返ると、そこには一人の女性飼育員が立っていた。
淡々とした表情で、館内の構造図をタブレットに映している。
「先輩、」
青年が言いかけると、女性は軽く手を上げた。
「さ、立ち話はこのくらいにして、点検するわよ」
「はい!」
短いやり取りのあと、二人は館内へと散っていった。
その頃。
「〜〜〜♪」
ミズクラゲの少女は、軽やかな足取りで通路を進んでいた。
まだ展示も整っていない空間は広く、声がよく響く。
「ここってすごく広いな〜〜、オープンしてお客さんが来るの楽しみ」
無邪気な声が反響する。
「そんなに走ったら、転ぶよ」
不意に、別の声が落ちた。
「あ!クリオネちゃん!」
ミズクラゲが嬉しそうに振り返る。
「それは学名、私はハダカカメガイ、」
そこに立っていたのは、白く透き通るような少女だった。
静かな空気をまといながらも、どこか氷のような冷たさと優しさを同時に感じさせる存在。
ハダカカメガイ:ハダカカメガイ科 ハダカカメガイ亜科 ハダカカメガイ属 クリオネや流氷の天使として知られている。殻を持たない巻貝の仲間でオホーツク海などに生息。透明な身体と翼足を羽ばたかせて泳ぐ。大きいもので3cmほどになり肉食でミジンウキマイマイなどを捕食し捕食シーンを見れるのは珍しい。捕食する時はバッカルコーンと呼ばれる6本の触手を出して捕食しその姿は天使とは似ても似つかない
「だって、オープンが楽しみなんだもん、」
ミズクラゲは笑う。
「オープンするのはもっと先、水層はほとんどないし、水がはってないのもある」
ハダカカメガイは淡々と告げる。
「そうだけど〜、」
それでもミズクラゲは楽しげだ。
「....まぁ、その気持ち、わからなくもない、」
「でしょ!」
「.......うん.......ぁ、」
そのときだった。
空気が、わずかに変わる。
音が消える。
光が揺らぐ。
館内の奥にある装置の一つが、低く唸るような反応を示した。
「何、この嫌な感じ、」
ミズクラゲの声が、初めて緊張を帯びる。
「深淵だ、行くよ」
ハダカカメガイは短く言い切った。
「え!うん!!」
次の瞬間、二人は走り出す。
まだ整っていない通路を、まるで当然のように駆け抜けていく。
その先に何があるのか。
それはまだ、この館の誰も完全には知らない。
ただ一つだけ確かなのは――
この場所は、始まったばかりだということ。
アクアリス水族館。
楽園を名乗るその場所で、最初の“異常”が静かに動き出していた。
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次回もお楽しみに




