第四十二話 悠抄、仮面の秘密を明かすの事 その三十四
水流にうねる空のもと、絢爛豪華を斜め上に通り越した人界側の門とは対照的な素朴な門より姿を現した彩藍は、眼前に広がる光景に何とも言えぬ疲労を覚えて嘆息した。
「また山の上ですか……。異界渡りで山に出るのは何でなんですか……」
「前にも説明しましたけど、忘れましたか? 転移門は三脈が視界に収まることが重要なので、必然的に山頂が多いのですよ 先の竜門も、隆起した場所でこそないものの地脈と気脈と水脈の交差点ですね」
ただし、急流ゆえの不安定さから、竜門を関門と認識する現世の存在が潜るには、多大な労力が必要となる、と悠抄が説明するも、不貞腐れる彩藍が感銘を受けた様子はない。
「大体、水界なんて名乗っているのに水底じゃないなんて詐欺もいいところですよ」
「正確に言うと、水界は水中異界だから名称詐欺には当たらないぞ。それにな、水界だろうと数多の生き物の暮らす世界なら、空が海に置き換わるだけで山もあれば平野もあるのは当たり前だろ」
よい機会だとばかりに盛大にぼやく事務青年に、天猫が面白そうに合の手を入れる。
しばしの間寸劇を観察していた悠抄がそんなことよりも、と彩藍を手招いた。
「彩藍くん、水界の山事情はどうでもいいので、少ししゃがんでくれますか?」
悠抄の唐突な要望に不信を感じる彩藍であるが、さりとて断るだけの理由もなく大人しく小柄な少年の前にしゃがみ込む。
青年の目を覗き込み脈を聞くといった医者の真似事のような仕草をしばし繰り広げていた悠抄であるが、やがて満足したのか、よしと大きく頷いた。
視線が離れようとした一瞬、存在の根源まで覗き込まれたような気がしたのは、青年の気の所為か。
「うん、どこからどう見ても彩藍くんですね。魂魄の欠損や変化の兆しは見られません」
「なんか不吉な事を言われた気がするんですが、気のせいじゃないですよね?」
身体検査を終えた悠抄が満足そうに仮面の額の汗を拭う素振りをし、聞き捨てならない語を拾い上げた彩藍がその肩を掴んだ。
「今度は、一体どんな無茶をさせたんですか」
「種明かしをするとですねー、竜門はやはり現世の人達による龍変信仰の影響が強いので、自分をしっかり持っていないと、龍因子を取り込みやすいのですよ」
あっはっはっ、と笑い事ではない事実を明るく朗らかに白状する諸悪の根源に、結果騙し討ちを受けた青年は衝撃のあまり、白木の門柱によろりともたれ掛かる。
「笑い事じゃないですよ! なんだってそんな危険な方法をとったんですか!」
「えー? 彩藍くんが弱水に潜るのは嫌だというので、その次に簡単な方法を選んだだけですよ?」
「存在の消滅と自己の変質の二択に合意した記憶はありませんっ。とにかく、今回ばかりは誰がどう言おうと歩きの山下りなんてしませんからね!」
「ですが彩藍くん、こんなところで立ち往生しても、お腹が空くだけですよ?」
「そんな事は問題にしてません。僕の言いたいのは、不便なところに交通の接点を置くなら、利便を図るくらいの柔軟性があってもいいじゃないか、ということですっ」
完全に開き直りをみせた彩藍の主張に一理を感じたのか、ふむと悠抄が自らの仮面に手を当て考える。
「なるほど、道理ですね。では、今日は彩藍くんの希望に沿って、文明の利器に頼ってみるとしましょう」
想定外に要望が通って逆に訝しむ彩藍とは裏腹に、仮面の少年が何やら軽い足取りで山道を降り始める。
後に続いて良いものか悩む青年の肩を、猫面少年が背伸びと共に叩いた。
「良かったな、意見が通って。言い出しはお前なんだから、結果にもちゃんと責任持てよ」
良かったな、と言う割には相応しくない語句を付け加えた天猫が、表情に哀れを浮かべる小型神獣を抱き上げ相棒の後を追った。
