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泰山庁幽鬼調査課  作者: 十弥彦
挿話
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第五十九話 悠抄、確たる所以を語るの事

「ぼくが術理に詳しい理由、ですか?」

 庁内勤務のある日、常のように大食堂の定位置に陣取り書類の山を捌いていた悠抄が、彩藍のひと言に紙面から顔を上げ青年を見返した。

「はい。外回りの時の術の幅の広さもそうですし、悠抄さんがたまに技術課の主任から引き抜きを持ちかけられていると課長から聞いたので、そう言えば何でかな、と」

 青年の素朴な疑問にふむと頷いた悠抄が玉毛の筆を硯に置いて腕を組むと、僅かに天井を見上げて考え込んだ。

「彩藍くん彩藍くん」

 数瞬黙考した少年型理不尽が、期待の眼差しを向けてくる青年事務官の名を呼ばわり、こてりと首を倒した。

「術なんて術書を読めば勝手に覚えますよ?」

「いえ、そんな天上人のお為ごかしは聞いていないです」

 当人としては自明の理の事実を正直に申告した悠抄であるが、対面の席に座る事務官には、当然取り合ってもらえなかった。

「では、わかりやすい例で説明しますね」

 そう宣って袖口より取り出だしたるは、色鮮やかな大判の曼荼羅であった。

「曼荼羅とは、立体の世界を平面に表現した説明書です。説明書であるからには活用可能なので、この曼荼羅で術を起こすには、ここに描かれている理論をこう好きな方向に回します」

「すみません、出だしから飛躍しすぎなのでよくわかりません」

 白旗をあげて会話の終了宣言をする彩藍であるが、説明魔が中断要求を飲めば悠抄としてあるはずがない。

 再度頷くと、任せろ、と意味不明な自信を以て胸を張った。

「彩藍くん、先程も言った通り曼荼羅とは世界を平面に落とし込んだものです。ならば、世界とは立体化した曼荼羅とも言えますね?」

 すっ、と左手の人差し指を持ち上げると食堂の空中一点に爪の先を向ける。

 そして、当然の如く爪の射線に居合わせた不幸な職員達は慌てて席をずらした。

「ちょ……、悠抄さん、わかりましたのでちょっと待っ……」

「良いですか? ぼくの爪の先にまはーゔぁいろーちゃなさんが坐すものと観想します。それを起点に八方の諸尊さんに少し動いてもらいますね」

 何がどうすればそうなるのか全くもって理解できない彩藍の隙をついて、迷惑生物は己が指差した先を広く見据える。

 しゃん、と涼やかな鈴の音が響いたかと思うと、続いて磬と呼ばれる鐘の音が交互に調子を上げながら鳴り響いた。

 ついで、何か重い物を引きずるような鳴動とともに空間が捻った紙のように渦巻状に引き攣れてゆく。

 捩れる空間の渦の隙間、変哲のない日常に虚無の黒が混じり始めた時、大食堂の入り口をけたたましい音を立てて開け放った灰色の衣の一団は咄嗟に印を組み始め、彩藍は少年の細い腕にしがみついて叫んだ。

「悠抄さん、実践はっ、実践は止めにしましょう! 僕は初心者なので、まずは座学からですよね?!」

 決死の覚悟で取り縋った彩藍の献身で悠抄の腕が下げられたことにより崩壊は霧散し、最悪を回避した灰色集団はその場にへたり込んだ。

「ありゃ、消えちゃいましたねー。あと少しで虚空を覗けたのですが、残念でしたね」

「抄調査官! 思いつきで実害を出すのは止めてくださいとあれほど申し上げたでしょう!」

 一団の代表らしい覆面人物がへたり込んだまま苦情を申し立てるが、諸悪の根源は不思議そうに首を横に倒すのみ。

「大げさですよ、修繕班長さん。中台八葉院を少し動かしただけなので、空間復元力で間に合うはずです」

 けろりと放言する迷惑の具現化に、周囲はそういう問題ではないと拳を握りしめるが、残念なことに一念が通じた様子はない。

 会話の不成立を見て取った避難者の一人が挙手をするとおずおずと進み出た。

「あの、あまり騒ぎを起こされると落ち着いて食事がとれないのですが」

「なるほど、それは重大ですね。大変失礼しました」

 勇気ある一般職員の苦情に、小型食いしん坊は素直に一同に謝罪をする。

 ひとまずは落着と見てぱらぱらと食事に戻る職員達の中、悠抄も自らの席で姿勢を正し、彩藍にも向かいに腰を掛けるよう指示を出した。

「彩藍くんと修繕班さん達の要望もありますし、まずは座学にしますか」

 惨劇回避のための苦肉の策であるが、対処療法とはいえ自ら座学をと口にした以上、彩藍に否やを唱える余地はない。

 悠抄の監視がてらそのまま昼休憩にはいる算段なのか、同情に満ちた処理班員達の視線を受けつつ彩藍が背中を伸ばす。

「では早速始めますが、口伝に曰く術とはですね、世界の反転なのですよ」

 再開された講義は、初心者向けとは程遠い意味不明さであった。

 圧縮されすぎた概念に青年の頭上に盛大な疑問符が浮かぶのを見て取った悠抄は、こてり、と首を倒した。

「彩藍くん彩藍くん、水は火を消せますよね」

「そんなの当たり前じゃないですか」

「はい当たり前です。この当たり前は火を覆うだけの水があるからの当たり前です。では、水を覆う火があった場合の当たり前はどうなりますか?」

 一度肯定してからの即反転に質問者青年が一瞬口籠るも、そこで悠抄が止まれば世話はない。

「さらには、お湯は火と水が打ち消しあった結果とも協力関係を築いた結果の当たり前とも言えますね。ここで大事なのは、これを極論ではなくて当たり前としてあり得ることだという認識をすることです」

