第15話 雨のアルネス
第15話 雨のアルネス
乾物屋から二度目に受けた仕事の日は、朝から空が暗かった。
荷物は乾燥果物の箱が五つ。前回より二つ多い。
箱の数と目立つ傷を確認してから荷台へ積み、縄を掛ける。最後に雨除けの布を広げて、風でめくれないよう端まで留めた。
店先まで見送りに来た母が空を見上げる。
「降るわね」
「たぶん途中で」
「帰りが遅くなりそうなら、アルネスで泊まりなさい。暗くなってから走るのは駄目よ」
「そのつもり」
「本当に?」
「そこは信用してよ」
母は返事の代わりに、俺の荷台をもう一度見た。
父も店から顔を出す。
「雨なら道が遅くなるかもしれないから、急ぎすぎないようにね」
「分かってる」
「ロイも滑るから」
「父さんよりは気をつけてるよ」
「僕、馬車から落ちたことないけど」
母が振り返る。
「一度あるでしょう」
「あれは落ちたんじゃなくて――」
続きは聞かずに出発した。
ミレアを出た時には、まだ雨は降っていなかった。
風だけが冷たい。
街道を行く馬車の多くが、荷台に布を掛けている。俺だけが警戒しているわけではないらしい。
最初の水場を過ぎた辺りで、頬に冷たいものが当たった。
数滴だった雨は、あっという間に音を立て始める。
荷物は大丈夫。
問題は道だった。
石の多い幹線はまだ走れるが、車輪が跳ねるたび泥水が飛んでくる。前の馬車も速度を落としていた。
俺も手綱を緩める。
「ゆっくりでいいぞ」
ロイの背中が雨に濡れていく。
今日は早く着くことより、ちゃんと着くことの方が大事だった。
しばらく進むと、前の馬車が止まった。
その先も動いていない。
嫌な感じがする。
ロイを道端へ寄せて降りると、少し先で荷車が斜めになっていた。片側の車輪が泥へ深く沈んでいる。
御者と連れの男が二人で押しているが、ほとんど動かない。
「横、通れます?」
待っていた別の御者が首を振った。
「今日は無理だな。端も柔らかい」
見れば分かる。道の脇へ寄った跡が、そのまま深い轍になっていた。
待っていても動きそうにない。
俺が近づいた頃には、後ろから来た男たちも何人か集まっていた。
「押すぞ!」
声が上がる。
肩を荷台へ当てる。
一度目は駄目だった。
足だけが泥へ沈む。
二度目も車輪が少し浮いただけで、すぐ戻った。
「板ないか!」
荷車の持ち主が荷台の下から板を引っ張り出す。何人かで泥を掻き、車輪の後ろへ差し込んだ。
もう一度。
馬が前へ出る。
男たちが押す。
車輪が板へ乗り、そのまま泥から抜けた。
「出た!」
力を抜いた瞬間、足元が滑った。
片膝が泥へ入る。
「うわっ」
横にいた男が吹き出した。
「今のは綺麗だったな」
「笑う前に手貸してください」
「悪い悪い」
腕を掴まれて立つ。
膝から下がひどかった。
雨で薄まった泥が、靴の中まで入っている。
馬車へ戻る途中、後ろを見ると列がかなり伸びていた。
思っていた以上に時間を使った。
そこからは、空ばかり気になった。
雨は強くなったり弱くなったりする。
ロイを急かす気にはならない。
でも遅い。
前へ進んでいるのに、アルネスが遠く感じた。
門が見えた頃には、普段ならもう荷物を降ろしているくらいの時間だった。
しかも門前に列ができている。
「今日は全部遅いな……」
ロイの首筋を軽く叩く。
ようやく街へ入った時には、もう帰りのことを考える余裕がほとんどなかった。
指定された食料品店へ着く。
店先へ馬車を寄せると、中から男が出てきた。
「大変だったな、その格好」
自分を見る。
膝の泥は乾きかけて、余計に汚くなっていた。
「途中で荷車がはまって、道が止まりました」
「こっちも今日は遅れてる馬車ばっかりだよ。荷物は平気?」
「濡れてないと思います」
「見ようか」
二人で荷台へ回る。
布を外す。
箱は五つとも無事だった。
外側は湿っているが、中へ水は入っていない。
男が最後の箱を閉じた。
「問題ないよ。ありがとう」
「よかった……」
思わず息が抜けた。
「ずいぶん心配してたんだな」
「この仕事、自分で取った二回目なので」
「じゃあ次も頼まれるようにしないとな」
男は笑い、受け取りの印を押した。
そのくらいの言い方が、今はありがたかった。
店を出たところで鐘が鳴った。
足を止める。
空はまだ明るい。
でも、ここからミレアまで戻れば途中で暗くなる。
朝から雨の中を歩いたロイも疲れている。
今日は帰れない。
そこは迷わなかった。
「泊まりか……」
宿代。
ロイの餌。
自分の食事。
予定にはなかった出費が頭に浮かぶ。
仕方ないとは思う。
暗い道を走るより、ずっといい。
ただ、金が出ていくことには変わりない。
泊まると決めたなら、まだ店が開いているうちに少し回っておきたかった。
さっきの食料品店へ戻る。
「ミレア方面へ出す荷物、何かありませんか?」
「うちには今日はないな」
男は店の外を覗いた。
「隣の商会なら聞いてみてもいいかも。あそこ、南西へも出してるから」
「ありがとうございます」
隣へ行く。
なし。
もう一軒。
そこにはミレアとは違う方向の荷物しかなかった。
