第三十五話 悠抄、仮面の秘密を明かすの事 その二十七
位相の歪みを抜け降り立った仙山の麓は、仙境と聞いて脳裏に浮かぶ景色とは異なる荒涼たる岩の斜面であった。
先の仙島との落差に思わず身震いをする青年を悠抄と天猫が不思議そうに眺める。
「彩藍くん、風邪ですか?」
「あ、いえ、何というかあまりにも蓬島と違うので、頭がついてこないな、と」
「そうか? 仙境なんてこんなものだろ。見た目の割に食べるものがないのは同じだぞ」
彩藍の面の上から熱を測ろうと背伸びする悠抄と、食材視点でつまらなそうに鼻を鳴らす天猫のあまりの通常運転ぶりに、青年が一瞬前とは違う意味で目眩を覚える。
「ちなみに、この辺で採れる物と言うと冬虫夏草と言う薬材があってだな……」
「天猫天猫、それ美味しくないので、ぼくは要らないです。それより先に進みましょう」
説明魔でありながら他人の説明を遮るという理不尽を披露した悠抄は、猫面の頬を搔く相棒を他所に目的地への方角を確認するために周囲に視線を走らせる。
何かしらの目印を見つけたのか一歩踏み出す悠抄だが、出した足を戻して背後の相棒へと向き直る。
二人と一匹は顔を見合わせると、二人は土汚れも頓着せずその場に両膝を付き、一匹はその背後に伏せて場の空気を引き締める。
突如の変貌に、彩藍が状況を飲み込めず狼狽えて周囲に視線を走らせた。
「彩藍くん、頭を下げなさい。来られます」
いつになく鋭い悠抄の言葉に、彩藍が慌てて少年二人に倣って頭を垂れる。
座を正して待つことしばし、微かな鈴のような音が響いたかと思うと、得も言われぬ薫香と、偶蹄目の深い息遣いが地に満ちた。
「悠抄くんも天猫くんも久しぶりだね。元気そうで何よりだよ」
飾りもなければ変哲もない世にいくらでも転がる定型の挨拶ではあるが、騎乗の老人の言葉に、悠抄と天猫がより一段頭を下げる。
「大老爺こそお元気そうで何よりです。態々お運びとは、珍しいですねー」
一拍を置いて面を上げた悠抄の返す言葉は、表面こそ普段と変わらないがやや幼気に声が弾んだ。
「なに、力ある者が久しぶりに周の胡蝶を口にした気配を感じたからね、これは面白いと顔を見に来たまでだよ」
孫を呼ぶかのような老人の手招きに応じた悠抄が、素直に頭を撫でる手を受け入れる。
ありうべかざる恐怖体験の光景に、顔を伏せたままずり下がった彩藍が、こっそりとまだ畏まる天猫の背を突いた。
「天猫さん、悠抄さんの中身がどこかで入れ替わったみたいなんですが、あのお爺さんは何者なんですか?」
「言葉にすると世を揺らす方だからあまり説明はできないがな、玄都におわす大老爺だ」
これで納得しろ、と追及を遮る天猫の言葉に、彩藍が腑に落ちないまでも口を閉ざす。
密やかに交わされる会話に気がついたわけでもなかろうが、鞍上の老人がにこやかな視線を天猫へと向けた。
「君は相変わらず真面目だね、天猫くん」
「俺が真面目でないと悠抄が何をしでかすか分からないんでね、これでも気を張っているんですよ」
茶目っ気と皮肉を織り交ぜて返す天猫は常と変わらぬ筈であるが、何故かこちらも醸し出す壮絶な違和感に彩藍の背にむず痒さが盛大に走り抜ける。
背をかきむしるべきかあるいは違和感のまま回れ右をすべきかと優先順位の低い問答で現実逃避を試みる青年の姿を、牛の背に乗る老人が楽しそうに観察する。
「あの子が紅宸の肝煎りの子かな?」
「はい。彩藍くんです。事あるごとに有給を押しつけてくるしっかりとした良い子ですよ」
天猫の手を借り騎獣から降り立つ老人の傍らで連れの新人を紹介する悠抄は、本人としては告げ口をしているつもりは微塵もない。
ゆるりと音を立てずに近づいた老人が彩藍の方相氏面越しに目を覗き込むが、現実逃避に忙しい青年は反応が半歩遅れてしまった。
「彩藍くんか。確かにこの子達の気に入る類の面白さのようだね」
覚えておこう、と朗らかに告げる老爺に、被害者候補の青年が大慌てで首を打ち振るう。
「滅相もありません。これ以上とんでもない人達に関わるのは僕の神経が持ちませんので、どうぞ捨て置いてください」
当人としては必死な、しかし率直かつ遠慮をしない彩藍の発言は、哀しいかな奇人変人の気に入る要素のみで構成されていた。
「なんとも活きの良い子だ。そうだね、悠抄くん達の呼び方は今の子には古いだろうから、私のことはおおじとでも呼べば良いよ」
「良かったな、彩藍。大老爺から直答のお許しを頂いたぞ」
「ありがとうございます……。何で雲の上の人達はこちらの言う事の意図を汲んでくれないんですかね」
礼と共に苦情を伝えるという高度な技法を駆使する彩藍であるが、残念ながら周囲に届かず落ちて消えた。
気安く頭を撫でる老人に他意はなく、老人の両脇で青年の覚え目出度きを喜ぶ小型理不尽二人には悪意はない。
陽の気に満ち、清く明るく曲がっている世界を正せる偉人は存在しないと言う光景を目撃したのは、少し離れた場で岩柱の影から被弾を免れた神獣のみであった。
