第四十話 悠抄、仮面の秘密を明かすの事 その三十二
羿に別れを告げて、弱水と雑木林の境の獣道を歩いていたところ、悠抄が何気ない調子でぽつりと切り出した。
「泰山庁の大食堂でも言いましてたが、弱水に逆らわずに沈んでいくと、水界の入り口があるんですが、彩藍くんはこっちがいいですか?」
「比較対象もないのにこっちもそっちもありません。まずは、社会人として相応の方法を提示しください」
極めて真っ当な価値観の青年に、理不尽の権化が常識に見せかけた非常識を突きつけた。
「えーとですね、まずはそのまま飛び込んで、沈んでいく途中で術で空間を切り貼りする縮地術の亜種の方法と、風后さんから借りた宝具で球状の風の膜を作り出して、沈んでいく途中で空間を操作する方法の二種ですね」
「いえ、それは表面は二種類でも実質一種類ですよね。致死率だけを上方調整してどうするんですか」
人外の理屈に基づく論外の提案を繰り出す悠抄に、彩藍が流されることなく危険性を看破してみせる。
そして、なんとかしろ、という念を込めつつ青年が振り返ると、歯止め役たる悠抄の相棒はそこには存在していなかった。
「……え? 天猫さん、どこに……?」
当然いるはずと思っていた存在の不在に、軽く混乱を来す事務官の少し離れた上空からがさりという音が響いた。
音の方向を辿ると、何やら路傍の木に取り付き木登りを嗜む猫面少年の姿があった。
一瞬であれ視界に映る世界がゆらりと動いたような気がしたのは、残念ながら彩藍の気の所為ではないであろう。
「……天猫さんは天猫さんで何をしているのですか、一体」
「見ての通り杏だ。丁度熟れていたからな、通りかかって食わない道理はないだろ」
太い枝に跨り頭上に手を伸ばすと、程良いと思われる実をひとつふたつともぎ取った。
「杏は肺を潤し咳を鎮めるからな。彩藍はよく叫ぶし、丁度いいんじゃないか?」
猫面少年より投げよこされる親切という名を纏った無自覚煽りの果物を受け取った青年は、種々交々の思いを込めて芳香放つ果実に齧り付いた。
「彩藍くん、お味はどうですか?」
「どうも何も、普通の杏ですね。ちょっと酸味はありますが、僕は好きな熟れ具合です」
むぐり、と二個目を頬張る彩藍が方相氏面越しに感想を伝えると、なるほどと頷いた仮面少年が、すっと更に上の枝の実を指さした。
「天猫、くろさんも食べたいそうなので、その上の赤みの強いのを取ってください。あと、ぼくはその隣の柿がいいです」
どうやら人でなし異形面による質問の真意は、青年の感想ではなく毒見にあったらしい。
彩藍が不満とともに果肉を飲み込んで腰に下げた竹筒の水で手を清めていると、悠抄が相棒から投げ渡された杏を確認して満足そうに両手をふわりと合わせる。
悠抄が杏を包んでいた手を開くと、左右のそれぞれに杏とその種らしきものが乗っていた。
ごく自然な流れで悠抄がくろさんに種の乗る手を差し出すと、狻猊が嬉しそうにそれを噛み砕いた。
「あれ? くろさんは種しか食べないんですか?」
「果も食べますよー。でも、こっちの方が好きらしいので、好物は先に食べる派ですかね」
あまりの自然さに思考が前後したのか順番の違う問いを繰り広げる彩藍に、悠抄がのほほんと答えてみせる。
「いや、ちょっと待てよ? いま、丸ごとのまま種を抜いていましたよね……?」
彩藍が遡って問うべきを問おうとした所に、枝から飛び降りた天猫による地面を擦りつける音に言葉がかき消された。
「現実のところだな、彩藍。縮地も嫌、宝具も嫌となると、どう飛び込めば気が済むんだ?」
小刀で器用に柿の皮を剥いた天猫が、種を弾いてくし切りに切り分けた一片を切っ先に刺して相棒に渡しながら青年を窘める。
「さっきの話だが、浮力がなければ水流を操って浮力にすればいいだろ。仮に失敗しても流沙河に流れ出るだけだから、そう悲観するな」
だから心配せずに飛び込め、と言外に背後の弱水を示す人外基準に、そうじゃない、と青年が頭を抱えた。
