白寿堂は……
藍色に染まる空のした、遠い夕日をわずかに受けた白寿堂がたたずんでいる。建物のなかに明かりの見えないいま、その姿はほとんどシルエットのようになっていて、よつはの好きな緑の前庭も明るいオレンジ色の屋根もそれらをいっそう美しく見せる白い壁も、暗い藍色に沈んでいた。
作業員ももう帰ってしまったのだろう。あたりにひと気はなく、静まり返った庭にパワーショベルが一台、まどろむ化け物のように大きな影を落としていた。
呆然とそれを眺めていたよつはは、ひとつ大きく息を吸って呼吸をととのえる。上下していた肩が鎮まると、あたりの静けさが余計に気に障る。車の走る音やセミの声もここには届かなくて、あまりにもなんの音も聞こえないものだから、静かさで耳が痛い。
「落ち着いて、慌てないで」
母にもらったことばを小さな声でつぶやいて、よつはは意を決して足を踏み出す。
白寿堂を囲うように置かれた三角コーンに渡してある黄色と黒のバーを乗り越えて、その内側に入る。
えぐれていた。
やわらかい緑が広がる白寿堂の前庭が、道路のすぐそばまでえぐられて地面をむき出しにしていた。パワーショベルがその大きなバケットで、えぐり取ったのだろう。いびつにえぐられた地面は夕闇に黒く染まり、まるで傷口のようだった。わずかな光を跳ね返して黒光りする様が血を流す真新しい傷口に見えて、よつはの胸までえぐられたように苦しくなる。
境界線を乗り越えたところで、よつはの足は止まってしまった。失われた前庭を見つめるよつはの頭に嫌な考えがよぎる。
白寿堂の所有者は、白寿堂を手放したがっている。
それは、いつだったか健太郎が言ったことばだった。
本来の白寿堂の所有者である健太郎の父やその兄弟は、白寿堂を気味悪く思っているという。健太郎は「手放したがっている」とやわらかい表現をしていたが、その口ぶりから健太郎の父たちが望んでいるのは所有権の放棄ではなく白寿堂の解体なのではないか、とよつはは考えていた。
けれど、健太郎はそうはさせないと言っていた。そのために古物商としての実績を手に入れて、白寿堂を正式に譲り受けるのだと息巻いていた。
健太郎を信じたい。
けれど、彼の知らないうちに彼の父とその兄弟が結託して、話を進めていたら?
忙しくしている健太郎に気づかれないように業者を呼んで、解体を依頼していたら?
いまはアームをたたんでいるパワーショベルのそのバケットが、明日にも白寿堂に向けられるかと思うと、よつははたまらなくなって駆け出した。
暗くて足元の見えない庭を転がるように走って、玄関に飛びついた。
「だれか、だれかいませんか! 彩さん、珠串さん、花緑青、なかばさん!」
どんどんどんっ。
叫びながら扉を叩く。
「よつは?」
驚いたような声が扉の向こうから聞こえたかと思うと「扉から離れてくれ」とくぐもった声がして、かちゃり、わずかな音をたてて鍵が開く。すぐに開かれた扉の向こうに、目を丸くした店主が立っていた。
いつもどおりの着流しを身にまとい、ほっそりとしてはいるがしゃんと背筋が伸びている。ゆったりした袖から伸びる手はいつもどおりすこし筋張っていながらも、すらりとしている。見える限りでは傷も見当たらない。なにより、暗がりでもいつもと変わらない虹色のきらめきを持った瞳がよつはを見つめていることに、よつはの体は喜びでいっぱいになった。
「どうした。まだは暦は変わっていないのに」
言いかけた店主のことばをすべて聞く余裕もなく、よつははその胸に飛び込んだ。
「よかった! 彩さん、無事だった!」
安心と喜びでいっぱいになった心のままにそのひとの体をぎゅうぎゅうと抱きしめる。思っていたよりもしっかりと広い背中に腕を回すため、よつははいっそう腕に力を込める。店主はわけがわからない、と言いたげな顔を赤く染めて、おろおろと両手をさまよわせる。
「待て、待ってくれ。どういうことだ。説明を、頼むから説明をしてくれ!」
いつになく慌てたその声に続いて、かたん、ことん、ごとんと音がする。それは暗い室内から聞こえてきた。
「どうしたの、なにさわいでるの?」
「もう日も暮れましたのに、ご近所に迷惑ですよ」
「きゅうん」
店主の後ろから姿を見せたのは、花緑青と珠串、それから珠串の足の影に隠れたなかばさんだ。
店主にしがみつくよつはを見たふたりはそろって目を丸くして、それから花緑青は責めるような目つきで店主をにらみ、珠串は咎めるような目つきで店主を見つめた。なかばさんはうれしそうに尻尾を振っている。
「またよつはを泣かせて! 今度という今度は許さないわよ!」
「今度はなにを言ったのですか。ことばには気を配りなさいとあれほど言っておきましたのに……」
ぎょっとした店主に見下ろされてすこしだけ冷静さを取り戻したよつはは、目の奥の熱さと鼻のつんとした痛みを自覚した。これはおそらく、涙目になっていることだろう。
眉を吊り上げた花緑青と笑顔の珠串が店主に詰め寄っているのを見るに、よつはの予想は当たっているはずだ。
いつもどおり仲の良いみんなの姿と元気な様子によつはが顔をほころばせているあいだも、花緑青と珠串の口は止まらない。店主の左右に陣取って口々に文句や苦言を言うふたりに、両手を上げたままの店主が悲鳴をあげた。
「ほんとうに、頼むから。ちょっと待ってくれ!」




