第五十七話 悠抄、仮面の秘密を明かすの事 その四十九
登る太陽を背に、鴎の鳴く中で波打つ海面の更に上で霊獣に跨る人間という一幅の絵画とも言えそうな理外れた存在を目にしたとき、どのように対応するのが一般人として正しいのか?
「双面様のお戻りじゃぁ……!」
朝の爽やかな潮風の中、ゆるりと波打ち際の散歩と洒落込んでいた長老は、沖合の波上に留まる霊獣とその背の一行を見つけ老体に見合わぬ肺活量で声を響き渡らせた。
「ありゃ、なんだかちょっとだけやり過ぎたみたいですねー」
警笛よろしく声を張り上げる老人の形相に少し引き気味の彩藍に構うことなく、おかしいなとばかりに悠抄が腕を組む。
「まぁ、よくある失敗です。気にする必要はないですね」
うん、と自己満足の頷きをひとつ落とすと少年型自己肯定怪物は騎獣たるくろさんの首を軽く叩いて方向転換を促す。
流れるように終わったことと脳内で処理する悠抄に、彩藍が肩を掴んで意識を引き戻す。
主に対する非礼に狻猊が僅かに不満の声を上げるが、青年としてはそれどころではないと迷惑生物を前後に揺する。
「いや、どう考えても放置できる状態じゃないですよね? 何なんですか、あれは」
「何なんですかと問われても、ただの叫んでいるお爺さんですね。お元気そうで何よりです」
昔取った杵柄と、長年の海仕事で鍛えた肺活量と発声法を駆使する老人を再度一瞥した悠抄が、現状をどう解釈したものかと空中に視線を向けた。
「恐らくは、毎朝海に向かって声を張り上げる健康法とお見受けします。発声は心の負担を取り除き、頭の回転を良くして、津液の巡りも改善しますので、ご近所さんには多少迷惑ですが理に適っていますね」
先程の自らの発言という因果を綺麗に切り分けた悠抄の感想に誤魔化しを述べているやましさは感じられない。
さりとて誤魔化していないとは間違えても言うことはできない。
「悠抄の中では、自分達に変な呼称がついたと失敗は失敗で処理し終わっているからな。内容に関しては、健康法ついでに叫んでるとでも思っているんだろ」
興味のないことに対する悠抄の冷淡さはどうしょうもないから諦めるよりほかない、と経験者として諭すように首を横に振る天猫であるが、彩藍としては相棒によるその中途半端な横着癖が悠抄をここまで栽培してしまったのではないのか? という疑念が胸中を掠めた。
青年の納得していない気配を感じ取ったか、仕方ないな、とゆるく頭を振った天猫が村の一点を確認すると、不審も露わな彩藍の肩を軽く突いた。
「彩藍、あれが何かわかるか?」
猫面の少年剣士が事務青年に視認するよう促した指の先には、以前には存在していなかったと思われる仮組み中の建築物であった。
「門と香炉と供卓らしきものが見えるので、造営途中の祠廟でしょうか? ……というか、非常に嫌な予感しかしないのですが、先程長老が叫んでいた双面様という名前は、あれに関係しませんよね?」
事務青年からの鋭い問いかけに、天猫がうむと勿体ぶって頷いた。
「あいつに限っては別に珍しくもないがな、簡易とはいえ術で他人の意識に干渉する、残った漁師の身体がある部屋に守護の陣を張る、途方もない財物を次々と出して山積みにするなんてことをしたら、お前ならどう取る?」
天猫からの質問返しに、状況を把握した彩藍が思わず頭を抱え込んだ。
「なんで悠抄さんは構成要素が迷惑でできているんですか」
「大丈夫だ。現世の神名が十や二十ついたところで今更悠抄や俺が変わるはずもないだろ?」
な? と青年の上体を少し倒させた上で肩を組んで慰める天猫。
「今回にしたって、おまけでお前も陪神として祀られる程度のことだ」
