第9話 自分の馬車
第9話 自分の馬車
十五歳の春、俺は学校を卒業した。
九年間通った校舎を出ても、思っていたほど特別な感じはしなかった。先生から卒業を告げられ、何人かで写真の代わりに似顔絵を描いてもらい、最後に教室を片付けた。それだけだった。
「じゃあね、エリク」
校門の前でエレナが手を上げる。
「うん。また……って、次いつ会うんだ?」
言ってから気づいた。
今までは明日になれば学校で会えた。
でも、もう明日はない。
エレナも少しだけ変な顔をした。
「私、来月にはアルネスだから」
「そんなすぐ?」
「前から言ってたでしょ」
「聞いてたけど」
聞いていたのと、実際に行くのは違う。
エレナはそんな俺を見て笑った。
「何その顔」
「別に」
「寂しい?」
「まあ、ちょっと」
素直に言うと、今度は向こうが黙った。
「……そういうの普通に言うんだ」
「聞いたのそっちだろ」
「そうだけど」
エレナは鞄を持ち直した。
「エリクも運び屋始めるんでしょ?」
「そのつもり」
「じゃあアルネスにも来るじゃん」
「仕事があれば」
「なかったら作れば?」
簡単に言う。
俺が笑うと、エレナも笑った。
「じゃあ、そのうちね」
「うん。そのうち」
今度こそ手を振って別れた。
校門を出てしばらく歩いてから、一度だけ振り返った。
九年通った学校は、昨日までと何も変わらなかった。
家へ帰ると、感傷に浸る暇はなかった。
「着替えろ」
ガルドがいた。
「何でいるの?」
「馬車見るんだろ」
「今日?」
「嫌なら帰るぞ」
卒業祝いの一言くらいあってもいいと思う。
父を見ると、苦笑している。
「ガルド、朝から来てたよ」
「暇なの?」
「荷物持ってきたついでだ」
「それを暇って言うんじゃない?」
ガルドが嫌そうな顔をした。
結局、昼飯を食べる前に出ることになった。
馬車の持ち主は、ミレアから少し離れたところに住む運び屋だった。
名前はハイン。
年齢は父より少し上くらいに見える。庭先には荷馬車が二台置かれていて、そのうち一台はまだ新しい。
俺たちが見に来た古い方は、その奥にあった。
「これ」
ハインが顎で示した。
第一印象は、
古い。
だった。
板は色が抜け、側面には何かにぶつけた跡がある。鉄の金具にも錆が浮いている。
思わずガルドを見る。
「顔に出てんぞ」
「いや……」
「新品が欲しいなら帰れ」
ハインまで笑う。
近づいて荷台を見る。
汚れてはいるが、床板は思ったよりしっかりしている。一部だけ色の違う板があり、そこは後から交換したらしい。
「そこは去年張り替えた」
ハインが言った。
「車輪は?」
「右後ろは二年前。左は……ガルド、お前覚えてるか?」
「俺に聞くなよ」
「一緒に直しただろ」
「あれこれだったか?」
二人で車輪を見始めた。
俺は少し不安になった。
「大丈夫なの?」
ガルドが車輪を蹴る。
「走る」
「その言い方怖いんだけど」
「古い馬車なんてこんなもんだ。壊れたとこ直しながら使う」
ハインも頷いた。
「俺も去年まで普通に使ってたぞ。新しいの買ったから置いてるだけだ」
「何で新しいのに替えたの?」
「でかいの欲しくなった」
横にある新しい荷馬車を見る。
確かに一回り大きい。
荷物が増えたから替えたのだろう。
それなら、少し安心した。
ガルドは荷台の下へ潜り込んだり、車軸を触ったりしている。
俺も真似しようとしたら、
「邪魔」
と言われた。
仕方なく反対側へ回る。
雨除けを掛ける骨組みも残っている。後ろの板戸は少し歪んでいて、閉める時に持ち上げないと金具が入らなかった。
新品にはほど遠い。
でも、自分で使う馬車だと思って見ると、不思議とさっきより良く見えてくる。
「いくら?」
父が聞いた。
ハインが少し考える。
「銀貨十七」
「十五って言ってただろ」
ガルドが荷台の下から声を出した。
ハインが顔をしかめる。
「お前、本人の前で言うなよ」
「言ったのお前だろ」
「それはお前に売るならって話だ」
「俺が買ってこいつに売れば十五だな」
「面倒くせえことすんな」
俺は父を見る。
父は笑っているだけだった。
商人なのに交渉しないのかと思ったが、どうやらガルドに任せる気らしい。
結局、銀貨十五枚になった。
「ガキ相手に儲けても寝覚め悪いからな」
ハインはそう言ったが、ガルドは「最初からその値段だったくせに」と言っていた。
どちらが本当かは分からない。
問題は馬だった。
馬車だけあっても動かない。
