第7話 運び屋の一日
第7話 運び屋の一日
十三歳の夏、俺は初めてガルドの仕事に一日ついていくことになった。
きっかけは、ベルナー商会の裏手で荷物を積んでいた時だった。俺が麻袋を肩に担ぎかけると、荷台の上にいたガルドが「エリク、それ違うぞ」と声を飛ばしてきた。
袋の口についた札を見る。豆。隣が麦だった。
「見た目ほとんど同じじゃん」
言い訳しながら袋を戻すと、ガルドは鼻を鳴らし、正しい方を軽々と肩へ乗せた。
「だから札が付いてんだろ。持つ前に見ろ」
「まだ間違って積んだわけじゃないし」
「そういう奴が、そのうち間違って積むんだよ」
どすん、と荷台へ麦袋が落ちた。
少し離れたところで帳面を見ていた父が、その音で顔を上げた。
「ガルドの言うことは聞いといた方がいいよ。僕も昔、一度やったから」
「父さんが?」
「一度じゃねえけどな」
ガルドがぼそっと言い、父がゆっくりそちらを見る。
「余計なこと言わなくていいよ」
「何を間違えたの?」
聞いてみたが、父は帳面へ目を戻した。
「昔の話」
「それ絶対ひどいやつじゃん」
「昔の話」
二回言った。教える気はないらしい。
ガルドは最後の縄を締め、腰を伸ばしたところで急に俺を見た。
「そういや、お前明日学校は?」
「休みだけど」
「じゃあ来るか」
何のことか分からず黙っていると、ガルドが眉を寄せた。
「仕事だよ。朝から一日。嫌ならいい」
「行く」
即答すると、今度は父が俺ではなくガルドを見た。
「危ないことさせないでよ」
「何年俺に荷物頼んでんだよ」
父は少し笑った。
「長い付き合いだから言ってるんだよ」
ガルドは最後まで意味が分からない顔をしていた。
その日の夜、母に話すと着替えを一枚持っていけと言われた。
「日帰りなのに?」
「夏でしょう。どうせ汗だくになるわよ」
母は俺の返事を待たずに棚から布包みを出し、黒パンや燻製肉、チーズを詰めていく。
ちょうどそこへ荷札を届けに来たガルドが台所を覗いた。
「お、飯か」
母はもう一つ包みを作り始める。
「あなたの分もあります」
「俺の?」
「エリクのを取られると困るので」
「取らねえよ」
母が手を止めてガルドを見る。ガルドも見る。
先に目を逸らしたのはガルドだった。
「……昔、一回あっただけだろ」
「アルトのお菓子ですね」
「覚えてんのかよ」
「母親ですから」
それ以上、ガルドは何も言わなかった。
翌朝は、まだミレアが完全に起きる前に出た。東の空が白み始めている。家々の窓は閉じたままなのに、パン屋の煙突だけはもう煙を吐き、通りの端では眠そうな男が箒を動かしていた。
荷台には塩、穀物、布、小箱。今日はアルネスではなく、南東へ伸びる街道沿いの町や村を何か所か回るらしい。
「これ全部配るの?」
御者台の横を歩きながら聞くと、ガルドは手綱を直したまま「ん」とだけ返した。
「それで終わり?」
「終わらん」
それ以上は喋らない。
前なら続けて聞いたかもしれないが、今日はやめた。どうせ行けば分かる。
最初の村では、小さな商店の前へ馬車を寄せた。
ガルドが荷台へ回る。
「塩二つ、布一つ」
俺は反射的に袋へ手を伸ばしかけ、そこで止まった。
札を見る。塩。
今度は合っている。
横を見ると、ガルドもこっちを見ていた。
「合ってるよ」
「聞いてねえ」
絶対確認していたくせに。
塩袋は思ったより重かった。抱え込むように一袋ずつ店の奥へ運び、最後に布を置く。たった三往復なのに腕が張る。
すると店主が帳面を見ながら声を上げた。
「あれ、油は?」
俺は足を止めたが、ガルドは入口の柱にもたれたままだった。
「それ昨日頼んだやつだろ」
「昨日?」
「俺が荷を受けたのは一昨日」
店主は眉間に皺を寄せ、しばらく帳面を見た。
「ああ……そうだったか?」
ガルドは肩をすくめるだけだった。
