つまり、どういうことでしょう
しゃらり。
そのそろばんのたてる音に、よつはは聞き覚えがあった。珠串が笑うとき、ほかにも身じろぎしたときに、耳に届くその音。
その音の正体が、珠串の胸元から取り出されたそろばんだとすると。
「つまり……ええと?」
珠串と山口ミツが同じ店にいた、それもかなり長い期間を過ごしている事実があって。けれど山口ミツは珠串を認識していないこともまた事実で。そしてそれは当然のことと、珠串は承知していて。そして、おそらくいつも持ち歩いているだろうそろばんを示してきた、ということは。
「……どういうことでしょう?」
考えに考えて、よつはは首をひねる。
珠串が心配いらないというなら、山口ミツの帰宅に関しては心配しなくて良いのだろう。けれども、いままでの話と目の前のそろばんがどのようにつながるのか、よつはには皆目見当もつかなかった。
そんなよつはの手の上にそろばんを乗せて、そこに自身の手を重ねた珠串はいたずらっぽく笑う。
ぱちりと合った視線のなか、楽しげにきらめいた珠串のひとみはきれいな茶色をしていた。一見すると黒にも見える、けれど光を透かせば飴色の落ち着いた輝きを持ったひとみ。
その色をよつははどこかでそれもつい最近、目にしたことがあるような気がする。そんなことを思っているうちに珠串の姿はするりとかき消えて、よつはの手のなかに残ったのは。
「そろばん……」
よつはの手に残ったのは、珠串が取り出したそろばんだけ。
またたきの間にひとの姿が消えて、物だけがそこに取り残される。その現象をよつははすでに見たことがあった。
緑のワンピースがよく似合う椅子のつくもがみの少女、花緑青にはじめて会ったときにも目にしたものだった。
「珠串さんも、つくもがみ……」
つぶやいたよつはの手の中で、振ってもいないのにそろばんがしゃらりと鳴る。かと思えば、目の前に珠串が立っていた。
「おわかりいただけましたでしょうか?」
楽しげなようすで首をかしげる珠串に、よつはは大きくうなずいた。
「珠串さんはそろばんの姿でずっと和菓子屋さんにいて、山口さんを見守ってきたんですね。だから大切なひとだけど、山口さんは珠串さんを知らない」
よつはがことばに出して頭のなかを整理してなるほどと納得したところに、かたりと音を立てて店主が戻ってきた。その足元に灰色の毛玉は見当たらないから、なかばさんは家のなかのどこかでちょっこりと隠れているのだろう。
「近所の和菓子屋に創業当時から使用しているそろばんがあると聞き、慎太郎は何度も足を運んでいた。つくもがみか否か見抜くような特別な力を持つ人間ではなかったが、店での扱いを見てきっとそうだと言っていた」
店主がそう言えば、珠串もなにか思い出すものがあったのだろう。くすくすと笑い涼やかな音をたてる。
「ええ、本当に何度もお見えになっていましたね。そのたびにミツさんに「これは譲れない」と断られて帰ってはまた数日経つといらっしゃって、うれしそうにわたくしを眺めておいででした。あまりにも何度も足を運んでくださるものですから、和菓子屋を閉店する際にとうとう、慎太郎さんのところへ譲られることとなりました」
よつはは慎太郎に会ったことはないけれど、その熱意は孫の健太郎に似通ったものがある、と感じた。話を聞くかぎり健太郎よりも控えめな人物であったようだ。
「そこの縁台もそうだ」
店主がちらりと視線を送った先には、店の中央でどっしりと構えている縁台がある。たしかに、山口ミツもその縁台を見てなつかしがっていた。
「この縁台はミツさんが嫁いでいらしたお祝いにと、古くからのお客さまがこしらえてくださったものでした。店を閉める際、移り住むお子さんのお宅へは持っていけないけれど、どうしても捨てられないとおっしゃっていて。それならば、と慎太郎さんが引き取ってくださったのです」
そう語る珠串の顔は、やさしくほころんでいる。きっと、引き取ってもらえることが決まったときの山口ミツも、同じような顔をしたのではないだろうか。
「それから、こちらの椅子も和菓子屋からの付き合いですね」
親しみのこもった珠串の目が向けられたのは、縁台からすこし離して置かれた安楽椅子だ。はじめて見たときに、珠串が座ったら似合いそうだと思っていたその椅子。
「ミツさんのご亭主が愛用されていた椅子です。こちらが置かれていたのは、店内ではないのですけれどね。先先代のご亭主から伝わる品なので、わたくしとも長い付き合いになるのですが」
言いながら、そろりと伸ばされた珠串の指が椅子の肘置きに触れる寸前。
ひとりでに椅子が揺れて、珠串の手から遠ざかる。
珠串の手は椅子に届かず、店主の手は着物の袂に差し込まれていて椅子に触れてはいない。
けれど確かに、椅子は伸ばされた手を避けるようにゆらりゆらりと揺れている。よつはが拭き掃除をしたときにだって、そんな動きはしていなかった。
ぱちぱちとまばたきをしてみてもその光景は変わらない。
「どうやら、嫌われてしまっているようなのです」
そう言って手を引っ込めた珠串は、困ったように笑うのだった。




