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馬車一台から始める異世界物流  作者: 甘藷屋


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第2話 知らない世界

第2話 知らない世界


 赤ん坊になったと分かってから、しばらくの間、俺にできることはほとんどなかった。


 立てない。


 喋れない。


 腹が減れば泣くしかないし、眠くなれば勝手に寝る。


 中身だけはいい歳をした大人なのに、身体は完全に赤ん坊だった。


 何より困ったのは、周りの言葉がまったく分からないことだった。


 女が俺を抱き上げて何かを言う。


「――――、――」


 優しい声だ。


 たぶん俺に話しかけている。


 でも、一語も分からない。


 少し離れたところでは男が何か言い、女が返す。


 男が笑う。


 女は少し呆れた顔をする。


 何を話しているのか知りたいのに、音にしか聞こえなかった。


 最初のうちは、それが妙に怖かった。


 高速道路で胸が痛くなったところまでは覚えている。


 トラックを路肩へ寄せた。


 止めた。


 その後はない。


 そして次に目を開けたら、この身体だ。


 死んだ。


 そこまでは、たぶん間違いない。


 問題は、その後だった。


 夢にしては長すぎる。


 何度寝ても同じ場所で目が覚める。


 痛ければ痛いし、腹も減る。


 おむつまで替えられる。


 夢ならそろそろ勘弁してほしかった。


 数日なのか、もっと経ったのか。


 赤ん坊の身体で正確な時間なんて分からない。


 少しずつ目が見えるようになってくると、周りの景色も分かるようになった。


 木。


 石。


 白っぽい壁。


 天井には見慣れない梁がある。


 夜になると部屋は暗くなり、灯りは火だった。


 電灯がない。


 テレビもない。


 コンセントも見当たらない。


 たまたま古い家にいる、では説明がつかなくなってきた。


 ある日、抱かれたまま窓の外が見えた。


 馬がいた。


 その後ろに木製の荷車。


 道を歩く人間の服も、現代日本のものには見えない。


 そこでようやく、認めるしかなくなった。


 異世界。


 そんな言葉が頭に浮かんだ。


 自分で考えておいて、馬鹿馬鹿しいと思った。


 前世でそういう小説を熱心に読んでいたわけではない。


 でも、死んだ人間が別の世界で生まれ直す話くらいは知っている。


 まさか自分がそうなるとは思わなかった。


 試しに火でも出せないかと思った。


 何も起きなかった。


 念じてみた。


 やっぱり何も起きない。


 赤ん坊が布団の上で真顔になっていただけだ。


 やめた。


 誰かに見られていたら恥ずかしい。



 結局、最初にやることは言葉を覚えることになった。


 嫌でも毎日聞こえてくる。


 同じ人間が、同じ音を何度も使う。


 少しずつ意味が繋がった。


「クラリッサ」


 男が女をそう呼ぶ。


 女は振り返る。


 どうやら名前らしい。


 男の方はヨハン。


 少し大きな男の子はアルト。


 そして俺は、


「エリク」


 らしかった。


 クラリッサが俺を抱きながら、ゆっくり言う。


「エ、リ、ク」


 口元を見せるように、何度も繰り返す。


 真似してみる。


「え……ぁ……」


 全然違う音になった。


 クラリッサの顔がぱっと明るくなった。


 すぐ近くにいたヨハンまで寄ってくる。


「――? ――――!」


 何を言っているのかまだ全部は分からない。


 でも、たぶん喜んでいる。


 大人二人が赤ん坊の変な声ひとつで大騒ぎしていた。


 少し申し訳なくなる。


 その後も言葉は少しずつ増えた。


 食べる。


 寝る。


 駄目。


 待つ。


 こっち。


 危ない。


 家族の名前から始まり、物の名前が増え、短い会話が分かるようになった。


 言葉が分かるようになると、この家の空気も見えてきた。


 父のヨハンは、かなりのんびりしていた。


「エリク、今日も元気だなあ」


 俺を抱き上げる。


 すぐクラリッサの声が飛んだ。


「寝かけてたのに」


「少しくらい大丈夫だよ」


「昨日もそれで起こしたでしょう」


「昨日?」


 覚えていない顔をしている。


 クラリッサが黙って見た。


「……返してくる」


 俺は母の腕へ戻された。


 どうやら父は母に弱い。


 兄のアルトは、俺より数歳上だった。


