第四十一話 悠抄、仮面の秘密を明かすの事 その三十三
「到着です。右手に見えますのが、名高い竜門ですよー」
独特の節を付けて悠抄が指し示したのは、広大な濁河としては両岸の距離縮まる急湍の、飛沫が舞い轟音が耳朶を打つ光景であった。
「禹門という古名の由来はですねー、水管大帝である文命さんの功績を称えて諡を地名にしたのですが、面倒なのでその辺は省きます」
失格先導役によるいい加減な観光案内を聞き流した彩藍が、方相氏面の額に手を翳して周囲を見回すが、名に違わぬとは言い難い事実に気が付き視線を上方に彷徨わせる。
「……あの、確かに急流は凄いですが、肝心の滝がないですよね?」
「彩藍くん、故事とは全てが正しいとは限らないのですよ?」
極めて真っ当な疑問を口に出す青年に対して、なぜか哀れみを込めた優しい声音で悠抄が諭す。
普段とは方向性の違う親切さだけに腹が立つ、と悠抄の相棒たる猫面少年に訴えてみるも、仕方ないと軽く流されてしまった。
「名所景勝には、名に相応しいところもあれば、名前倒れも山ほどあるなんて、現世に限らず幽世でも似たようなものだろ」
身も蓋もないという表現そのものの猫面少年の回答に、彩藍が顎に手を添え視線を上方へと投げかける。
「確かにそのとおりと言えばそうなんですけど、急落と急流では字は似ていても、それこそ天と地の差ですよね」
「脳内補正というやつだよ。事実としての急湍を登る労役より一段落ちるが、滝には見た目の華やかさがあるだろ」
極めて現実的かつ夢のない天猫の回答に、期待を大きく外された彩藍が肩を落として嘆息する。
「理屈はわかるんですが、ここを遡って龍になると言われてもなぁ……」
理想と現実の落差にぼやく青年に、悠抄が軽く手招きをする。
「そういうときはですね、試してみるのが一番なんですよ。急流は水面下でいくつも渦が巻いていて、うっかり飲まれると浮き上がれないので迫力があって面白いですよ」
「なんで態々試す必要があるんですかっ。たまには正気に返ってください!」
さぁ、試してみましょう、袖引き歩を進める危険生物とさり気なく後ろ足を押す迷惑神獣に、彩藍が声を張り上げ拒絶の意思を示す。
こんな時に限って謎の拘束力を発揮する悠抄の手をどうにか振り祓うと岩にしがみついて威嚇をする彩藍に、常識外存在の二人が不思議そうに顔を見合わせる。
総毛立った猫を連想させる全力拒絶の事務青年に、安心させようと悠抄が軽く手を振ってみせる。
「心配しなくても、ぼくが一緒に入るので危なくないですよ? 竜門は危ないだけの水流なので、弱水の水より御しやすいのです」
そして、彼なりの安心を前面に押し出した説明は、彩藍のしがみつき場所を岩から更に離れた松の木へ移した結果に終わった。
「天猫、困りました。どうやって彩藍くんを沈めましょうか?」
「そうだな。手刀で意識を刈っても体験の意味はないし、さてどうしたものか」
議論の方向性がずれている少年二人組を見上げていた小型化神獣が、人型猫から人型蝉へと進化を果たした青年に視線を転じると、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
〜〜
「大体、門だ門だという割には、何もないじゃないですかっ」
ひとしきりの問答の末、一旦お茶の時間にしようと敷かれた天鵞絨の敷布に座し、茶杯を片手にやってられるかとばかりに彩藍がやさぐれる。
「ちゃんとありますよー。河の中央付近の空間に、次元の裂け目があるのが彩藍くんにも分かりますよね」
「裂け目は門ではありません。僕は門があると聞いてきたのに騙されたんです」
不貞腐れる青年の頑なさに、災厄の源がふむ、と首を捻る。
そして流れるように何某かを袖口より取り出そうとするも、先んじた神獣が悠抄の膝に飛び乗ることで、青年にとっての災難は辛うじて未遂と終わった。
次いで短く響いた神獣の鳴き声によって指名された天猫が、対処すべく面倒くさそうに腰を上げた。
「天猫が対応するんですか? いいですけど、梅花さんの時のようないきなりの認識の書き換えは気の毒ですよ」
「うるさい。あの時は、一応緊急時だったからな。あいつを連れて不安定な霊道なら、ああするのが正解だろ」
のんびりと窘める悠抄に、天猫が面白くなさそうに鼻を鳴らしてそっぽを向く。
何やら碌でもないことだと感づいた彩藍は、自らが招いたことかとひっそりとため息をついた。
では、と仕切り直した天猫が伸ばしてくる人差し指と中指の揃えられた指先を視界に収めた彩藍が思わず軽く仰け反ると、動くな、と鋭い制止の声が飛んだ。
「逃げるな。変に構えると、反動で頭痛がひどくなるぞ。それが嫌なら、目を閉じて口は軽く開けてろ」
中断という選択肢を遠くに放り投げた猫面少年によって動きを封じられた青年が、観念してその指先を受け入れる。
彩藍の装着する方相氏面の額に天猫の指が触れたかと思うと、次瞬青年の体がぐらりと大きく傾いた。
「気持ち悪……、目が回る……」
「ふむふむ、目眩だけですか。説明があったにしてもそれだけとは、やっぱり彩藍くんは優秀ですねー」
まさに他人事とのんびり感心する人型迷惑に、青年が何事か言い返してやろうと思うも、残念なことに揺れ動く視界に阻まれ思考が纏まらない。