苦悩する二等事務官を哀れに思ってか、こくりと咀嚼を終えた要らんことしいが両手を打ち鳴らした。
「彩藍くんにはとっておきの秘密を教えてあげましょう。さっき羿さんに会う前に、粘性の水妖さんのお話をしましたよね。実は、弱水も微弱な自我を持つ意識集合体なのです」
これはあまり言いふらすと叱られるのですが、と意味不明なことを言い出した理解不能は、なので、と水辺に歩み寄ると止める間もなく指先を水に差し込んだ。
瞬間、沈み込むはずの悠抄は微動にせず、逆に浸したはずの指先の周囲に僅かな空間が生じていた。
「この様に、とても強い念を込めてお願いすると、こちらの言うことを聞いてくれることもあります」
「……は?」
齎された視覚情報に理解が及ばなかった青年は、一拍置いた後に一語だけで言葉を返した。
「え? いや、沈むって……。えぇ……?」
完全に思考の許容範囲を超えた現象に意味なす言葉を紡げない青年の肩を、猫面とついで異形面が左右から軽く二度ほど叩いた。
「良いか? 念の強さが肝だぞ」
「大丈夫ですよー、彩藍くんなら楽勝でできます。この強さの念を込め続けるのは、ぼくは疲れるので無理ですけど」
調査官組の責任極まりないけしかけに、真面目を以てなる事務官がこつりと人さし指の爪先で自らの方相氏面の眉間叩いた。
「一応伺いますが、断言の根拠は何ですか?」
「だって、お前結構図太いしな」
「はい、隙あらば有給をねじ込んでこようとする彩藍くんの精神力なら余裕なのです」
「……毎度毎度人を鬼のように! あなた達が余計な事をせず、有給も規定通り消化してくれれば、僕の胃は負担がないんでしょうがっ!」
信頼という仮面を被った人型理不尽による煽りに、青年事務官の怒号があがり、神獣の意地の悪い笑いが響いた。
「この際なのでついでに聞きますが、悠抄さんはさっき、どんなお願いを込めたんですか?」
息を切らしての問いかけに、悠抄がこてりと首を倒した。
「さっきですか? お願いを聞いてくれないなら、区切って一か所に押し留めて干上がらせますとお願いしました」
理外の存在による無邪気な高純度横暴に、先の怒号の息切れと相まって彩藍がその場にしゃがみ込む。
「おい、大丈夫か?」
「どこをどう見たら大丈夫と思えるんですか。あのですね、悠抄さんの言い分だと、お願いではなく脅しではないですか?」
頭痛を堪える彩藍の問いを受けた天猫は、一度虚空に顔をけてから青年に目線を戻した。
「まぁ、似たようなものだから、気にするな」
「今更なので別にいいですが、僕にはどれもちょっと無理が過ぎる手段なので、弱水を潜る以外の方法をお願いします」
もう良い、と疲労困憊に手を振る彩藍の懇願により、他の方法を模索するべく、そうですねーと悠抄が腕組み考え込む。
「彩藍くんは登竜門という故事成語を知っていますか?」
検討のためと思われる沈黙の後、例によっての唐突な悠抄の問いかけに、一瞬言葉に詰まった彩藍が少し考えた末に用心深く口を開く。
「泰山庁の任官試験を受けた時に僕もそう言われましたが……、いえ、お二方と比べるとまだまだなのは自覚しています……」
「何のお話ですか? 僕が言っているのは、鯉が龍になる話ですよ?」
慢心と取られぬよう恐る恐る答える青年に、悠抄が意味がわからぬと首を傾げてみせる。
すれ違ったまま互いに溝を埋めようとしない二人に、猫面を手で覆った天猫がひらりと軽く手を振った。
「さすがに彩藍が哀れだ。悠抄、ちゃんと説明してやれ」
「わかりました。世の中にはですね、竜になるための門というものが存在するのですよ」
天猫の指示によりなされた説明は、何故か混迷の度合いを深めただけで終わった。
「よって、登竜門です」
「ですから、立身出世の意味ですよね?」
「はい、鯉が龍になる資格を認められるのは、まさに身の誉れですね」