〜〜
「到着しました。ここから里に降りられます」
そう言って悠抄が自慢げに腕を広げた場所は、視界を遮るものの何もないまさしく断崖絶壁という岩棚の先であった。
「利器のりの字もありませんが、悠抄さん、自由落下は文明的行為とは言えませんよ?」
「……たまに思うのですが、彩藍くんはぼく達の事を未開人か何かと思っている時がありますよね」
悠抄をして一般的反応を引き出すという偉業を達成した青年は、しかしその成果を誇ることなく恐々と崖下を覗き込んだ。
「もしかして、この際僕を始末しようとか考えていますか?」
「それならそれで証拠ひとつ残さないので、心配しなくてもいいですよ。ぼくの言う文明の利器は、そちらではなくてこちらです」
来い来いと悠抄が青年の袖引き歩む先には、木で組まれた素朴な櫓と滑車や歯車の機構、そして籠の姿。
「あの、僕の勘違いでなければ、この構造だと垂直にしか降りられませんよね?」
「大丈夫です。ちゃんとあってますよー。これはですねー、滑車で労力を抑えながら、歯車で垂直移動速度を調整する優れものですよ」
「……文明の利器というからにはすごい技術を期待していたのですが、滑車と歯車ってはるか古代の発明品ですよね?」
「彩藍、勘違いするのは自由だがな、文明の利器とは技術の発達に伴って誕生した便利な器具の総称であって、古くなったからといって利器じゃなくなることはないぞ」
天猫の言は真実ではあるが、真実を全て受け入れられるかと言うと、それは別問題である。
どうにか回避できないものかと悪足掻きでからくりを眺めていた彩藍は、その素朴な作りに活路見出し口を開いた。
「利器であるのはわかりましたけど、木で作って壊れたらどうするんですか?」
「心配いらないですよ。使用した人のお話はあまり聞きませんが、壊れたと言うお話も聞いたことがないのです」
使用した人物が少なければ故障に遭遇した人物も比例して少なくなるのは道理である。が、残念ながら安心材料としてはまるで当てにならない。
遠くを見て現実からの逃避を試みる彩藍を脇目に、小型神獣を頭上に乗せた悠抄はよいしょと籠に乗り込み、天猫はひらりと籠に手をかけ飛び乗った。
「ぼくと天猫と彩藍くんとくろさんを合わせて彩藍くん二人分くらいですかね。まぁ、事務官さんはいつも沢山書類を抱えていますし、彩藍くんなら大丈夫ですね」
「なんで、僕含めた全員の合計表現が僕二人分なんですか。まるで人を百貫でぶのように……。いえ、それよりもここはやはり……」
さり気なく一人ずつの移動という選択肢を除外しつつ、うんうん、と見当違いの方向で一人納得する悠抄に、そろりと手を挙げた彩藍が辞退を申し出ようとするも、一瞬早く籠越しに青年の袖を引いた天猫により遮られた。
「俺さっき言ったよなぁ、責任取れって。だからせめて、ひとつくらいは降りられるよな?」
江湖の人間もかくやと言わんばかりに猫面少年に下から顔を覗き込まれた彩藍は、駄々をこねた手前頷かざるを得なかった。
〜〜
水界の都は道行く住人と魚群すれ違う幻想の地、などとは程遠く、人界の街と大差ない現実の空間であった。
異境情緒に薄い大路を歩く彩藍は、通り向こうで世間話に花咲かせる主婦連や駆け回る子供衆を見やり、大きく溜息をついた。
「綱を手繰って必死に崖を降りた先の光景がこれですか。甲斐がないにも限度があります」
「大袈裟な奴だな。必死と言っても昇降籠で降りたのはたかだか岩棚ひとつで、ほとんど山頂からくろに乗せてもらったようなものだろう」
恨み骨髄と不満を零す彩藍に天猫が呆れ声で言葉を返すが、それがどうしたと青年が地面を蹴った。