通りへ戻る頃には、店先に出ていた箱や袋を中へ運び始める店が増えていた。さっきまで行き交っていた荷車も減っている。
雨の日だからなのか、いつもより早い気がする。
もう一軒だけ入ったが、そこでも見つからなかった。
外へ出ると、通りが急に広く感じた。
今日はここまでだ。
明日の朝、もう一度探す。
できれば空では帰りたくなかった。
馬を預けられる宿を探す。
以前、父と来た時に見た宿が空いていた。
「一人と馬一頭で」
宿の主人は俺の顔より先に足元を見た。
「先に泥落としてくれ」
「はい」
水を借りる。
靴の隙間から、まだ泥が出てきた。
ロイの身体も拭き、餌を頼む。
ようやく自分の部屋へ入った時には、腕も脚も重かった。
狭い部屋だった。
ベッドと小さな机。
濡れた服を掛ける。
座ったら動きたくなくなった。
夕食は煮込みとパンだった。
温かいだけでうまい。
食べながら、今日使った金を思い出す。
宿代。
餌。
食事。
これで帰りが空なら、今回の仕事は思っていたほど残らない。
雨が悪い。
道が悪い。
誰かが悪いわけではない。
だから余計にどうしようもなかった。
パンをちぎる。
明日は朝から店を回ろう。
そう決めて、今日は考えるのをやめた。
翌朝。
窓を開けると、雨は止んでいた。
雲の切れ間から光が差している。
まだ濡れている道を歩き、先にロイを見る。
餌は食べている。
脚も問題なさそうだった。
「今日は帰るぞ」
声をかけてから、すぐ馬車へ乗ることはしなかった。
昨日荷物を届けた店へ行く。
まだ店を開けたばかりだった。
「朝から悪いんですけど、何かミレア方面ありませんか」
「うちはないよ。ただ、向かいが昨日そっち方面って言ってたな」
礼を言って向かいへ行く。
店主が倉庫から木箱を二つ出してきた。
「ミレアまでは行かない。途中のレイン村までならある」
「帰り道です」
箱の中は陶器だった。
布と藁が詰めてある。
割れ物なので、状態も見る。
問題なさそうだ。
運賃を決める。
「それでお願いするよ」
まず二箱。
荷台へ載せる。
まだかなり空いている。
そこから、前に一度荷物を受けた商会へ行った。
店の前では男たちが朝の荷物を運び出している。
「ミレア帰りなんですけど、何かあります?」
「ちょうどいい」
返事が早かった。
小さな革袋が一つ。
届け先はミレアの靴屋。
大きな仕事ではない。
それでも昨日の空荷とは違う。
革袋を荷台へ置いた時、少しだけ肩が軽くなった。
もう少し探すか迷ったが、朝の荷車が増え始めていた。
ここから粘りすぎれば、今度は帰りが遅くなる。
今日は二件で出る。
ロイに馬具を付け、アルネスを出た。
昨日、荷車がはまっていた場所を通る。
道には深い轍だけが残っていた。
そこを避けて馬車が一台ずつ進んでいる。
俺も続く。
レイン村で陶器を降ろす。
受け取りに出てきた女が箱を開け、中を見る。
「割れてない。よかった」
「昨日は雨がひどかったので、アルネスで泊まったんです」
「その方がいいわよ。無理して暗い道走られて、これ全部割れた方が困るもの」
笑いながら箱を抱えていった。
昨日の判断を褒められたわけではない。
それでも少し気が楽になった。
ミレアへ戻った頃には、昼をかなり過ぎていた。
先に靴屋へ革袋を届ける。
受け取りをもらってから、ベルナー商会へ戻った。
兄が荷台を覗き込む。
「帰り、仕事あったんだ」
「二件」
「宿代くらい戻った?」
「全部は無理」
「でも空よりいいだろ」
「それはそう」
ロイを外していると、母が出てきた。
俺の顔を見る。
次にズボンを見る。
「昨日より汚れてない?」
「昨日のが残ってるだけ」
「洗ってそれ?」
「かなり落としたんだけど」
母は何も言わず、家の入口の方を見た。
「外で脱ぐよ」
「よろしい」
先に言っておいて正解だった。
父には受け取りの紙を渡した。
行きの五箱。
帰りの二件。
全部無事。
「大変だったね」
「雨の日って毎回あんな感じ?」
「毎回だったら誰も商売したくなくなるよ」
それはそうだった。
父は紙を返す。
「ロイ休ませてあげな」
「うん」
今日はそれで十分だった。
最後に乾物屋へ寄った。
女主人は受け取りの印を確認すると、俺の泥の残った服を見た。
「ずいぶん苦労したみたいね」
「途中で道が止まって、昨日はアルネスに泊まりました」
「そこまで遅れたの」
「荷物は全部無事です」
「それならよかった。ありがとう」
女主人は紙をしまう。
「またアルネスへ出す時、頼んでもいい?」
昨日の宿代が頭をよぎった。
雨がひどい日まで、いつもと同じ条件で受けるのは少し怖い。
「普通の天気なら、前と同じくらいで大丈夫です。昨日みたいな雨の日は、その時に相談させてください」
「分かったわ。無理して走られても困るものね」
それで話は終わった。
店を出る。
昨日とは違って、空が明るい。
石の隙間にはまだ水が残っていた。
一つ避ける。
次も避ける。
三つ目で踏んだ。
靴に水が染みる。
「……もういいか」
そのまま家まで歩いた。




