第1話 最後の運行
第1話 最後の運行
その日は、朝から嫌な予感がしていた。
別に事故を見たわけでもない。車の調子が悪かったわけでもない。ただ、身体が重かった。
眠いというより、だるい。
肩の奥に鉛でも入っているみたいで、ハンドルを握っているだけなのに腕が妙に疲れる。それでも休むほどではないと思った。
そういう日は、今まで何度もあった。
俺は大学を出た頃、ちょうど就職氷河期の真ん中にいた。
入りたかった会社には入れなかった。
二社目も駄目。
三社目も駄目。
途中から何社受けたのかも覚えていない。
結局、拾ってくれたのが運送会社だった。
最初は、とりあえず働ければいいと思っていた。
まさか、そのまま何十年もトラックに乗り続けるとは思っていなかったが。
「次、何時着ですか?」
スマホから聞こえる声に、前を見たまま答える。
「予定なら夕方。荷下ろし次第ですね」
『今日、向こう混んでるらしいですよ』
「また?」
『たぶん待ちます』
「了解」
通話を切る。
また待機か。
思わずため息が出た。
荷物を積むために待つ。
降ろすために待つ。
順番が来るまで待つ。
でも、時間になれば走れと言われる。
トラックに乗ったことのない人間には、運転している時間だけが仕事に見えるのかもしれない。
実際には、その前も後ろも仕事だ。
荷台へ上がって積む。
荷物を締める。
伝票を見る。
指定された場所へ走る。
着いたら待つ。
降ろす。
また走る。
日によっては、荷物より待ち時間の方が長い。
時計だけが進んでいくのを運転席で眺めるのは、何年やっても好きにはなれなかった。
それでも、運転そのものは嫌いじゃなかった。
むしろ好きだった。
夜の高速道路。
一定のエンジン音。
前へ流れていく白線。
目的地まで何百キロあろうが、走り出してしまえばやることは分かっている。
安全に着ける。
荷物を壊さない。
それだけだ。
単純で、だからこそ気が楽だった。
問題は、それ以外だった。
休めと言われても休めない。
急げと言われても道路は縮まない。
待たされた時間は消えないのに、到着時間だけは変わらない。
昔よりは多少ましになった。
それでも、何もかも良くなったわけじゃない。
若い頃なんてもっと酷かった。
手積み手降ろしは当たり前。
何時間待たされても、仕事をしていない扱いになることがあった。
会社へ戻ってからの作業まで含めれば、何時から何時まで働いているのか自分でもよく分からない。
残業代?
そんなもの、全部まともについていたらもう少し人生は違ったかもしれない。
今さらだが。
高速を降りる。
信号待ちで首を回した。
痛い。
「歳だな……」
独り言が増えたのも、いつからだったか。
若い頃はラジオを流していた。
途中から音楽になった。
そのうち何もつけない時間が増えた。
一人で走る仕事は、人に気を使わなくていい。
代わりに、気づけば丸一日ほとんど誰とも喋っていないこともある。
配送先へ着いた。
予想通り、トラックが並んでいた。
「最後尾ここですか?」
窓を開けて聞く。
前の運転手が顔を出した。
「たぶん。俺もさっき来たばっか」
「どれくらい待ってます?」
「二十分くらい」
男が前方を見る。
「でも全然動いてねえな」
「ですよねえ」
笑うしかなかった。
エンジンを切る。
急に静かになった。
シートを少し倒す。
休める時に休んでおく。
そんな癖が、もう身体に染みついている。
目を閉じる。
眠れるかと思ったが、胸の辺りが妙に落ち着かなかった。
痛いわけではない。
少し圧迫されているような感じがする。
「……食いすぎたか?」
朝はコンビニのおにぎり二つだった。
食いすぎではない。
水を飲んだ。
少し楽になった気がした。
気のせいかもしれない。
前のトラックが動いた。
慌ててシートを起こす。
「おっと」
エンジンをかける。
結局、荷下ろしが終わったのはかなり後だった。
身体を動かしたせいで、今度は腰が痛い。
受領書を受け取ってトラックへ戻る。
運転席へ座った瞬間、しばらく動きたくなくなった。
でも帰らないと終わらない。
帰り荷はなかった。
空の荷台で、そのまま営業所へ戻る。
何も積んでいないトラックは軽い。
加速も違う。
燃料は使う。
高速代もかかる。
俺の時間も使う。
なのに荷台は空だ。
「もったいねえな」
昔から、何度思ったか分からない。
行き先が同じトラックが何台も走っている。
荷物を降ろした車が空で帰る横を、別の車が逆方向へ荷物を運んでいく。
もちろん、そんな簡単な話じゃないことも知っている。
