第五十六話 悠抄、仮面の秘密を明かすの事 その四十八
「少しの不運と不注意が重なって魂が抜けてしまったのは責められるに値しませんが、流されるままぼく達の後をついてきてしまったのは、あまり褒められたことではありませんねー」
古墨の持つ甘やかな伽羅の香りに微かに麝香の気配漂う室内、文机に向かい奉書紙に何かを書き付ける悠抄の背後で、何故か姿揺らめく漁師の影法師が正座で肩を落としていた。
「奥さまがどれほど心細いか分かりますか? 分かってませんねー。特におちびさん達が淋しい思いをしたのはいけません」
「のう、仔細はわからぬが、悠抄様は何をしておられるのじゃ?」
目の前で繰り広げられる光景の意味不明さ加減に堪りかねたなよ竹の姫の問いに、目線を上げた悠抄がほ? と首を傾げる。
「何をもなにも、宝物の由緒を認めているんですよ。これがないと、姫様が他の人に譲るときに困りますよね?」
「これらはこなたの手に負えぬと言うたに、さらりと厄介を押しつけるでないわ。物事の限度を超えたものを持ってきた責任をとって疾く持って帰られよ」
意図したものではないがずれた言葉を返す天然災厄に、月の姫が持ち前の生真面目さで受けてしまい、その光景を見た彩藍が気の毒そうに顔を反らした。
「多分、姫が聞きたいのは何故漁師が正座しているのか、だと思うぞ」
天猫による的確な補足に、彩藍となよ竹の姫は小さく喝采を送り、漁師の影法師は揺らぐ輪郭を僅かに持ち直させる。
そして悠抄は、筆の軸尻を仮面の顎にあて、自らの行いを振り返る。
「うん、ぼくはちゃんとお家に帰るよう説得していましたよ?」
「そうか、こなたには詰っておるやに見えたが、見解の相違であるか」
姫の静かな非難を受けた悠抄が漁師に向き直ると、両隣に天猫と姫を座らせて膝上に小型狻猊を抱き上げる。
そして、余り物の彩藍は漁師の影法師の隣に同じように正座をさせた。
「さぁ、お話を続けましょう」
「ちょっ、なんで僕がこっち側なんですか!」
彩藍のごく真っ当な抗議に、傍観者を決め込んでいた飯依比古は笏を取り出して左手でぱしりと鳴らした。
「うむ、では吾の方から付人殿への沙汰を申し渡そうかの」
「ですから、僕は無罪ですよ! この場で議題に挙がるのは漁師さんですよね?!」
止まらぬ飯依比古の悪のりに、このままでは冤罪免れぬと危惧した青年事務官が慌てて立ち上がって悠抄達の並びの下手に回る。
「彩藍くん」
「はい!」
珍しく鋭く響く悠抄の声に、青年が背筋を伸ばして耳を傾ける。
「さっきからうるさいですよ。少し大人しくして反省しなさい」
そして人型理不尽により続けられた言葉は、まさしく理不尽この上なかった。
さて、と座を正した悠抄が漁師に向かって人差し指を立てて見せる。
「ひとつ、選択肢を提示しますね。もし漁師さんがこのままを望むなら、術で夢界の住人にしてあげます。ただし、漁師さんも奥さんや子供さんも両方関わる記憶を消させてもらいます」
威圧というものもまるでない悠抄の口調に、漁師が一瞬理解が追いつかなかったのか瞬きで問い返す。
「待つ人帰らないと決めた人、帰らない人を待つ人、どちらにとっても取り返しのつかない記憶があるのは不幸の元です。なので、関わった責任としてぼくが一切を処理します」
だから、安心して好きな方を選べと迫る悠抄に反駁をおぼえた彩藍が立ち上がりかけるが、天猫に目線ひとつで制された。
「我が身をもって養うが家父なれども、此が情なくば良人にも子らにも障りとなるゆえ、忘れるも慈悲とも申せような」
詰まらぬ、と言いたげに紙扇を広げる地霊に対し一度俯いた影法師は、顔を持ち上げておずおずと口を開いた。
「……俺は、家族の元に帰りたい……」
「わかりました。では、漁師さんから見て何があったのか、ぼく達にお話してくれますか?」
悠抄の要求に小さく首を縦に振った漁師は、少し目線を空に彷徨わせて口を開いた。
「妻に……衣を買ったんだ」
「え? 蟹じゃないんですか?」
おもむろに始まった漁師の語りと、把握している状況の乖離に思わず口を挟む彩藍であるが、他の聴衆からの冷たい視線を突き刺されて身を縮ませる。