 俺が這えるようになると、よく相手をしに来た。


「エリク、見ろ」


 木でできた小さな馬を持ってくる。


 目の前へ置く。


「馬だぞ」


 知ってる。


 とは言えない。


 手を伸ばして掴むと、アルトが満足そうに笑った。


「分かったみたいだ」


 たぶん分かっていないと思われている。


 そこは仕方ない。



 家の中だけでも、前世とは違うことが多かった。


 水は勝手に蛇口から出ない。


 灯りは暗い。


 冬は部屋の場所によって寒さが違う。


 服もごわごわしている。


 鐘が鳴ると、家の人間が動き出すこともあった。


 最初は何の音か分からなかった。


 ある時、鐘が鳴った瞬間に父が立ち上がった。


「まずい」


 クラリッサが帳面から顔を上げる。


「何が?」


「人と会う約束だった」


「忘れてたの?」


「今思い出した」


「それは思い出したって言わないでしょう」


 父が慌てて部屋を出ていく。


 しばらくして戻ってきた。


「上着忘れた」


 クラリッサは何も言わず、椅子に掛かっていた上着を指差した。


 俺は笑いそうになった。


 赤ん坊なので、実際には変な声が出た。


 父がこっちを見る。


「エリクまで笑ってる気がする」


 気のせいではない。


 この家は商売をしているらしい。


 それに気づいたのは、言葉がかなり分かるようになってからだった。


 家の一階には知らない人間がよく来る。


 隣の建物にも人が出入りする。


 袋や箱が運び込まれ、また出ていく。


 父と母の会話には、値段や数、仕入れといった言葉がよく出た。


 アルトも少しずつ店の仕事を教わっている。


 俺だけはまだ何もできない。


 歩けるようになるまでは。



 最初の一歩は、感動的なものではなかった。


 立った。


 一歩出した。


 転んだ。


 泣いた。


 中身が大人でも痛いものは痛い。


 ただ、一度歩けると分かると、家の中を動き回りたくなった。


 母には何度も止められた。


「そっちは駄目」


「……」


「エリク」


 方向を変える。


「そっちも駄目」


 行くところがない。


 それでも隙を見て、店の方へ向かった。


 廊下を抜けた瞬間、家とは違う匂いがした。


 乾いた草。


 穀物。


 革。


 木箱。


 少し土っぽい。


 嫌いではなかった。


 むしろ、懐かしい感じがした。


 倉庫の匂いに似ている。


 前世で何度も嗅いだ、荷物のある場所の匂いだ。


 そのまま奥へ行こうとしたら、誰かの脚にぶつかった。


「おっと」


 見上げる。


 父だった。


「エリク?」


 どうしてここに、という顔をしている。


 俺も同じ顔をした。


 見つかった。


「一人で来たのか?」


 答えられない。


 父は俺の後ろを見る。


「クラリッサー?」


 遠くから母の声が返ってきた。


 内容は聞き取れなかったが、たぶん父の責任ではない。


 父は俺を抱き上げた。


「外は危ないから駄目だぞ」


 その時だった。


 店の入口の向こうを、大きな荷車が通った。


 木の車輪。


 馬。


 積まれた袋。


 御者台に座る男。


 車輪が石の上を転がるたび、がたがたと音がする。


 身体が勝手にそちらを向いた。


「ん?」


 父が俺の視線を追う。


「ああ、馬車か」


 馬車。


 聞いたことのある言葉だった。


 俺は父の肩越しに、それが通り過ぎるのを見た。


 トラックとはまるで違う。


 遅い。


 小さい。


 荷台はむき出し。


 でも、何をしているのかは分かる。


 荷物を運んでいる。


 その瞬間だけは、前世がやけに近く感じた。


 高速道路。


 荷台。


 伝票。


 積み下ろし。


 待機。


 長い道。


 最後に見た赤いテールランプ。


 全部一瞬だけ蘇った。


 父が俺の顔を覗き込む。


「そんなに珍しい?」


 当然、まだうまく答えられない。


 俺はもう一度、遠ざかっていく馬車を見た。


 この世界でも、物は勝手には動かない。


 誰かが積んで、誰かが運んで、誰かが受け取る。


 そこだけは同じだった。


 馬車は角を曲がって見えなくなった。


 それでもしばらく、俺はそちらを見ていた。


 父が小さく笑う。


「好きなのかな、馬車」


 今のところ。


 たぶん。


 俺は父の服を掴んだまま、さっき馬車が消えた通りを眺めていた。

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