時間が合わない。
荷物が合わない。
車が合わない。
契約もある。
積む場所も違う。
何十年も現場を走っていれば、空車を全部なくせるなんて思わなくなる。
それでも。
もう少し何とかならないのか、とは思う。
人まで何日も家を空けて、荷物と一緒に何百キロも行って、そのまま戻る。
俺もずっとそうしてきた。
それが仕事だった。
だから疑問に思わなくなっただけなのかもしれない。
夕方を過ぎ、空が暗くなった。
高速道路へ入る。
今日の帰宅は何時になるだろう。
家へ着いたら風呂に入って寝る。
明日は――。
「……っ」
急に、胸が痛んだ。
反射的に右手を胸へ当てる。
「何だ……?」
痛い。
さっきの圧迫感とは違う。
胸の奥を強く掴まれたような痛みが走り、息が詰まった。
ハンドルを握る左手に力を入れる。
まずい。
そう思った。
路肩。
前を見る。
今いるのは走行車線。
後ろから車が来ている。
急に止まるな。
ハザード。
指が上手く動かない。
「くそ……」
何とかスイッチを押す。
点滅を確認する余裕はなかった。
アクセルから足を離す。
左へ。
ゆっくり。
急ハンドルだけはするな。
胸がさらに痛んだ。
息を吸いたいのに、うまく吸えない。
視界の端が暗くなる。
「まだ……」
止めろ。
車だけは。
人を巻き込むな。
それだけ考えた。
何十年もトラックに乗ってきた。
最後に事故を起こして誰かを殺すなんて、そんな終わり方だけは嫌だった。
左へ寄せる。
タイヤが路肩へ入る振動が伝わった。
ブレーキ。
強く踏みすぎない。
後ろ。
ミラー。
車が抜いていく。
大丈夫。
もう少し。
トラックが止まった。
サイドブレーキ。
手が滑った。
もう一度。
かかった。
「……よし」
声になったか分からない。
背中がシートへ沈む。
痛い。
身体が冷たいのに、額には汗が流れていた。
スマホ。
救急車。
そう思った。
ポケットへ手を伸ばした。
届かない。
もう一度。
指先が動かない。
「参ったな……」
変なところで笑いそうになった。
こんな時まで一人だ。
ずっと一人で走る仕事をしてきたから、別に珍しくもないはずなのに。
目の前では車が走っている。
一台。
また一台。
赤いテールランプが遠ざかっていく。
あの中にも荷物を積んでいる車があるんだろう。
どこかからどこかへ。
誰かが必要としている物を運んでいる。
俺もずっとそうしてきた。
大学を出た時、こんな人生になるとは思っていなかった。
望んで始めた仕事でもなかった。
辞めようと思ったことも何度もある。
それでも、結局ずっと乗っていた。
好きだったんだろう。
荷物を運ぶことが。
ただ。
もう少し上手いやり方はなかったのか。
そんなことを考えた。
人が荷物と一緒に遠くまで行く。
待つ。
運ぶ。
空で帰る。
また次の日も走る。
もっと荷物だけを上手く動かせたら。
運転する人間まで、ずっと遠くへ連れていかなくても済むようにできたら。
若い頃の俺も、もう少し家へ帰れただろうか。
考えても仕方のないことだった。
今さら変えられない。
胸の痛みが少し遠くなった。
楽になったわけではない。
感覚そのものが薄れている。
まずいな。
そう思ったところで、不思議と焦りはなかった。
トラックは止めた。
誰にもぶつけていない。
それだけは確認できた。
「もう一回くらい……」
何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。
もう一度やり直せるなら。
今度は。
最後まで考える前に、視界が消えた。
次に意識が戻った時、最初に感じたのは眩しさだった。
次に、寒さ。
身体がひどく重い。
誰かが大きな声で何かを言っている。
女の声。
知らない声だった。
「――――、――!」
何を言っているのか分からない。
外国語?
目を開けようとする。
ぼやけて何も見えない。
身体を動かそうとして、さらに混乱した。
手が上手く動かない。
足も。
というより。
小さい。
「……?」
声を出したつもりだった。
出たのは、自分でも驚くほど頼りない泣き声だった。
誰かに抱き上げられる。
温かい。
また知らない言葉が聞こえた。
意味は一つも分からない。
頭の中は動いている。
記憶もある。
高速道路。
胸の痛み。
路肩へ止めたトラック。
なのに今の身体は、どう考えてもおかしい。
もう一度声を出そうとした。
やっぱり泣き声しか出なかった。
どうやら俺は。
死んだだけでは、済まなかったらしい。




