第3話 ベルナー商会
第3話 ベルナー商会
五歳になる頃には、この世界の言葉で困ることはほとんどなくなっていた。
文字はまだ全部読めない。それでも店先の札や、自分の名前くらいなら分かる。
そして、歩けるようになってからというもの、俺は暇さえあればベルナー商会の店先にいた。
「エリク、そこ邪魔」
兄のアルトに言われ、一歩だけ横へ動く。
「これなら?」
「まだ邪魔」
「じゃあどこならいいの?」
「家」
ひどい。
アルトは笑いながら俺の横を通り、両手で抱えた小箱を店の奥へ運んでいった。
仕方なく壁際まで下がる。
そこなら誰にも怒られない。
たぶん。
ベルナー商会では朝からいろいろな人が出入りしていた。
野菜を積んできた農家。
羊毛を持ってくる牧場の人間。
店で商品を選ぶ商人。
荷物を受け取りに来る運び屋。
いつも同じ顔もいれば、初めて見る顔もいる。
店の奥へ入れば、穀物の乾いた匂いがする。別の日にはチーズの匂いが強くて、母が窓を開けていたこともあった。
「臭い」
俺が鼻を押さえると、近くにいた店の男が笑った。
「食うと美味いぞ」
「今は食べたくない」
「坊ちゃんにはまだ早いか」
年齢は関係ないと思う。
その日は特に匂いが強かった。
ベルナー商会が何をしているのかも、少しずつ分かってきた。
農家や牧場から品物を買う。
それを店で売ったり、別の商人へまとめて渡したりする。
穀物、野菜、果物、チーズ、バター、燻製肉、皮革、羊毛。
季節が変わると、倉庫の中身も変わった。
俺にはその変化が面白かった。
前世でも荷主の倉庫へ行くことは多かった。
ただ、その時は荷物を受け取れば終わりだ。どこから来たのか、なぜ今日そこにあるのかまで気にすることは少なかった。
今は逆だった。
品物が店へ入ってくるところから見える。
そして、出ていくところも見える。
ある朝、店の前に大きな荷馬車が止まった。
男が一人、荷台の横で縄を外している。
見覚えのある顔だった。
何度か店へ来ている。
「ガルド、今日は早いね」
父が店から出てきた。
「道が空いてた」
男――ガルドはそれだけ言って、荷台から袋を降ろし始めた。
父も手伝う。
俺は少し離れたところから見ていた。
一袋。
二袋。
三袋。
結構重そうだ。
「アルネスから?」
俺が聞くと、ガルドが一度だけこちらを見る。
「そうだ」
「何持ってきたの?」
「塩」
「全部?」
「見りゃ分かるだろ」
分からないから聞いたんだけど。
父が笑った。
「エリクは最近ずっとこんな感じなんだよ」
「知ってる」
ガルドは嫌そうな顔もしなかった。
面倒そうではあった。
荷物を全部降ろした後、今度は店の奥から別の袋が運ばれてきた。
「これもガルドが運ぶの?」
「そうだよ」
父が帳面を見ながら答える。
「どこまで?」
「アルネス」
さっきアルネスから来たばかりなのに、また戻るらしい。
「父さんの馬車じゃないの?」
「うちのじゃないよ」
「商会なのに?」
父が顔を上げた。
「商会だからね」
意味が分からない。
たぶん顔に出ていた。
父は少し考えてから、荷物を指差した。
「うちはこれを買って、売るのが仕事。ガルドは運ぶのが仕事」
「別なの?」
「別だよ」
それだけ言って、また帳面へ戻った。
詳しい説明はなかった。
でも店の裏には小さな荷車がある。
近くの農家から品物を運ぶ時に使っているのを見たこともある。
なのに、遠くへ行く大きな馬車は持っていない。
少し不思議だった。
数日後、別の運び屋が来た。
今度はアルネスではなく、南の町へ向かうらしい。
「今日はこれだけ?」
男が積まれた荷物を見た。
父が頷く。
「うん。革が三束と、小麦が四袋」
「小麦増えない?」
「増えないね」
「じゃあこのくらいか」
二人が値段の話を始めた。
俺にはまだ全部は分からない。
ただ、前にガルドへ払っていた金額とは違った。
気になって父の袖を引く。
「父さん」
「ん?」
「前と値段違う」
父が帳面を見る。
「そりゃ違うよ」
「同じくらいの距離じゃないの?」
「そうだね」
父は続きを言わなかった。
向こうの男が笑った。
「坊ちゃんに商売教えてんのか?」
「勝手に聞いてくるんだよ」
「荷物が違う。量も違う。俺とガルドじゃ値段も違う」
男はそう言って、自分の馬車へ戻っていった。
説明はそれで終わりだった。
「値段って人でも違うの?」
「違うよ」
「なんで?」
「さあ」
父が言った。