しばし間を開けてののち、悠抄に促されて顔を上げた彩藍は、視界に飛び込んで来た圧倒的視覚情報に自らの正気を疑った。
「何ですか、この成金趣味の門は……」
青瓦を戴く屋根の下には黒塗りに金字で竜門と書かれた扁額が掛けられ、濁河の両岸にそびえる金泥塗り込まれた柱には、巻き付く昇竜が彫り込まれていた。
控えめに表現しても悪趣味と言うより他ない視覚の暴力に、青年は頭を抱えて異形面は満足そうに頷いた。
「見えましたね。あれが彩藍くんのご希望の竜門ですよー」
朗らかに追い打ちをかける容赦なしに、自業自得の青年がせめてもの抵抗と正視を避ける。
「あれが故事における成功の分岐点ですか。なんか嫌だなぁ」
「現世の人間の共通幻想の視覚化だからな。成功を世俗の栄達と定義すれば、概念が歪むのも当然だ」
天猫の冷静な言葉は、真実であろうが故に身も蓋もない。
「龍になりたい鯉さんは水流を乗り越え跳ねることで門を潜りますが、ぼく達は潜るだけなのでちょっとずるをしますねー」
悠抄が宣言すると、手の平に乗せた紙片に息を吹きかける。
一片であったはずの紙片は分裂を繰り返し、見る間に岸から門へと繋がる足場を築きあげた。
「渡れるようにしてくださったのはありがたいですが、悪趣味とは言えあんな立派な門を僕なんかが潜れるはずないですよね」
趣味の方向性はどうあれ、威容という点において尻込みをする彩藍に、悠抄が不思議そうに首を傾げた。
「彩藍くん、前に弱水の側でも言いましたが、門は門であって扉ではないのですよ?」
「ですから、それは意味がわかりません」
唐突に繰り出される悠抄の独自理論に、収まったはずの目眩がぶり返した気のする彩藍である。
「単純な建築構造のお話です。塀は内界と外界をつくるために築かれ、門扉は入り口を閉じるために設けられますが、門は潜るために作られた通用口ですよ?」
「ですが……」
「今ぼく達見えている竜門の姿は、天猫の言葉通り共通幻想の視覚化です。竜門の本質は、先にも彩藍くんが言った通り次元の裂け目で、裂け目は門ではありません。門として扉を閉じているのは、現世の皆さんの概念ですよ」
滔々と流れる悠抄の理屈に彩藍が理解の色を方相氏面から覗く瞳に滲ませるが、異形面少年の日常行動による自業自得のせいか。確信となるためには今一歩及ばないらしい。
まごつく二等事務官の背中を押すべく、ずい、と天猫が進み出た。
「ひとつ、良いことを教えてやろう。あの門を頑丈にしているのは現世の連中で、俺達は幽世の人間だ」
存在基盤が違うのだから、相手の流儀に合わす必要もなし、と言い残すと、彩藍に反論の隙を与えず門へと歩み出す。
足早に幻視の門に到達すると一度振り返った後、無言で潜り抜けた。
次いで、悠抄とくろさんが弾む足取りで同じように潜り抜ける。
こうまで実演を見せられて動かないわけにもいかず、彩藍がこれ見よがしに肩を落とした。
「分かりましたよ。行けばいいんですよね、行けば」
やけっぱちの言葉とは裏腹に、恐る恐ると足元を踏みしめる。
やや時間をかけて門前まで到達した彩藍が、二人と一匹が見守るなか大きく息を吸って吐き出した。
「彩藍くん、深呼吸しても現実は変わってくれませんよ?」
「分かってますよ! それでも、世の中悠抄さんじゃないので、一般的感性には心の準備が必要なんです!」
悠抄による無自覚急かしに噛み付いた彩藍が、再度呼吸を整え散った意識を集中させる。
彩藍がまさに竜門の内側に沓の先を差し入れようとした瞬間、何を思ったか悠抄がそう言えばと拳を打った。
「世の中面白い問があってですねー。門が空間を隔てるならば隔離空間を渡った自分は本当に自分なのか、という哲学思考ですね」
「なんで僕が門を潜ろうとした時に思い出すんですか」
全くもって嬉しくない情報をもたらす不吉の使者に、彩藍が着地しようとしかけたつま先を、すぐさま元の位置へと回収した。
どういうつもりだ、と不満を込めて事務青年が睨んでみると、何をどう思ったか悠抄が得意げに頷きを返してみせた。
「人とは、自分で思っているよりも連続変化体なのですよ。外気を取り込んで内気を練る気功だけではなく、爪や髪の入れ替わりといった生き物としての働きも同様ですね。なので、先の哲学問答が成立するのですよ」
意気揚々と発言の補足説明をする解説生物の言葉は、誰も要望をしておらず、そして不安の解消の役には微塵も立たなかった。
「さて、その上でもう一度聞きますが、この門を潜る彩藍は彩藍くんと言えますか?」
のんびりと、されどいつになくしつこい悠抄の問いに、言葉の先を向けられた彩藍が不機嫌そうに両目を眇める。
「随分なこだわりですが、悠抄さんこそ、そちらに渡った今と渡る前は同じだと断言できるんですか?」
「できますよー。今現在こうして考えていられるなら、前と今が同じかどうかは別にどうでもいいのです」
「じゃぁ、僕だって……」
「まぁ、そもそも自分とは何だ、という問いもあるがな」
茶化しとも取れる天猫の声に却って冷静さを取り戻したのか、沈思黙考の末に大きく息を吐いて紙でできた地面を靴底で叩いた。
「その問いの答えも、自分を決めるのは結局自分じゃないですか」
「上出来です。では、こちらへどうぞ」
上機嫌の悠抄の声に誘われて、界を隔てる門を潜る青年であった。