「距離の長短は重要ではないです。僕は事務官なんですよ。事務官の仕事は筆仕事です。頭でっかちの体力を舐めないでください!」
憤懣やる方なしの青年を見兼ねてか、宥めるように悠抄が下から覗き込んでくる。
同じようにくろさんも覗き込んでくるが、主従のあざとさに青年の舌打ちが聞こえたような気がするのは、気の所為と言うべきか。
「おやつを奢ってあげるのでご機嫌をなおしてください。ほら、そこの屋台のおばさんの栄螺の壺焼きなんておいしそうですよー」
「……別にいいですけど、それって悠抄さんの食べたい物ですよね?」
異形面少年による食欲満点の提案に呆れの視線を含んだ曖昧な回答をした彩藍が、くるりと周囲を回して拾い上げた違和感に首を捻った。「普通に魚が食材として並んでますが、住人の人達は忌避感とかないんですかね?」
「なるほど、面白い視点だな。じゃぁ逆に質問するが、彩藍は市場に並ぶ畜肉で拒否感を感じるか?」
「それとこれとでは話が別では……」
「同じだよ。自分達を含めて生きている連中は、まず自分の腹を満たしてから道徳を考えるんだよ」
後は、と一度言葉を区切った天猫が、頭上でうねる海流の空を眺めてから、面倒くさそうに肩を竦める。
「何か勘違いをしているみたいだが、ここの連中は別に人化した妖怪とかじゃなくて、そもそもそういう種族だぞ」
そもそもの論点の違いにようやく微かな理解の糸口を得た青年の眼前に、くろさんを抱えた悠抄が神獣の肉球をひらひらと振ってみせる。
「おかしいですねー。泰山庁の新人研修では、人界以外の異境の知性を持つ住人さんの中には、人化した妖さんと、別種として成立する人間さんがいる、と習うはずですがね」
「毎度思うんですが、それは本当に新人研修ですか? 少なくとも、僕の受けた研修資料にはそこまで複雑なことは記載されていませんでしたが……」
噛み合わない記憶を主張する悠抄に彩藍が疑念を表明するも、仮面少年の耳に届いた様子はない。
しばしの間唸っていた小型理不尽は、やがて改悪案を思いついたのか手を打ち鳴らした。
「今度、ぼくが教本を作って人事に差し入れしますね」
「却下します。そんな事を見逃したら、僕は庁史に燦然と輝く大悪人になってしまいます」
悠抄の声弾む名案は、事務青年の冷たいひと言で未遂に終わった。
残念そうな声をあげる迷惑生物を無視して、こつりこつり自らの面の額を指先で叩いた彩藍が深々と嘆息する。
「要するに、種の起源が何であろうと、近くにある食材を活かさない手はない、ですか」
「この立地だからな。目の前に食い物があれば手を伸ばすのが生き物だろ」
よくできました、と天猫が背伸びをして青年の頭を撫で、小型狻猊はぽふぽふと毛に包まれた前足で拍手を送る。
そして、善意という名のついた迷惑生物は事務青年の袖を引いて横から口を挟んだ。
「ちなみにですねー、水界では牛さんや豚さんとか、鳥さんのお肉は高級食材なので市場の露店ではなく、専門のお店での取り扱いですよ」
「は?」
「水界も人界も現世の仲間です。なので、門を抜けて商いをする妖さんは実は多いのですよ」
「え……? ちょっと待ってください。いったい何を……」
「それと、魚妖怪さん達もお魚料理が大好物ですよー」
これまでの理論展開と収束を台無しにする悠抄の補足に、収容情報の許容限界を超えた彩藍が本格的に頭を抱えて悩み始める。
思考の袋小路に追いやられた哀れな青年の姿に、思わずといった様子で天猫が吹き出した。
「まぁ、色々と実感がわかないだろうけどな、ここの魚介は美味いから期待して良いぞ」
「まずは龍府でご馳走してもらって、次に町の名物ですねー」
食欲の赴くまま足取り軽く目的地へ向かう二人と一匹の後を、疲労に肩を落とした青年が追うのであった。