さあ、で終わった。
「父さん商人でしょ」
「商人でも全部は知らないよ。運び屋ごとに事情あるだろうし」
そう言いながら、父は男へ向かって声を上げた。
「急ぎじゃないから、無理して走らなくていいからね!」
「分かってる!」
遠くから返事が来た。
その馬車は昼前に出ていった。
それから俺は、運び屋が来るたびに値段を気にするようになった。
同じアルネス行きでも毎回同じではない。
荷物が多い時。
少ない時。
割れやすい物がある時。
急ぎの時。
そのたびに父と運び屋が何か話している。
父が先に値段を言う日もあれば、向こうから言う日もある。
たまに話がまとまらないこともあった。
「高いよ」
「なら他に頼め」
「そう言われると困るなあ」
「俺も安すぎると困る」
父が笑う。
ガルドは笑わない。
結局その日は、父が少し上げた。
俺にはどっちが勝ったのか分からなかった。
「ガルド、怒ってた?」
馬車が出たあと父に聞く。
「いつもあんな顔だよ」
確かに。
別の日には、父がなかなか運び屋を決められずにいた。
店の裏に荷物が積まれている。
羊毛とチーズ。
「これ今日出すの?」
「出したかったんだけどね」
父が外を見る。
誰も来ない。
「ガルドは?」
「今日は北へ行ってる」
「昨日の人は?」
「南」
「じゃあ誰が運ぶの?」
「さあねえ」
また、さあだった。
昼になっても荷物は動かなかった。
夕方になって、ようやく一台の馬車が来た。
でも行き先が違った。
「アルネスは明後日だな」
御者の男が言う。
父は少し悩み、結局その荷物を倉庫へ戻した。
「今日行かないの?」
「行かないね」
「大丈夫なの?」
「急ぎじゃないから」
父はそれほど気にしていない。
俺だけが、倉庫へ戻っていく羊毛を見ていた。
運びたい荷物がある。
でも運ぶ人がいない。
それでも商売は止まらないらしい。
何日かして、ガルドが戻ってきた。
荷台は空だった。
「何もない」
俺が言うと、ガルドが馬から鞍を外しながらこっちを見る。
「見りゃ分かる」
「アルネスから何も持ってこなかったの?」
「なかった」
「何も?」
「ミレアに来る荷物がな」
それだけ言って、馬の背を撫でる。
父が店から出てきた。
「おかえり。何かあった?」
「何もねえ」
「残念だったね」
「まあな」
二人とも、それほど大事なことのようには話さない。
ガルドは帰りに荷物があれば積む。
なければ空で戻ってくる。
そういうものらしい。
俺は空っぽの荷台を見る。
ここからアルネスへ送りたい荷物がある日は、運び屋を探している。
向こうでは、ミレアへ持ってくる荷物が見つからない日もある。
何となく変な感じがした。
「何見てんだ?」
ガルドに言われた。
「別に」
「ならどけ。馬入れるぞ」
慌てて横へ避ける。
ガルドが馬を引いていく。
蹄が石を打つ音が遠ざかる。
俺はもう一度、空の荷台を見た。
何が変なのかは、まだうまく言えなかった。
その夜、父が帳面を見ていた。
俺も横から覗く。
「読めるの?」
「ちょっと」
「ちょっとねえ」
父が帳面を少しこちらへ傾けてくれた。
数字なら文字より分かりやすい。
商品の数。
売った値段。
買った値段。
その中に、運び屋へ払った金もある。
思ったより大きい。
「これ、全部運ぶお金?」
「そうだよ」
「結構かかるね」
「結構かかるよ」
父はさらっと答えた。
「だから商会で馬車持たないの?」
聞くと、父は少し考えた。
「それだけじゃないけどね」
「じゃあ何?」
「馬を飼ったら毎日食べるだろう?」
「うん」
「暇だから今日は食べなくていいって言えないし」
「当たり前じゃん」
「馬車だって壊れるし、人もいる。毎日たくさん運ぶなら持った方がいいかもしれないけど、うちはそうじゃない」
途中で母が通りかかった。
「ヨハン、帳面」
「あ」
父の手が止まる。
「何?」
「昨日の分、まだ書いてない」
「あとでやろうと思ってた」
「昨日もそう言ってたわよ」
「……今やります」
説明はそこで終わった。
俺は横から追い出された。
店先へ出る。
もう外は暗くなり始めていた。
通りを一台の荷馬車が通る。
昼間とは違って、荷台には樽がいくつも積まれている。
どこから来たのか。
どこへ行くのか。
誰の荷物なのか。
気になる。
まだ何も知らない。
だから余計に気になった。
荷馬車が角を曲がるまで見送ってから、母に呼ばれて家へ戻った。