「じゃあ次か」
「ベルナーに聞け」
「お前また来るんじゃないの?」
「知らん」
「冷たいなあ」
「仕事増やすな」
店主は笑って奥へ引っ込んでいった。
外へ出ると、ガルドは水筒の栓を開けた。
「怒らないんだ」
ガルドは横目だけ寄越して一口飲み、そのまま俺へ水筒を渡してくる。
「何に」
「注文したのに無いって言われたの」
「俺が忘れたなら謝る。違うなら知らん」
それで終わりだった。
水はぬるかったが、朝から荷物を持ったせいか妙にうまかった。
二つ目の町では、仕事より待つ時間の方が長かった。
店の裏口にはすでに荷車が二台詰まっており、前の一台から大量の樽が降ろされている。男たちが二人一組で転がしては店の中へ消え、また戻ってくる。
それを見たガルドは、何の迷いもなく馬車の陰へ座った。
「これ長くない?」
「長いな」
「別のとこ先に行けないの?」
ガルドは帽子を目の上まで下ろした。
「この荷物降ろさねえと次の荷物積めねえだろ」
「じゃあ待つだけ?」
「そう」
「どのくらい?」
返事がない。
「ガルド?」
もう寝ていた。
早い。
仕方なく一人で待った。最初は樽を降ろす様子を見ていたが、すぐに飽きる。暑い。風が弱い。馬の尻尾が何度も蝿を追い、向かいの店から肉を焼く匂いが流れてくるたびに腹が鳴る。
前世でも待機は嫌というほどあった。あの頃も長かったはずなのに、何もせず座っている時間は今もやっぱり長い。
ようやく前の荷車が動き出し、ガルドの肩を軽く叩く。
「空いた」
「……おう」
目を開けた頬には板の跡が一本、くっきり残っていた。
「顔に線ついてる」
「見るな」
寝起きの不機嫌な声のまま、ガルドは荷台へ上がった。
そこからは急に忙しくなった。
箱を降ろし、袋を積む。俺が新しく受け取った袋を荷台へ置こうとすると、ガルドが手元も見ずに言う。
「奥」
「これ?」
「それ。次じゃ降ろさねえ。手前の箱は次、その小さいのは……いや、上置くな、潰れる」
一気に言われ、俺が一瞬止まると「貸せ」と奪うように受け取り、荷台の隙間へ押し込んだ。
さっきまで寝ていたくせに、こういう時だけ迷いがない。どこに何を置くか、いちいち考えているようにも見えなかった。
そこへ店の女主人が木箱を抱えてやってきた。
「ガルド、これもお願い」
差し出された箱にガルドは手を出さず、札だけ覗く。
「ハンスんとこか」
「そうそう。帰り道でしょう?」
「今日は行かねえ」
「すぐそこじゃない」
「街道から一本外れるだろ。明日そっち行く奴いるから、そいつに渡せ」
「ちょっとくらいいいじゃない」
「嫌だ」
女主人は呆れたように笑い、「相変わらず愛想ないわねえ」と木箱を抱え直した。
その背中を見送りながら、俺は口を開きかける。
「一個くらいなら――」
ガルドが振り返った。
何も言わない。
ただ、その顔だけで続きを言う気が失せた。
「……いや、何でもない」
ガルドは縄を締めながら、ぼそっと言った。
「一軒寄って五分、次で十分、その次も頼まれてみろ。日暮れまでに戻れなくなる」
珍しく少し長く喋ったと思ったら、それで終わりだった。
昼は町外れの木陰で食べた。母が持たせてくれた包みを開くと、黒パンに燻製肉とチーズ。
横を見る。
ガルドの方が明らかに肉が多い。
「そっち多くない?」
ガルドは一口かじり、しばらく咀嚼してから答えた。
「大人だからな」
「母さんが分けたんだけど」
「じゃあ俺の方が好かれてんだろ」
俺は黙ってガルドを見る。
ガルドもこっちを見た。
「……何だよ」
「アルトのお菓子」
「しつけえな」
「何食べたの?」
「忘れた」
「母さん覚えてたけど」
「母親って怖えな」
そこで話は終わった。
食後、ガルドは帳面を膝に置き、今日増えた荷物を書き足していた。行き先、数、受取先の名前。
