思い出語り
ぱたり、静かな音を立てて閉じた扉を珠串が見つめている。
そこに浮かぶ感情はなんだろう。いろいろな気持ちがないまぜになって、珠串本人もつかみかねているような、複雑な顔をしている。
「……座りましょう?」
放っておいたらいつまででもそこに立っていそうな珠串に声をかけると、はっとしたようにまばたきをして「ええ」とうなずいてくれた。
ステンドグラスの光のなかに戻ったふたりは、とくにことばを交わすこともなく縁台に向かい、おばあさんの使った湯のみをはさんで座る。
「あのおばあさんは」
並んで座る珠串がどこかぼうっとしているのを横目にちらりと見て、よつははことばを探しながら口を開く。
「珠串さんの大切なひと、ですか?」
ぽつりと落とした問いに、珠串は驚いたようによつはを見る。ぱちり、まっすぐに視線がぶつかり合って幾度かまばたきを繰り返した珠串は、困ったように笑顔を浮かべて前を向いた。
「わたくしは、わかりやすいほうではないと自負していたのですが……そんなに顔に出ていましたか」
よつはを見ないままに珠串がそうたずねるので、よつははふるりと首をふる。
「ひとの顔色をうかがうのは苦手です。でも珠串さんの顔が、慎太郎さんの書いた文字を見てるときの店主さんに似ているような気がして」
「はは、さすがはよつはさんですね」
正直に思ったままを伝えれば、珠串はひかえめに笑う。しゃらり、かすかな音を立てた彼の顔は、笑みの形をとってはいるがそれ以外の感情も入り混じった複雑なものに戻っている。
無理に押し殺して笑顔だけを見せられるよりはいい、そう思いながらよつはがじいっと見つめていると、珠串がまた苦笑する。
「あのかたのことはわたくしが一方的に知っているだけです、と言っても、よつはさんには納得していただけないのでしょうねえ」
「納得はしなくても、聞かれたくないなら聞きません。でも、話してくれるなら知りたいです」
よつはの正直な気持ちをすなおに伝えれば、珠串はしゃらしゃらと笑う。
「そうですね。でしたら、この年寄りの昔話に付き合っていただきましょうか」
いつものおだやかさをすこしだけ取り戻した珠串はそう言って、ぽつりぽつりと語り出す。
「お察しのとおりあのかた、山口ミツさんの働く和菓子店にわたくしもおりました。はじめてミツさんにお会いしたのは、あれはミツさんがお家のご用事で和菓子をお求めにいらしたときのことでした」
遠くを見つめながら語る珠串はそのときのことを思い出しているのか、珠串の表情はいつものおだやかな表情よりも、さらにやわらかい。
「そのときには数いるお客さまのひとりでしかなかったお嬢さんをわたくしは迎え、見送っただけでしたから、あまり記憶にも残っておりませんでしたが。それから数年後に、ミツさんは和菓子屋の若旦那と夫婦になりました」
そう言う珠串の顔はあくまでほがらかで、山口ミツに向けた暗い感情を見つけることはよつはにはできなかった。
「それから数十年。和菓子屋ではたらく彼女はすこしずつ年を重ね、子どもができ、いつしか和菓子屋の女将となって采配を振るう姿も、わたくしは店のなかで見ておりました」
振り返って思い出したなつかしさにだろうか、珠串はほほえみながら言う。
「その子どもたちもやがて大きくなって家を出て、ミツさんもかつての若旦那も年をとり、継ぐ者もない和菓子屋が閉店するそのときまで、ずっと見ておりました。そして和菓子屋が看板を下ろすとともに、わたくしは以前より声をかけてくださっていた牧慎太郎さんに連れられて、この白寿堂へ来たのです」
そこまで語った珠串が、にこりと笑ってよつはと視線を合わせる。遠い過去に行っていた彼の意識が、いまこの場所に戻ってきていた。
いつもどおりおだやかな顔をしてみせる珠串をじいっと見つめてみるけれど、それ以上を語るようすはない。与えられた情報をまとめて考えて、はっとしたよつはは立ち上がる。がたり、と音を立てて玄関に向かおうとしたよつはに、珠串が戸惑ったように口を開く。
「どうされました?」
「山口ミツさんを家までお見送りしなければ!」
まだ、ここを出てからいくらも経っていない。でも店の前の道を右に行ったのか左に行ったのか、見ていない。なかばさんにお願いすれば匂いで後を辿れるだろうか。
頭のなかでいろいろと考えを巡らせるよつはに、珠串は首をかしげる。
「それはまた、どうしてそのように思われたのでしょうか」
「長い間ずっと同じお店にいたというのに、山口ミツさんは珠串さんのことを覚えていない。ということは山口ミツさんが珠串さんを忘れてしまうほどもの忘れがひどくなっている、つまり認知症に近い状態にある可能性があります。もしも家の場所を忘れてしまって迷子になって、自分の名前も言えなくなってしまったら……!」
最悪の状況を想像して今にも駆け出そうとしたよつはに、珠串は目を丸くしたかと思えば、楽しげに笑い出した。
しゃらしゃらしゃら。珠串が笑うのといっしょに、かすかな音が聞こえる。
とまどうよつはをよそにしばらく笑っていた珠串は、笑いのなごりが消えないままに口を開く。
「ふふふ、すみません。でも、大丈夫ですから。ミツさんがわたくしを知らないのは、当然のことなのですよ」
どういうことだろうか。よつはが首をかしげると、懐に手を差し入れた珠串はにっこりと笑ってなにかを取り出した。
しゃらり、涼やかな音を立ててよつはの目の前に差し出されたのは、一台のそろばん。
たくさんのひとの手を経ていまここにあるのだろうとうかがわせる飴色に変化した木枠に、何度も何度も繰り返し使われてきたことがわかる角の取れた珠が、ひとつとして欠けることなく揃っている。
そろばんに馴染みのないよつはにも、なにか伝わってくるもののある立派な一品であった。