天猫によりさらりと付け加えられた事実は、決してその程度で片付けられることではなかった。
冗談ではないが、単なる異界の事務員に現世を生きる村人達の行動を指図する権限などあろうはずもない。
まさしく八方塞がりの状況に、彩藍が深く深く諦念の溜め息を漏らす。
「確認しますが、絶対に、変なことなんて起こらないですよね?」
「あぁ、大丈夫だ。細かいことは気にするな」
天猫の回答はまるで回答になっていないが、これ以上問いただしても悪くなれども良くなることはないと踏んだ彩藍が、喉奥で唸りながらも質問を飲み込む。
「では、彩藍くんも納得したようですし、早速漁師さんのお家に向かいましょう」
浜辺に集まりだした村人達の騒ぎもなんのその、飄々と村を眺める天猫と断じて納得はしていない彩藍を引き連れて、今度こそくろさんの首を巡らせる悠抄であった。
〜〜
魂が抜け魄が残るのみとなった漁師の肉体は、悠抄達が旅立った時のまま霊符に守られた状態で寝台に横たわっていた。
「うん、容態は概ね良好ですねー。多少の衰弱は見られますが、意外にも符の効力もまだ続いているし、これなら問題ありません」
正体なく眠り続ける中年男性の状態を確認した悠抄は、手桶の水で手を清めて、緊迫した室内に相応しからぬのんびりした口調で告げた。
「……じゃぁ、旦那はもう大丈夫なのかい?」
「そうですね。思ったよりもずっとお部屋の中に邪気がないのです。邪気は日々少しずつ溜まって人に良くない影響を及ぼしますが、これは奥さんの日々の清めのお手柄です」
知らず場の維持に努めた細君に素直な賞賛を向ける悠抄に、誰ともつかぬ安堵の溜め息が漏れる。
「……無粋で申し訳ないですが、手を洗うほど触れていないですよね?」
「無粋と思うなら黙ってろ。あいつの場合、なんとなくの行動なんだよ」
ぼそぼそと交わす空気を読まない事務青年と猫面少年の会話は、幸いなことに他の人間の耳に届くことはなかった。
「小さい兄ちゃん、父ちゃんは本当に起きてくれるのか?」
混沌生物の裾を引くという子供ならではの蛮勇を披露する兄弟に、彩藍は小さな悲鳴を上げて天猫に頭を叩かれ、くろさんに脛を齧られた。
対して悠抄は少しだけ腰を屈めて兄弟と目線を合わせると、両手でその小さな頭を優しく撫でる。
「はい、大丈夫ですよー。お父さんはお母さんと君達のことをちゃんと覚えていたので、起きたらたくさん遊んでもらってくださいね」
いつになく柔らかい口調に子供達は顔を輝かせ、彩藍はあまりの違和感に背中を掻きむしりたい衝動に襲われる。
「では、お待ちかねの人達もいますし、漁師さんには早速起きてもらいましょう」
宣言して漁師に手を翳すと、その額に記された七星が一瞬赤い光を発し、室内に貼られた霊符が焼け落ちた。
「準備は整いました。君達は、お父さんにこの袋の玉を勢いよく飲ませてあげてください」
悠抄が手招きをして兄弟に袋を渡すと、二人は良い子のお返事をして、兄が父の口を思い切り開き、そこに弟が小さな手で魂の宝玉を容赦なく突っ込んだ。
蘇生作業という名の仕置に、当の子供達と悠抄、そして天猫以外がうわぁという表情で見守る中、漁師は一度大きく息を吸い込むと盛大なむせ返りと共に跳ね起きて黄泉がえりを果たした。
天猫と悠抄が念のため漁師の顔を覗き込んで血色を確認すると、なぜかそのまま立ち位置をずらした。
「おい、漁師。何かひと言あるか?」
「あー、はい。おはようございます?」
本人としては夢現であっただけに今ひとつ実感がわかないのは仕方ないとはいえ、なんとも締まらない第一声である。