ガルドが紹介してくれたのは、街外れの厩舎にいた栗毛の馬だった。
名前はまだない。
「こいつは?」
俺が近づくと、馬がこっちを見る。
耳が動いた。
「六歳。前は農家で荷車引いてた」
厩舎の主人が首筋を撫でる。
「気性は?」
ガルドが聞く。
「大人しい。速くはない」
「速さいらねえ」
「お前はな」
二人の話を聞きながら、俺は馬の顔を見る。
馬もこっちを見る。
鼻を近づけてきたので、手を出すと匂いを嗅がれた。
そのまま服まで嗅がれる。
「何か付いてる?」
「昼飯のパンじゃねえか」
ガルドに言われてポケットを探す。
少しだけ残っていた。
「やるなよ」
厩舎の主人に先に止められた。
「何で?」
「今やったら、お前見るたびに寄ってくるぞ」
パンをしまった。
馬が少し残念そうに見えた。
気のせいかもしれない。
実際に馬車へ繋ぎ、少し走らせてもらった。
俺が御者台へ座る。
手綱を握る。
今まで何度も触ったことはある。
ガルドの横で馬を動かしたこともある。
でも、自分が買うかもしれない馬を、自分が買う馬車に繋いで走らせるのは全然違った。
「前見ろ」
横からガルドに言われる。
「見てるよ」
「馬の尻見てたろ」
「ちょっとだけ」
「買う前から浮かれんな」
浮かれていた。
否定できない。
道を少し走り、曲がって戻る。
馬は素直だった。
急に止まることもない。
変な癖もなさそうだ。
「どう?」
厩舎へ戻ると父が聞いた。
「欲しい」
早かった。
父が笑う。
「値段聞いてから言いなさい」
銀貨二十一枚だった。
父が十九まで下げた。
そこはちゃんと商人だった。
家へ戻ってから、机の上に金を並べた。
俺が今まで貯めてきた金。
商会を手伝ってもらった分。
ガルドの仕事を手伝った分。
祝いでもらって、そのまま残していた分。
全部出した。
足りない。
当然だ。
馬車十五枚。
馬十九枚。
それだけで銀貨三十四枚。
縄や雨除けの補修、工具、飼料もいる。
父が向かいに座って数えていた。
「思ったより持ってたね」
「使ってないから」
「その歳ならもっと使っていいと思うけどなあ」
兄ならとっくに使っている気がする。
俺は黙って金を見る。
父が指で銀貨を一枚弾いた。
「足りない分、出そうか?」
「借りる?」
「いや」
父は首を振った。
「独立祝い」
俺は顔を上げた。
「全部は駄目だよ」
「全部じゃないよ。足りない分の一部」
母が横から口を挟む。
「一部?」
父が少し小さくなった。
「……少し多めの一部」
「ヨハン」
「だって最初は必要だろう?」
母はため息をついた。
止めるのかと思ったが、そうではなかった。
「最初から甘やかしすぎるなって言ってるの」
「分かってるよ」
本当に分かっているのか怪しい。
俺は二人を見る。
「ありがたいけど、自分でも払うよ」
「もちろん」
父はすぐに頷いた。
「だから祝いなんだよ。全部出したら意味ないだろ?」
そこはちゃんとしていた。
翌日、馬車と馬を正式に買った。
馬車を商会の裏へ持ってくると、兄が腕を組んで眺めた。
「思ってたよりボロいね」
「最初に言うことそれ?」
「でも悪くない」
兄が荷台へ乗る。
床を踏む。
「ここ直した方がいいんじゃない?」
「そこは俺も思ってた」
「ここも」
「そこも」
「じゃあ結構あるね」
言わないでほしい。
父は横で楽しそうにしている。
母は馬の方へ行き、何か話しかけていた。
「名前決めたの?」
母に聞かれる。
まだだった。
馬を見る。
栗毛。
大人しい。
少し食い意地が張っていそうだ。
「……あとで決める」
「今決めないんだ」
「適当につけたくない」
ガルドが後ろから来た。
「馬は名前より餌だぞ」
「分かってるよ」
「蹄も見ろ」
「分かってる」
「水――」
「分かってるって」
うるさい。
でも、少し嬉しかった。
夕方、商会の裏に馬車を置いた。
誰もいなくなってから、もう一度見に行った。
古い。
傷もある。
直したいところも多い。
それでも、俺の馬車だった。
前世では会社のトラックに乗っていた。
自分の車両ではない。
仕事が終われば鍵を返す。
今、目の前にあるものは違う。
これで仕事をする。
これで稼ぐ。
これで失敗もする。
荷台へ手を置く。
板は昼の熱を少しだけ残していた。
「よろしく」
誰もいないので、小さく言った。
馬が厩舎の方で鼻を鳴らした。
聞こえたわけではないと思う。
でも、それで十分だった。