「それで、大老爺。この度のご足労は俺達の顔を見に来てくださっただけでは、もちろんないですよね?」
ざっくばらんに本心を問う天猫に、問われた老人が愉快そうに肩を揺らした。
「なに、先にも言った通り、玄女から君たちの話を聞いていたところに周の胡蝶の気配を感じてね、ならば一つ私も力添えをしようかと出しゃばったところさ」
そう言い置いて足元から少し大き目の石を拾い上げると、そのまま彩藍に向かって放り投げる。
落としそうになりながらもなんとか受け止めた彩藍が両手を開くと、無骨な石の姿はなくつるりとした肌を持つ灰色の玉が転がっていた。
「え? 石どこに? うわ、なんだこれ……」
自らの手の中にある変異物を視認した事務官が目を白黒させながら、その物体の正体不明さに意味の成さない声を上げる。
石玉が噛み付くわけでもなかろうが、不明物体に対する心理的抵抗か、腕を伸ばして遠ざけようと無駄な努力を繰り広げる青年をひとしきり観察した老人が満足げに顎をさすった。
「大したものではないが、通行手形程度の役には立つだろう。流石の君たちでも、今の羿に会うには中々骨が折れるだろうからね」
意味ありげな老爺の言葉に、悠抄が仕掛けじみた動作で首を倒す。
「噂には聞いていましたけど、本当に引きこもっているんですねー」
「嫁さんにも弟子にも愛想尽かされたって話か。よく分からんが面倒な状況みたいだな」
腕を組み唸る悠抄の言葉に、言葉通り面倒くさそうに天猫が首を左右に振る。
「要するに大老爺のご希望は、羿に喝を入れろって事ですか?」
億劫さを装った天猫から滲み出る悪戯小僧の気配に、にこやかな笑みを浮かべた老人が黙したまま猫面少年の肩を叩く。
「無理にとは言わないがね。ただ、あの子もそろそろ前を向かねば状況は良くはならん。それはあまりに哀れだろう?」
遠くを眺めて宣う御老に、少年二人と青年そして離れた位置の神獣が揃って首を傾げた。
「天猫、哀れらしいですよ?」
「知らん、俺に聞くな」
合理の固まりたる少年二人は容赦なく突き放し、青年は控えめであるも不理解を示す。
情緒を解さない若者達にひっそりとひとつ息を吐くと、理解度を上げるためにより身近な例を思い浮かべる。
「紅宸に置き換えてみなさい。あの子が伴侶や子らにそっぽを向かれたら可哀想だろう?」
「それは……大老爺の仰せですが、可哀想と言うか、なあ?」
「はい、楽しそうなので見物にいきます」
しかし、理不尽の鬼達は想定以上に鬼であった。
唯一置き換えの効いた青年が面の口元に手を当てるのを期待を込めた目で見届けて騎獣たる牛を呼び寄せる。
「羿さんが籠る理由は分かりましたけど、さっきから出てきている紅宸さんとは誰ですか?」
おずおずと挙手をする彩藍に、天猫がこいつは何を言っているのだ、と言わんばかりに猫面を向ける。
「誰も何も課長に決まっているだろ。お前な、いくら出向先でも上司の名前を忘れるなよ」
「す、すみません。何分、視覚的圧力を気圧されてしまっていたもので」
さり気なく失礼な発言をする事務官だが、もとより失礼の権化たる悠抄が気にすることはない、と軽く手を振る。
「課長は課長なので課長でいいですよ」
意図してのことではないだろうが脳内回線の混線を誘う人型混沌の発言に、追及することなく曖昧な返事で受け流す彩藍である。
「この際なので重ねて質問しますが、悠抄さん達は羿さんとはお知合いではないんですか?」
「そうですねー、昔式典等でみかけたことはありますけど、お話したことはないですね」
「羿は仙でも冥でもなく天に属するからな、基本的に俺達とは接点がないんだよ」
どれくらい昔を想定しているか不明だが空を仰ぎ記憶を遡る悠抄と、興味がなさそうに腰に履いた剣の柄頭を人差し指で叩く天猫に、何やら色々区別があるらしい、と彩藍がぼんやりと朧気に悟る。
説明は後だと告げる猫面に、青年が内心では不要と思いつつも表面上は大人しく首肯してみせる。
繰り広げられる喜劇を楽しそうに眺めていた大老爺が手を掲げて三人の注意を引いた。
「話は終わったようだね。では、私は帰るとするよ」
ところで、と再び騎上の人となった老人が何かを思い出したのか、牛の鼻面を撫でる悠抄に話しかける。
「つまらない事を聞くけれど、私が来なければ君達はどうするつもりだったのかな?」
「簡単ですよ。結界とは砕かれるために存在するのです」
「そうだね。ただ、それでは羿の心の臓が止まるかもしれないから、せめて勝手に裏口を作るだけに留めてあげておくれ」
言葉こそ窘める体裁を整えている老人であるが、被害者候補の許可を得ていないことを気にも留めていない、と言うで点悠抄の言と規模の差こそあれ強行突破であることに違いはない。
ひたすら穏やかに、そしてまっすぐ迷惑な二人組を指さした彩藍が、残る手で天猫の袖を引いた。
「お前な、大老爺は道を体現された方だぞ。そんな方が小さな道理を気にされると思うか?」
今更感の漂う天猫の回答に、これでもかと世の理不尽を感じながらほのぼのを見守らざるを得ない彩藍であった。




