焦る心
よつははキャリーバッグを抱えて居間を駆け抜ける。間の悪いことに台所で作業をしていた母に見つかってしまい、母がなにごとかと驚いて追いかけてきた。
「どうしたの、どこ行くの」
玄関で靴を履いているよつはに追いついた母が、たずねてくる。けれど振り向く間も惜しくて、よつはは履きかけの靴に視線を落としたまま答えた。
「大学。ちょっと早いけど、もう行くことにした」
「ええ? 八月の終わりまではいるって言ってたじゃない。高校の友だちとも遊ぶ約束してるでしょ。どうするの」
「ごめんって連絡する。今は行かなきゃ」
大きな声をあげて驚く母に、よつはは短く返す。
それ以上の問いかけに答えている時間はない、と立ち上がろうとしたよつはは、それが叶わなくて玄関に尻もちをつく。肩にずっしりと重みがかかっているせいで、立ち上がれなかった。
なにごとかと振り返れば、立ったままの母がよつはの両肩を上から押さえていた。
早く行かねば、と焦るよつはに母の声が静かに落ちてくる。
「急いでるのなら、手短に答えて」
いつになく真剣な表情の母に見つめられ、よつはは思わずこっくりうなずく。すると、すかさず座って視線を合わせた母が口を開いた。
「はい、じゃあ質問です。どうして慌てて大学に行くの?」
「友だちが、大変なことになってるかもしれないから」
「大変? なにがあったの。それは危ないこと?」
問われて、よつははすこし冷静さを取り戻した。自分が行ってどうなるのか、どうするのか、考える。
「……危なくはない、はず。だけど、なにがあったかわからない。わからないから、大丈夫なのかどうか確かめに行く。行きたい」
視線をそらさないまま答えれば、母はそう、とうなずいた。それからこてりと首をかしげる。
「母さんにできることはない?」
意外な申し出にきょとんとしたよつはは、母の申し出がうれしくて体からすこし力が抜けた。それではじめて、自分の体がひどくこわばっていたことに気がついた。
「たぶん、ひとりで大丈夫。でも、ありがとう」
「そう?」
母の顔もすこしだけやわらぐ。たぶん、よつはも同じような顔をしているのだろう。
「ところで、よつはは誰のために行くの?」
「誰って、みんなの……」
ほんのちょっと気を緩めたそのタイミングで母がぽとんと落とした質問が、よつはのなかでぼんやりしていた何かをはっきりと照らした。言いかけたことばを止めて、よつははことばを改める。
「ううん、自分のため。みんなが、彩さんが無事かどうか、確かめたいから行く」
まっすぐに見つめるよつはの視線を受け止めて、母はなぜかにっこりと笑った。おおきくうなずいた母は「ちょっと待ってて」と居間に駆け込むとすぐに封筒を手に戻ってきた。
「これ、電車代。向こうに着いたらもう夕方だろうから、気をつけるのよ。危ないことになりそうだったら、行動するまえに一度、連絡してね。それから、落ち着いたらすぐに連絡すること。あと、高校のお友だちに連絡するの、忘れないようにね」
矢継ぎ早に言いながら差し出された封筒を受け取るのをためらったよつはに、母は封筒を握らせてその手ごとぎゅっと握りしめる。
「受け取ってくれたほうが、母さん安心するから。さ、早く行きなさい。大切な友だちなんでしょう。落ち着いて、慌てないで。行ってらっしゃい」
この状況で、いつものように告げられた見送りのことば。それとともに背中をとん、と軽く叩かれれば、よつはも素直にうなずけた。
「ありがとう。行ってきます」
手のなかの封筒をしっかりと握って、よつはは玄関に向かう。その足取りはさっきまでとは打って変わって、しっかりと地を踏みしめて前に向かっていた。
がちゃり、玄関の扉を開けてよつはが昼下がりの陽のしたに出ようとしたとき、うしろで母がぽつりとつぶやいた。
「今夜は家族会議ね。父さんとお兄ちゃんたちが荒れるわぁ」
「なにか言った?」
よく聞き取れなかったよつはが振り向いてたずねても、母はうふふ、と笑うばかり。
「なんでもないわ。こっちは母さんに任せて、行ってらっしゃい」
改めて言われて、よつはは今度こそ振り向かずに駆け出した。最寄りのバス停まで走って、バス、電車と乗り継いだけれど、どちらもいつになくゆっくりと進んでいるように感じられて気持ちが焦る。きっとそんなことはないのだ、と自分に言い聞かせながら、胸のなかで母のことばを思い出していた。
落ち着いて。慌てないで。そのふたつを呪文のように何度繰り返し唱えただろうか。
ようやく大学のある街にたどり着いたときには、日は暮れかかっていた。ここまで来れば、あともうすこしだ。
じわじわと蝉の鳴き声が聞こえる夕暮れの街をよつはは歩きだした。後ろに引かれたキャリーバッグが、カラカラと音を立てる。
カラカラ、ガラガラガラ、ガララララララ。
次第に速くなる足を止められない。母からもらった呪文などとうに吹き飛んだ。
蝉の音も耳に入らなくなったよつはは、街の中を駆けていく。足を進めるごとに暗くなる景色が、よつはの不安をかきたてる。ひたいを流れる汗をぬぐうことも思いつかないまま、息を切らしてひたすら前へと進んでいく。
とうとう白寿堂にたどり着いたときには、あたりはほとんど夕闇に沈んでいた。わずかに残った夕焼けが遠い山の稜線を描きだすなか、よつはは白寿堂を見上げて足を止めた。