「うちの若いのが邪魔をして悪かったな。気にせず続けてくれ」
普段地味に破天荒な猫面少年に代わりに詫びられるという、若干釈然としない思いを抱える彩藍であるが、さりとてさらなる無調法を働く程の度胸もない。
「俺の妻は、気風もよく嫌な顔せずいつも家を切り盛りしてくれるから、何か礼がしたかったんだ……」
思ったより真っ当な人情話に思わず鼻を啜る彩藍であるが、他の人外連中は何故か白けた気配を漂わせるばかり。
「なるほど、贈り物を外に隠していたので、理由を付けて取りに出かけたんですね? で? そこから本当の川蟹との関係性は?」
人情を解さない悠抄の追及に、漁師が夢現とは違う躊躇いの表情を走らせた。
「漁師さん、今が白状のしどきですよ?」
「……機嫌よくなった妻の前で飲む酒はうまいと思ったから、その酒の肴に蟹があれば、と」
ぼそぼそと力なく続けられた言葉は、想定より遥かにくだらなく響いた。
「まぁ、そんなことだろうとは思ったけどな」
思ったよりは深く、そしてこの上なく浅い理由になんとも表現し難い空気が室内に漂う。
「なぁ、漁師。お前、わかっているのか? お前の家族は結構ぎりぎりの状況に置かれかけていたんだぞ?」
胡座の右膝に頬杖を突いての天猫のひと言に、漁師の影法師と何故か彩藍が首を傾げて説明を要求する。
「簡単なことですよ。あの村は確かに富める村ですけど、飽くまでも村基準なのです。そこに、稼ぎ手が意識不明になっていつ戻るかわからない状態で、残された家族を村がいつまで支え続けられますか、というお話です」
「今は、悠抄が置いていった布の山に気を取られているので、村人連中はそこまで意識が回っていないけどな」
さりげなく明かされた衝撃の仮の事実に、素直で鳴る青年が感嘆の声を上げた。
「そうすると、あの金銀蘭や錦の山は悠抄さんが漁師さんの不在の間のご家族の保証を買うためのものだったのですか?」
「いえ? ちゃんとした干物と醤の対価ですよ? 手持ちが少し心許なかったのであれでも安めにして頂いて申し訳ないくらいなのです」
「お前、品物をちゃんと見てなかったのか? あれらは華原の都だと宮廷に献上してもおかしくない天井知らずの物ばかりだぞ?」
雲上人の感覚で気が付かないのはおかしい、と呆れられるが、小市民事務官としては一緒にするなと返したい気持ちをぐっと飲み込む。
真実のあまりのしょうもなさにだれた空気を引き締めるように天猫が手を鳴らした。
「今までの流れを踏まえてだな、細君を驚かすために贈り物を隠していたというのはまだ情状酌量の余地があるが、ついでに美味い酒を飲むために川蟹の罠を引き上げに行って魂を飛ばした結果が変わらないなら、それは単なる阿呆だぞ?」
「まさしく、親が駄目なら子が苦労するの典型と言えようの。のう、じじ様?」
天猫が呆れも露骨に総括し、なよ竹の姫が養い親の気ままさに対する皮肉込みで評するのを受け、被疑者たる漁師は小さく縮こまり、ついでに当て擦られた飯依比古は我関せずの鉄面皮具合を披露する。
各人各様な反応を見渡した悠抄は、万事解決と腕を組んで大きく頷いた。
「決まりです。漁師さんの身の振り方はともかく、記憶はやっぱり一回消しちゃいましょう」
明るく結論を下す人非人に人外一同は拍手を以て賛成し、迂闊代表の漁師は悲壮を前面に押し出した。
満場一致の裁決に対抗して、常識人代表はがたりと挙手をして場を遮る。
「異議あり! 確かに漁師さんの愚行はどうしょうもなくつまらないですが、ひとまずご家族は大事にしていましたよね?!」
判決官の横暴だと反発する事務青年の弁護は、耳にした限りだと庇っているように聞こえるが、実のところ中々に辛辣である。
守りつつ守護対象の足元に撒き菱を撒き散らすという高度な矛盾を無自覚に繰り広げる彩藍に、漁師がどう反応したものかと輪郭を揺らすがこの場沈黙を守るが得策と虚ろな表情に諦念を付け加えた。