「何がおはようだい、この阿呆亭主が!」
頭を搔き掻きずれた挨拶を発する漁師に、その細君が一拍の間を空けたと思うと、一足に詰め寄って拳を突き上げた。
「顎ですねー」
「あぁ、綺麗に顎に入ったな。あれは痛いぞ」
抜け目なく壁際に避難してのんびりと実況する調査官二人組と、迂闊にも至近距離で目撃してしまい顔を反射で反らす彩藍、そしてやんやの喝采を上げる窓外の村人とまさに三者三様である。
「あんまり馬鹿なことやってると、あたしゃ今度こそ子供連れて実家に帰るよ!」
「俺が悪かった。それだけは勘弁してくれ」
左右に同じ姿勢の息子二人を引き連れ仁王立ちをする細君に、漁師が赤味の引かぬ顎に構う余裕もなく寝台の上で正座をして情けを乞う。
観衆の笑いに包まれる部屋の中、引っかかりを覚えた彩藍が耳を押さえて壁際の少年二人に歩み寄る。
「蛇足ですみませんが、もし奥さんの掃除が足らなくて邪気が溜まっていたら、漁師さんはどうなっていたんですか?」
素朴な青年の疑問に、ことり、と仕掛けじみた動きで悠抄が仮面を斜めに倒した。
「そうですねー。邪気に乗っ取られると身体は弱って玉の緒が切れてお亡くなりになります。そして、魂はそのままですね」
平坦ゆえに喧騒の隙間を縫って響く異形面少年の言葉に、傍らの天猫を除く全員がぴたりと口を閉ざす。
「そ、そのままとは?」
「帰る先をなくせど魂が鬼籍に載ったわけではないからな。行く先がなくそれこそ夢界の住人になるしかないな」
つまらなさそうな天猫の補足に、如何に自らが紙一重であったかようやっと自覚をして青ざめる漁師と、常の生活が伴侶を繋ぎ止めた現実の危うさに両手で口元を覆う細君である。
「だからこそ念のために符を置いていったんだけどな」
「はい。数を作ることで彩藍くんの練習にもなりましたし、万が一の時の備えにもなりましたので、まさに一石二鳥でしたね」
練習云々は承諾していないし意図も聞かされていない彩藍としては、それならそうと先に言えという心情ではあるが、長くもない同行の経験上、我道を進みすぎる目の前の二人に質したところで詮無いことであるとも納得してしまう。
「そういうわけで、予備の符は回収して行きますねー」
言うが早いか残りの符が纏め置かれている部屋の隅の卓へと悠抄が歩み寄ろうとした矢先、村人のうち唯一室内で立ち会っていた長老が回り込んで平伏する。
「お待ちくだされ! その御符は双面様が村の者に、ひいては村のためにとご用意くだされたもの、ここはぜひとも御神宝とともに末代までお祀りをさせていただきたく!」
狭い室内にも関わらず形振りかまわぬ老人の様相に小型化したくろさんが前足で床を叩いて抗議するも、村を預かる身としては引くに引けぬ場面である。
「うーん、ですが、持続に難ありですが霊験は書き手に依存しないので、強い符がたくさんあり過ぎるのも良くないですよ? それにこれは彩藍くんが練習するのも兼ねて、予備としていっぱい書いてもらったのです」
「そこを何とか! 先短い老いぼれにご奉公の機会を恵んでくだされ!」
「面倒くさいな。おい、悠抄。一組くらいなら、この符でも悪さのしようもないんじゃないか?」
面倒くさいが勝ったらしい天猫の鶴の一声により悠抄が渋々一組抜き出して老人に差し出し、長老は逃さじと言わんばかりに少年の手に縋り付く。
一度頭上に推しいただくと、一転膝立ちで両腕を高々と突き上げた。
「皆のもの、我らが仲間は無事戻り、我が村の守り神様から新たな御神宝も授かった。よって、今日は一日宴じゃあ!」
本日一番の歓声の中、福の神とされた少年二人は億劫そうに溜め息をつくのであった。




