いらっしゃいませ
「いらっしゃいませ」
よつはが開けた扉の向こうにいたのは、ひとりの老婦人。ちんまりと丸まった背中にふっくらとまるい顔をした、どことなく福福しい雰囲気を持ったおばあさんが立っていた。
「あれあれ、かわいらしいお嬢さんだねえ。牧さんとこのお孫さんかね?」
「いえ、こちらで働かせてもらっています。中紅と申します」
よつはを見上げて首をかしげるおばあさんにぺこりと頭を下げれば、おばあさんもまたちいさな体をさらに丸めておじぎをする。
「そうでしたか。お嬢さんのおかげかねえ。なんだかここの雰囲気がやさしくなってるような気がして、久しぶりに来てしまってね」
ほがらかなおばあさんのようすに、はじめてのお客さまを迎えるべく固くなっていたよつはの気持ちはすこしほぐれる。そして、おばあさんのことばに気を引かれて口がするりと動いた。
「そうなのですか? まだ働きはじめたばかりなので、以前の白寿堂をご存知でしたら、ぜひお話を聞かせてもらいたいです。どうぞ、おあがりください」
どうやら、このおばあさんは以前にも白寿堂に来ていたことがあるらしい。もしかして健太郎の祖父、慎太郎の話を聞けるかもしれない、とよつははすこしわくわくする。よつはの知らない白寿堂の姿や、珠串が来る以前の店主のことも教えてもらえたら、店主と親しくなるきっかけになるかもしれない。
ゆっくりとした動作で靴を脱ぐおばあさんを待ちながら、よつははそんな考えを巡らせる。
おばあさんが来客用のスリッパに足を入れたのを確認して、ステンドグラスの光が降りそそぐ部屋のなかへと案内すべく先に立って歩きだす。さてどの椅子に案内しようか、とよつはが考えたとき。
「ああ、なつかしい」
ため息をこぼすように言って、おばあさんが早足でよつはを追い抜いた。そして駆け寄ったさきにあったのは、縁台だった。
店主や珠串もしばしば腰かけて、よつはもよく座る縁台だ。
部屋の中央あたりに置かれた縁台に手を伸ばして、おばあさんはやさしく座面をなでる。
「なつかしいね。こんないいところに置いてもらって、きれいに磨かれて。大切に使ってもらっているみたいで、よかったねえ」
親しげに縁台に話しかけるその口ぶりから、おばあさんはこの縁台を知っているようだった。そのことについてよつはが問いかけてみようとしたとき、しゃらりと音がして珠串が姿を見せた。
「ようこそいらっしゃいました。どうぞ、お好きな椅子におかけになって……」
言いかけたことばは、不自然に途切れた。珠串が見つめる先でおばあさんが顔をあげ、ふたりの視線がぶつかる。
「あなたは……」
あえぐように珠串がつぶやいた。おだやかなほほえみをすとんと落とした珠串のようすに、おばあさんが首をかしげる。
「あれ、お会いしたことがあったかね? だれだったかねえ、思い出せないね。ごめんなさいよ、年をとると物忘れが多くなってしまって」
申し訳なさそうなおばあさんに、珠串は口角をあげてにこりとほほえむ。
「……いいえ。あなたがお忘れなのではなく、わたくしが一方的に知っていただけです。以前、和菓子屋の店頭で働いてらっしゃる姿を見ておりまして」
「ああ、そうなのね。こんな美男子を忘れっこないと思ったら、うちのお店に来てくださってたかたかね。それはどうも、ありがとうございます」
珠串が言うのを聞いてぱっと表情を明るくしたおばあさんは、にこにこ笑いながら頭をさげた。珠串も先ほどの不自然さをすっかりぬぐい去り、椅子をすすめながら用意してきたお茶をおばあさんに手渡している。
「あれ、おいしいお茶だこと。なんだか昔、仕事の合間に飲んだ一杯を思い出しますねえ」
縁台に腰かけたおばあさんが、お茶をすすってほっと息をつく。そのようすを眺めていた珠串は、いつもどおりの笑顔を浮かべている。
「それはうれしいおことばです。どうぞ、ゆったりとお過ごしくださいませ」
おだやかなやり取りをするふたりを見ながら、よつはは違和感を覚えていた。
珠串がおばあさんを見たのは和菓子屋さん。珠串が以前、働いていたのも和菓子屋さん。
けれどおばあさんは珠串を知らない。それは単に別々のお店で働いていたからだとすれば、なにもおかしなことはない。けれども、先ほどの珠串のようすが、よつはの心に引っかかっていた。
「こんな美男子とこんなにかわいいお嬢さんに会えるなんて。思い切って来てみて本当に、よかったこと」
つい物思いにふけりかけていたよつはは、おばあさんの声ではっとして気持ちを切り替えた。
違和感はあとで珠串に問いかけてみればいい。いまは、来てくれたお客さまに専念しよう。
「あの、以前にもこのお店に来られたことがあるのですか?」
そっと離れていった珠串にかわり、よつはがおばあさんに話しかける。湯のみを包み込むようにしていたおばあさんは、待っていたようににこにこと顔をあげてくれた。
「はい、そうなのよ。まだ牧さんが生きてらしたときにね。わたしもこの近くでお店をやってたものだから、近所のひとと誘いあってここでお茶したものよ」
色とりどりの光に満ちた部屋のあちらこちらに腰を落ち着けたひとたちが、おだやかに笑いながらなんでもない会話を楽しむ。そんな暖かい時間がこの店にあったのか。
静けさに包まれた白寿堂しか知らないよつはは、その光景を想像してうらやましいような気持ちになる。おばあさんもそのときのことを思い出しているのか、やわらかい表情を浮かべていたが、不意に眉を下げてさみしげな顔になる。
「でも、それもほんの数年だったけれど。牧さんが亡くなる前の数年間だけ。亡くなってからは、この家に住むひともいなくなってしまったみたいでねえ。近寄りがたい雰囲気になっていくものだから、このまま廃墟になってしまうのかしら、ってさみしく思ってたんだけどねえ」
一度ことばを切ったおばあさんは、にっこりとよつはに笑いかけてくれた。
「久しぶりに来てみたら、昔みたいにやさしい雰囲気になっていて、うれしかったねえ。あなたたちがいてくれるおかげかしら」
おだやかに言ったおばあさんは、お茶を飲み干すと湯のみをそっと縁台に置いて、よっこらせと立ちあがる。
お代を、と言うおばあさんは珠串に笑顔で言いくるめられて、すこしだけ申し訳なさそうに玄関に向かった。
「それじゃあね、わたしは隣町に越してしまったからなかなか来られないけれど。このあたりに住んでる友人たちにお店がまた開いていたって、お知らせしておきますね」
「はい、ありがとうございます。おばあさんもぜひ来てください。また、昔の白寿堂のお話を聞かせてほしいです」
ほほえむおばあさんに、よつはは感謝の気持ちを込めてぺっこりと頭をさげる。
いっしょに見送りに立つ珠串もほがらかに声をかけるものと思っていたが、珠串は笑顔を浮かべたまま、ただただ黙って頭を下げるだけであった。