一方、にわか裁判官として反論を受けた悠抄は面白そうな雰囲気を一瞬だけ滲ませた後、殊勝ぶって膝上のくろさんの右前足を掲げた。
「ですが彩藍くん、この漁師さんはしばらくの間賽の河原の子達を眺めて思い出せないことを反省するのもありだと思いますよ?」
「そこをどうにか! お子さん達が淋しい期間が長引きますし、執行猶予ということで!」
ね? と下手に出て裁定者の機嫌を取ろうと努力する事務青年と、これ以上悠抄の興味を引く発言は控えてくれと戦々恐々とする彩藍を見守る漁師。
締まらない修羅場の連続に、なよ竹の姫が物憂げなため息を零した。
「こなたはなぜ、下界くんだりで斯様な茶番を見させられておるのか」
「そう思うなら、しばらくは月で大人しくしているんだな。おい、悠抄。姫も帰る気になったようだし、さっさと話を纏めろ」
猫面相棒の指示に、悠抄がやや不満そうではあるものの仕方ないと頭を振るう。
「では、お家に返してあげますので、しばらくの間禁酒と川蟹断ちを徹底してくださいね? 約束を破ったら、ぼくと天猫で家庭訪問しますよ」
「あぁ、わかった……です。死ぬ気で妻と子供達優先でします」
悠抄による家庭訪問という、朗らかに本日一番の恐怖宣言を受けて生来の実直さを覗かせる回答をするが、だからこそ外野からの気の毒そうな視線は気がつく様子はない。
言質を得た悠抄は満足げに頷くと、ゆっくりと歩を詰めて漁師の額に人差し指をあてた。
次の瞬間、朧に揺らぐ漁師の影法師は消え去り、ゆっくりと開いた悠抄の手の平には七色に煌めく小さな宝玉が転がっていた。
「すみません、その宝玉は?」
「漁師さんの魂魄ですよー。大分無理をしていたので、結晶化しました」
これならば村に戻る間も多少は休まるはず、と芝居がかったため息を零す悠抄。
「もう行かれるか。ならば、預かりものをお渡ししよう」
悶着も終わりと見て取った飯依比古が軽い掛け声とともに立ち上がると、どこからか取り出した竹文様の風呂敷に包まれた箱らしき物を差し出した。
「竹妖怪めの筍の皮じゃ。あやつめが言うに、そなたらが口に出した以上引くはずもないゆえ、先に用意すれば最早顔を合わす必要もなし、と申しておったわ」
「そう言えばそんな約束していましたねー。前もって準備なんて、相変わらず律儀な妖怪さんですね」
素直な感謝とともに受け取る悠抄であるが、飯依比古経由で告げられた会いたくないという主張は気にしないらしい。
「今回の件が片付いたら、またゆっくりと顔を出しますねー」
「今度は粽でも作っていくから、期待して待ってろ」
「うむ。今から楽しみだの。吾も竹めも暇を持て余しているゆえ、客人の訪いはいつでも喜び迎えよう」
迷惑生物三人による、被害候補者の意見を無視した約束に、彩藍となよ竹の姫が竹妖怪に同情の念を捧げる。
そもそも竹の妖怪に竹の皮を使った粽を土産で持参するとはいかなる神経か。
千年竹妖怪の心の平安の為にも忘れ去ってくれればいいが、と考えた彩藍がふと引っかかりを覚えた。
「素朴な疑問なんですが、もし万が一漁師さんがこのままを選んでいたら、悠抄さんは本当に記憶を消してしまっていたんですか?」
これまで旅を共にしてきた経験からあり得ないと承知してはいるも、一抹の不安を隠せない青年に、異形面少年と猫面少年は少しの空白を置いた後、ゆっくりと頭を振った。
「彩藍くん、素直なのは良いことですが、社会人にもなって夢物語をそのまま信じるのはあまり感心しないですよ?」
「は?」
どこか憐れみすら感じさせる悠抄の声に、思わず単音で反問する彩藍である。
「人間を夢界の住人に仕立て上げ、あまつさえ都合よく記憶を書き換えることができる術なんて存在すると思うか?」
馬鹿だなぁ、といつになく慈悲深さを感じさせる天猫の言葉も、混乱に固まる青年の耳に右から入って左へと通過していった。
要するに、漁師に発破をかけるためのはったりに純真な青年までがうまうま乗せられた、ということであろうか。
ならばわかるよう何かしらの合図を寄越せ、と理不尽に拳を握る青年を他所に、迷惑存在二人は楽しそうに退去準備を始めるのであった。