 要するにですね、と複雑解説に回帰しようとする混沌の具現化に、彩藍が少し待ってくれと左の人差し指を眉間にあてて、残る右手で説明を押しとどめる。

「真面目に聞くのは良いが、理解しようとすると余計にわけがわからなくなるぞ」

 どうにか理解しようと頭をひねる青年に助け舟を出すかのように、少し高めの声が背後から掛けられた。

 振り返って確認すると、豪奢たる装いに相応しくない、排骨飯と鍋巴を乗せた盆を両手に歩み寄る天猫の姿。

「……天猫さん達も食堂の料理を頼むことがあるんですね」

「この手の料理は勢いがあってこそだからな。家庭料理でおばちゃん達の味に敵うはずがないだろ」

 言うが早いか、悠抄の前に盆を置くと手で好奇心生物を少し下がらせて、五目餡を揚げたての板状の揚げ飯に躊躇することなく回しかけた。

 鍋巴の代名詞とも言えるけたたましい独特の爆ぜる音と漂う香りに近場にいた一般職員のうち数人は視線を一度こちらに向けたあと引かれるように注文口に向かい、対面の彩藍も知らず喉を鳴らした。

 狙い通りの展開に、満足そうに鼻を鳴らしながら自らの席に排骨飯を置いて着席する外見詐欺二号に、彩藍が呆れを込めて溜め息を吐くも、気に留めてもらえるはずもなし。

 そして外見詐欺一号は当然といった様子で匙を手に揚げ飯を崩し始める。

「それで? お前は自分から墓穴を掘って何がしたかったんだ?」

「僕としてはどんな風な日常を過ごせば悠抄さんのようになるのか、と世間話の切っ掛けにしたかっただけなんですが」

 天猫の助け舟により説明地獄より解放された彩藍は、卓の表面に額をつけて己の迂闊さを悔い改める。

「なるほどな。とは言っても、こいつの家は家族そろって変わり者の放任主義だからな。なるべくしてなっただけで、聞いたところで大して参考にならんぞ?」

 元より条件が揃っていれば、出力される結果の日常が真っ当に間違えているだけだ、とさりげなく酷評する相棒の言葉に、間違えた出力結果が気分を害することなく頷いて肯定をしてみせる。

「天猫の言うとおり、うちは至って普通ですよ。実験で三日間くらい部屋に籠もっていても、天猫に叱られるか使用人さんに叱られるかくらいです。ちなみに、天猫は暇があれば厨房で料理しているか、お庭で木人さんを叩いているか、常連さんと組手をしているかですね」

 さらりと告げられる内容に、卓に額をつけたまま三日の内訳を問いたくなる彩藍であるが、学習の成果を発揮して寸前で踏みとどまる彩藍である。

 新たな説明地雷を回避した先で、他の疑問点にぶつかり思わず顔を上げた。

「ちょっと待ってください。前から気になっていましたが、お二方はもしかして入庁前からのお知り合いですか?」

「そうだな、物心ついた時にはこいつが俺の部屋で本を広げていたな」

「はい。そういえば、天猫が火の扱いが難しいと言うので鎮火符を書いてあげたら、竈門全部の火が消えて怒られたこともありましたねー」

 長命種少年達の物心つく頃と言われてもいまいち実感がわかないらしい青年の表情を見て取った天猫が、食堂の大窓に歩を進めつつついてこいと手で指示をした。

 彩藍が手招きに応じて窓際に近づくと、視界の少し先にはこの場からも人通りの多さが伺える商店通りが目に入る。

「海鮮市場通の海側の入り口に宋老酒家って店があるだろ。あれが俺の家だ」

 窓より見える通りの端を指差すと、世間話も顔負けという軽さでもって天猫が衝撃の事実を口にするが、他に含まれる情報に彩藍が待ったを掛ける。

「え? あのお店ですか? 大きいですけどいつ開いているのか分からないお店ですよね。と言うか、潰れていなかったんですか?!」

「潰れてないですよー。たまに開くと常連さんの苦情大会から始まる大盛況なのです。今月は十日から開くらしいので、彩藍くんも行ってみると良いですよ」

 無礼にも程があろう青年の驚愕に、使用人さんが張り紙を出していました、と食間の茶杯を傾ける悠抄が補足を加えた。

「ちなみに、うちの真裏の屋敷が悠抄の家だな」

 だから否が応でも互いに知っているのは当たり前だろ、と彩藍の後頭部を裏拳で軽く小突いて自らも食事にするべく席へと戻る天猫である。

 そして、連続的に齎された衝撃の真実に、改めて窓に張り付く彩藍であった。

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