第8話 卒業の先
第8話 卒業の先
十四歳になった秋、学校で卒業後の進路を聞かれるようになった。
卒業まで、まだ半年近くある。
それでも商家や職人の家では、十五歳になってから慌てて仕事を探すわけではない。家業に入る者はともかく、よその店や工房で働くつもりなら、そろそろ話を決めておく時期らしい。
その日の授業が終わると、先生が教壇の横に生徒を一人ずつ呼び始めた。
俺は自分の番を待ちながら、窓の外を眺めていた。校庭では年下の子たちが走り回っている。その向こう、学校の塀越しに荷馬車が一台通っていった。
つい目で追う。
「エリク」
呼ばれて振り返った。
「はい」
先生のところへ行くと、机の上には何人分もの紙が積まれていた。
「ベルナー商会に入る、でいいのか?」
いきなり聞かれた。
「いや」
先生の手が止まる。
「違うのか?」
「多分」
「多分?」
困った顔をされた。
俺も少し困った。
やりたいことは決まっている。
ただ、まだ父にもはっきり話していない。
「運び屋をやりたいと思ってます」
先生は少し黙った。
怒られるようなことではないはずなのに、妙な間だった。
「……御者として雇ってもらうのか?」
「自分でやりたい」
今度はもっと長く黙った。
後ろで順番を待っている誰かが椅子を鳴らした。
先生は一度そちらを見てから、声を少し落とす。
「馬と荷馬車は?」
「まだないです」
「仕事は?」
「最初は実家の商会から回してもらえると思います」
「ヨハンさんは知ってるのか?」
そこだけ答えに詰まった。
「……多分、気づいてると思う」
先生が額を押さえた。
「それは知ってるとは言わない」
ごもっともだった。
紙には何かを書かず、俺の名前の横に小さく印だけ付けた。
「まず家で話してこい」
「はい」
「次」
追い払われた。
席へ戻る途中、エレナと目が合った。
笑っている。
嫌な予感がした。
案の定、学校を出たところで待っていた。
「先生、すごい顔してたね」
「見てたの?」
「見えるでしょ。教室なんだから」
エレナは鞄を抱え直し、俺の横を歩く。
「それで?」
「何が」
「運び屋になるの?」
聞こえていたらしい。
「なるつもり」
「ベルナー商会じゃなくて?」
「兄さんが継ぐし」
「それは知ってるけど」
少し前を歩いていた同級生たちが、卒業したらどこで働くかという話をしている。鍛冶屋の息子はそのまま父親の工房へ入るらしく、別の一人は伯父の店へ行くと言っていた。
こういう話が増えた。
少し前まで、授業が終われば何をして遊ぶかしか話していなかった気がする。
「エレナは?」
聞くと、すぐには返事がなかった。
横を見る。
地面の小石を靴先で蹴っている。
「アルネスに行く」
「え?」
思わず足が止まった。
エレナは二歩ほど先へ進んでから振り返る。
「領都。商会で人を募集してるんだって。お父さんの知り合いが紹介してくれるみたい」
「いつ決まったの?」
「まだ決まってないよ。これから」
「そうじゃなくて」
「行こうって思ったのは?」
頷く。
エレナは少し考えた。
「夏くらいかな」
初耳だった。
「言ってなかったっけ?」
「聞いてない」
「じゃあ言ってないんだ」
「適当だな」
「エリクに言われたくないけど」
何も言い返せなかった。
俺だって自分で運び屋を始めたいことを、今日までちゃんと誰にも話していない。
また歩き出す。
しばらく二人とも黙っていた。
ミレアの通りは夕方前の人で少し混み始めていた。八百屋が店先の籠を片付け、向かいでは肉屋の男が水を撒いている。どこかから焼いた玉ねぎの匂いが流れてきた。
「アルネスか」
「何、その言い方」
「遠いなと思って」
「馬車で行けるじゃん」
「そりゃ行けるけど」
初めて行った日のことを思い出す。
尻が痛かった。
人が多かった。
臭かった。
焼き菓子はうまかった。
「楽しいと思うよ」
「急に何?」
「アルネス」
エレナが少し笑った。
「エリク、馬車しか見てなかったんじゃないの?」
「ちゃんと街も見てたよ」
「本当に?」
「多分」
「ほら」
笑われた。
通りの分かれ道で、エレナが足を止める。
「じゃあ、また明日」
「うん」
二、三歩進んだところで、エレナが振り返った。
「エリク」
「何?」
「ちゃんとお父さんに言いなよ」
「分かってる」
「今日ね」
「今日?」
「先生にも言われてたでしょ」
そこまで聞こえていたのか。
エレナは満足そうに手を振って、自分の家の方へ歩いていった。
ベルナー商会へ戻ると、父はいなかった。
代わりに兄が倉庫で木箱を数えている。
「父さんは?」
「商談。夕方には戻ると思うけど」
アルトは帳面に数字を書き込みながら俺を見る。
「何か用事?」
「ちょっと話」
「金?」
「なんでだよ」
「その歳で父さんに真面目な話って言ったら金かなって」
「兄さん、俺を何だと思ってるの」
「弟」
答えになっていない。
手伝おうとしたら、「今日はもういい」と追い出された。
仕方なく家へ戻った。
父が帰ってきたのは、夕食の少し前だった。
俺は何度か話しかけようとした。
一度目は母に「手を洗ってきて」と言われた。
二度目は父が先に「今日すごく腹減ってるんだよね」と言った。