横から覗き込む。
「全部覚えてる?」
「今は」
「じゃあ書かなくても――」
「明日も覚えてる保証あんのか?」
言葉を被せられた。
ガルドは書く手を止めない。
「客は一人じゃねえし、荷物も一個じゃねえ。頭で覚えてりゃいいなんて思ってると、そのうちやらかす」
書き終えると帳面を閉じた。
「俺も昔やった」
「何を?」
「昔の話」
父と同じ逃げ方だった。
午後に寄った農家では羊毛を積んだ。
近づいた瞬間、嫌な予感がした。
「くさっ」
思わず声が出た。
獣の臭いに、脂っぽい匂いが混じっている。袋を持てば、ざらついた布越しにも何となく湿った感じがした。
「これミレアまでだよな」
返事はない。ガルドは馬具を確認している。
「ガルド」
「あ?」
「俺、前座っていい?」
「荷台」
「でも臭――」
「落ちたら困る」
まだ言い終わっていないのに切られた。
「朝は俺いなかったじゃん」
ガルドの手が止まり、一度だけ振り返る。
「今日はいる」
それだけ言って御者台へ乗った。
少しして肩が揺れた。
「笑ってるだろ!」
今度ははっきり笑い声が聞こえた。
帰り道は、もう疲れの方が勝っていた。
尻が痛い。腕が重い。腰もだるい。服には埃が付き、鼻は羊毛の臭いに慣れかけている。
荷台は朝とはすっかり様子が変わり、減ったものもあれば増えたものもある。空いていた場所が別の荷物で埋まり、同じ馬車なのに中身だけが何度も入れ替わっていた。
俺は何となく縄を触った。
次に木箱を押す。
動かない。
前を見ると、ガルドが一瞬だけ振り返っていた。
目が合う。
向こうは何も言わない。
俺も何も言わなかった。
夕方、ベルナー商会の裏へ馬車を入れる頃には、荷物を降ろすのも嫌になるくらい疲れていた。
父が出てくる。
「おかえり。どうだった?」
俺は荷台から降りながら答えた。
「風呂」
「第一声がそれ?」
「臭い」
父が近づき、鼻をひくつかせる。
「ああ」
「その顔やめて」
「かなり羊だね」
「やっぱり?」
横で馬具を外していたガルドが笑う。
「大げさなんだよ」
父は今度はガルドの方へ寄った。
「ガルドも臭うよ」
「俺はいいんだよ」
「何がいいのか分からないけど」
最後の荷物を降ろす。
朝は普通に持てた箱が、今はやたら重い。
全部終わり、俺が腰を伸ばしたところで何かが飛んできた。
反射的に両手で受ける。
銅貨だった。
「今日の分」
ガルドは俺を見ずに、馬の首筋を撫でている。
「俺に?」
「他に誰がいんだ」
「でも――」
「働いたろ」
そこで話は切れた。
俺は手の中の銅貨を握った。
「ありがとう」
ガルドは背中を向けたまま、片手だけ上げた。
風呂へ入り、夕食まで少し休もうとしたところで母に捕まった。
掌には赤くなったところがいくつかあり、皮が薄く剥けている部分もある。
「手、見せなさい」
「大丈夫だよ」
「いいから」
薬を塗られる。
「痛っ」
「大丈夫なんでしょう?」
「大丈夫だけど、痛いものは痛いよ」
母は笑わず、布を巻き終えると俺を見る。
「明日は休みなさい」
「商会の手伝いくらいなら――」
顔を上げた母と目が合った。
「……はい」
母は最後に結び目を整え、少しだけ手を止めた。
「それで、どうだった?」
何のことか分からず顔を見る。
「一日よ」
少し考えた。
暑かった。重かった。暇だった。臭かった。手も痛い。帰ってきた今は、もう一歩も外に出たくない。
それでも。
「楽しかった」
口にしてから、自分で少し笑った。
「すごい疲れたけど」
母もようやく笑った。
「そう」
それだけ言って部屋を出ていった。
机の上へ、今日もらった銅貨を一枚ずつ並べる。
一枚、二枚、三枚。
全部で何枚あるかなんて、とっくに分かっている。
それでもしばらく眺めてから、俺はもう一度だけ最初から数え直した。