青年に理解の落ち度はないが若さゆえの語の以上の思いもよらず、仮面の自分基準前提という説明相性の悪さに、永遠と平行を辿る会話の気配を察知したくろさんが、諦めて説明役を交代しろとばかりに悠抄の肩から天猫の肩へと飛び移った。
「あのな、彩藍。濁河上流の禹門という急湍が、別名竜門と呼ばれているんだ」
移って来た神獣を相棒の腕へと戻しつつ、天猫がさり気なく青年の意識を誘導する。
「そうですよね? 比喩であるという僕の解釈が正しいのでは?」
「比喩なのは正しいですが、実は正しくないですよー。より正確に言うならば、伝説から状態に対する比喩に変化して、成果に対する比喩になったのです」
あと一歩の実感に乏しい彩藍に、悠抄が勿体ないとばかりに一歩踏み出し、講義の圧をかける。
「もともとはですね、竜門を潜った事により龍へと変じた鯉さんがいた神話的事実に端を発してですね、そこから一心を込めて頑張っている状態を例える言葉とされて、最終的には成功から逆算して状態変化の分岐点となる関門を表す語となったのですよ」
誰も頼んでいない補足をまくし立てて満足した解説魔が、ところで、と小首を倒した。
「彩藍くんに一つ質問です。鯉が滝を登ったとして、そう簡単に龍になれると思いますか?」
「どんな滝なのか見たことないので何とも言えないですけど、単純に考えるとそう簡単にいくかな、とは思いますね」
「さすがは彩藍くん。現実をよく分かってますねー」
地に足がついた青年の回答に悠抄が拍手で以て称えるが、褒められてもいまひとつ釈然としないのは、日頃の信頼度のなせる技だろうか。
「そうですね。すぐさま龍になれるよりは、竜門を通れるほどの力が確認できた者が竜になるための修行に加わることができる、ですかね」
うんうん、と頷いて肯定する悠抄に、彩藍がはぁ、と冴えない反応を示して首を傾げた。
「そもそもですみませんが、龍ってあとから慣れるものなんですか?」
「なれるぞ? 実際、くろは龍になるための因子持ちだ」
ごく軽く暴露された衝撃の事実に、彩藍が一度悠抄の腕の中で寛ぐ小型化した狻猊を観察し、再度発言者たる天猫に顔の向きを戻す。
「……これが、龍に?」
「お前も大概失礼だよな」
およそ野生味というものを感じられない愛玩神獣の姿に青年事務官が疑念に満ちた呟きを零し、青年の隠れ図太さに猫面少年が肩を竦める。
「くろさんはですねー。実は龍生九子とも呼ばれていまして、九つに分かたれた龍の特徴を持つ神獣ですよー」
自らの騎獣を高く掲げて自慢する悠抄と、主の頭上で偉そうにふんぞり返るくろさんの姿は、信憑性を損ねども上げる要素はもちろん、見受けられなかった。
「竜門があるというのはわかりましたが、悠抄さんの言うことが本当として、龍になれるような凄い門を僕が訳ないですよね」
取り残されるのかという不安と、これで事務員としての日常業務に戻れるという一抹の安堵感の滲む青年の問いに、悠抄が黒さんを掲げたまま上体ごと斜めに傾げる。
「彩藍くんが門を潜るのに、別に問題はないですよ?」
「悠抄さんはそう思っても、残念ですが世間の常識は悠抄さんではないんですよ」
情容赦ない評価を下す青年に、理不尽異形面が神獣を抱えたまま不思議そうに腕を組む。
「門は門で扉ではないですよ?」
「天猫さん、すみません、悠抄さんがまた壊れました」
「言いたいことは分かるがな、悠抄の言うことも真実なんだよ」
面倒くさそうに欠伸を噛み殺す天猫と、こちらも飽きが来たのかくろさんを構って遊び出す悠抄。
会話が成立して成立しない抽象概念どもにいかにして対応すべきか、青年が頭を悩ませるところに、悠抄の声が滑り込んできた。
「一度実際の竜門を目にしてから、改めて説明した方が分かりやすいですね」
その方が彩藍くんのためです、と小型神獣を頭に乗せ背伸びと共に締めくくる悠抄と、特段反対する理由もない天猫が、急遽決定した目的地へと歩を踏み出す。
そして、いつの間にか責任を転嫁された彩藍は、釈然としないものを抱えたまま二人の後に続いた。