三度目で、もう食卓についていた。
結局、夕食がほとんど終わってからになった。
「父さん」
「ん?」
父は皿に残っていた最後のじゃがいもを食べようとしていた。
「卒業したらなんだけど」
じゃがいもが止まった。
母もこちらを見る。
兄はパンを食べたまま、なぜか少し笑っている。
「運び屋をやりたい」
父はじゃがいもを口へ入れた。
噛む。
飲み込む。
水を飲む。
なかなか返事をしない。
「……聞こえた?」
「聞こえてるよ」
「なら何か言ってよ」
「今飲み込んでたんだよ」
そんなことを言いながら、父は椅子の背にもたれた。
「自分で?」
「うん」
「ガルドのところで働くんじゃなくて?」
「最初から自分でやりたい」
母が口を挟んだ。
「馬車は?」
「買う」
「馬も?」
「うん」
「お金は?」
来ると思った。
「今まで貯めた分がある。全部は無理だけど」
母の眉が少し上がる。
いくら持っているか知っている顔だった。
父は腕を組むでもなく、難しい顔をするでもなく、しばらく机を見ていた。
「なんで運び屋なの?」
意外な質問だった。
「好きだから」
言ってから、少し子供っぽかったかと思った。
でも他に一番合う言葉がない。
「荷物を積んで、届けて、また別の荷物を積んで帰ってくるのが好きなんだと思う。ガルドの仕事についていった時も、大変だったけど楽しかったし」
父は黙って聞いていた。
「それに、商会で働いてると運び屋を探してるのをよく見るだろ。逆にガルドたちは荷物探してることもある。そういうの見てると、自分でやってみたい」
そこまで言って止めた。
もっと考えていることはある。
でも、今全部話しても仕方がない。
父が母を見る。
母は肩をすくめた。
「私じゃなくて、本人と話して」
「そうだね」
父が俺に向き直る。
「いいんじゃない?」
あまりに軽くて、聞き間違えたかと思った。
「いいの?」
「やりたいんでしょう?」
「そうだけど」
「じゃあやってみればいいよ」
兄が笑い出した。
「父さん、軽すぎ」
「そうかな」
「普通もうちょっと反対したり、考えろとか言うだろ」
父は少しだけ困った顔をした。
「でもエリク、何年も前から馬車ばっかり見てるし」
「ばっかりではないよ」
「ガルドが来たら仕事止めて見に行くじゃない」
「止めてない」
「遅くはなるね」
母まで参加してきた。
どうやら俺が思っていたより、とっくに気づかれていたらしい。
「ただし」
父の声が少し変わった。
さっきまで笑っていた兄も黙る。
「仕事としてやるなら、家の荷物だからって甘くはしないよ」
俺は父を見る。
「運賃も決める。荷物を壊したら話もする。遅れれば困るし、他にいい運び屋がいればそっちへ頼むこともある。最初の仕事は回せるけど、ずっとベルナー商会だけで食べていけるとは思わない方がいい」
「うん」
そこは最初から、そのつもりだった。
家族だから無料で荷物をもらうだけでは仕事にならない。
「あと馬車と馬だね」
父が指を折る。
「新しいのは高いよ」
「中古でいい」
「馬も?」
「ちゃんと働けるなら」
父が少し笑った。
「そこはガルドに聞いた方がいいかな」
「またガルド?」
兄が言う。
「詳しいからね」
「そのうち家族より家にいる時間長くなるんじゃない?」
「それは嫌だなあ」
ちょうどその時、玄関の方から声がした。
「旦那ー、いるかー?」
全員が止まった。
母が目を閉じる。
兄が吹き出した。
俺も笑った。
父だけが、少し嫌そうな顔で玄関を見た。
「……噂をすれば」
ガルドだった。
話を聞いたガルドの第一声は、
「馬車?」
だった。
父が頷く。
「エリクが卒業したら運び屋やるって」
ガルドは俺を見る。
「本気だったのか」
「何だと思ってたの?」
「ガキの趣味」
ひどい。
ガルドは荷札を父へ渡し、それから少し考えた。
「中古でいいなら、一台心当たりあるぞ」
今度は俺が黙った。
「本当に?」
「まだ売るか決めてねえけどな。知り合いが荷馬車替えるって話してた。古いが、使えなくはない」
父の顔つきが少し商人らしくなる。
「いくらくらい?」
「さあな。本人に聞け」
「馬は?」
俺が聞くと、ガルドは眉を寄せた。
「一気に聞くな」
「だって必要だし」
「卒業、明日じゃねえだろ」
それもそうだった。
ガルドは帰り際、俺の頭を軽く叩いた。
「まず学校卒業しろ」
「分かってるよ」
「あと荷札はちゃんと見ろ」
まだ覚えていた。
玄関が閉まる。
父が俺を見る。
「話、早く進みそうだね」
「父さんが呼んだんじゃないよね?」
「呼んでないよ」
母が片付けながら呟いた。
「毎日のように来るからでしょう」
誰も否定しなかった。
その夜、部屋へ戻ってから机の引き出しを開けた。
中には、今まで貯めてきた金が入っている。
商会の手伝いでもらった分。
ガルドについて働いた時にもらった分。
使わずに残してきた小さな金が、少しずつ増えていた。
まだ馬と馬車を両方買えるほどではない。
それでも以前とは違う。
卒業したら。
そう考えていたものに、初めて形が見えた気がした。
俺は引き出しを閉めた。
明日は学校だ。
まず、それを卒業しろ。
ガルドの言葉を思い出して、少し笑った。




